コミュニティ運営って、一体なにをしている仕事なのだろう、としばしば考えることがあります。

イベントを企画したり、場を盛り上げたりすること、そして、ルールを整えて、新しく入ってきた人が馴染みやすいようにすることなど、もちろん、そういう一連の行為も大事な仕事なんだけれど、8年以上コミュニティ運営をやっていると、決してそれだけではないよなあ、という感覚が強くあります。

もっと長い時間をかけて、目に見えない何かを育てているような感覚。

それは、メンバー全員に同じ価値観を持ってもらうことではないんですよね。もちろん、同じ思想に一様に染めあげてしまうことでもない。

むしろ、まったく違うひとたちが、違うままで、でもどこか少しずつ似てくる、そのうえで感じられる「安心感」が生まれてきますようにと日々祈りながら、手入れをしている感覚です。

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で、最近、そのことを考えているときに、ふとウィトゲンシュタインの「家族的類似性」という言葉を思い出しました。きっかけは先日もご紹介した100分de名著。


ウィトゲンシュタインは「ゲーム」を例に出していました。チェスも、サッカーも、トランプも、子どものごっこ遊びも全部ゲーム。

でも、それらすべてに共通する「ゲームの本質」のようなものを取り出そうとすると、どこかで必ず無理が出てきてしまう。

勝敗があるものもないものもあるし、競争があるものもないものもある。ルールがはっきりしているものもあれば、かなり曖昧なものもある。

それでも、僕らはそれらを「ゲーム」と呼んでいるだろうと、語るのです。

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つまり、そこにあるのは、すべてに共通するひとつの本質ではない。

あちこちが少しずつ似ていて、部分的な類似がゆるやかに重なり合っている状態。その重なりによってこそ、私たちはそれをひとつのまとまり、束として見ているんだと。

そして、家族もそうだろうって語るのです。ここがウィトゲンシュタインの慧眼。

家族(親戚などを含む一族)と全員に共通する、たったひとつの特徴があるわけではない。

それでも、なんとなく似ている。どこが似ているのかと聞かれると、はっきりとは答えられないし言語化もできない。

でも、見ればわかる。確かに、そこに似ている感覚を抱いてしまう。

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この話は、コミュニティ運営にもかなり近いのではないかと思います。

コミュニティの「らしさ」も、本来はひとつの理念や定義では説明できない。

「安心安全な場であり、多様性を尊重します」とか「我々はこれを大事にしています」と明言する。そういうよく聞く言葉も、もちろん間違ってはいない。

でも、それだけでは、その場の本当の質感は伝わらないんだよなあ、と思うのです。本当に大事なのは、もっと細かい生きたコミュニティ内での「ふるまい」や「なりふり」の集積なのだと思う。

誰かが投稿したときに、すぐに正解を押しつけない。まず相手の文脈を想像するし、すぐに断罪せず、でも、曖昧なまま放置もするわけでもない。

そういう小さなふるまいが、長い時間をかけて積み重なっていく。

そうすると、あるときにお互いに、「ああ、なんかここの人たちって、少し似ているな」と感じるようになる。

でも、それはいわゆる「制服」のような同一性ではないわけです。もちろん、宗教の教義のような一致があるわけでもないし、会社の行動指針のようなものでもない。

それはもっともっと、にじみ出るような類似性です。

ひとつひとつを取り出してみても、それだけでは決定打にはならず、でも、全体を俯瞰して見ると、確かに似ているという感じ。

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つまり、その「似ている感じ」は、決してうまくは言語化できないということです。

どこが似ているのか、と聞かれても、はっきりとは答えられない。

これは本当によくWasei Salonメンバーに言われてしまうのですが、外部のひとにこのコミュニティのことを説明しようとするときに、説明しづらいと、苦笑いで言われます。

そのたびに、本当に申し訳ないなと思いつつ、でも、たぶん、いいコミュニティの「らしさ」は、そういうふうに立ち上がってくるものなのだと思う。

言葉づかいなのか、間合いなのか、問いの立て方なのか、それとももっと受動的な沈黙の置き方なのか。

たぶん、そのすべてなのだと思うのです。そして、決して、そのどれかひとつではない。

だから、マニュアル化はできないし、ルールにもできない。

むしろ、そうやって説明できないけれど、その場にいるひとには確かに直感的に感じられているものの中にこそ、コミュニティの固有性は宿るんじゃないかと、割と本気で思っています。

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このことを考えていると、最近、AIとのやりとりについても、ひとつ思うところがあります。

AIは、言語化されたものには本当に強い。理念や運営方針など、そういう文章を渡せば、AIはかなりそれらしいものを返してくる。

でも、「それらしい」と「その場が、ありのままに、その場である」は、やっぱり違うんだよなあ、と思います。

ここは、自分の中でも、まだうまく説明できない感覚なんだけれども、たとえば長く一緒にいた場合には「なんか違う」は一瞬でわかるはずです。

「いまこの瞬間に、家族的類似は明らかに断ち切られた」と。

その違和感は、たぶん自分の中の長い観測の蓄積から来ているのだと思うんですよね。

つまり家族的類似というのは、たぶん、対象の中に固定された特徴として存在しているわけではないわけです。

それを見続けてきた人間のほうに、少しずつ立ち上がってくるものなのだと思う。

だから、言葉にしようとしても無理。手渡そうとすると、フワッとすり抜けてしまう。

AIに渡せるのは、言語化できるものだけだから、その「言葉にならない部分」は構造上、渡しようがないんだよなあ、と強く思います。

これは、AIが劣っているという話ではない。むしろ、AIが言語化されたものを高い精度で扱えるようになったからこそ、はじめて、自分たちが何を言語化できていなかったのかが、輪郭として見えてきた、という順序なのかもしれないなと。

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ただし、もちろんここには明確な危うさもある。

「言語化できないものが大事」という言い方は、とても便利だけれど、便利だからこそ、ときに「なんとなく合わない」という排除にもつながるはずです。

「うちらしくない」という同調圧力なんかにもなってしまう。

だから、言語化できないものを大事にすることは、言語化を放棄することではない、というのは、いつも自分に対し言い聞かせています。

むしろその逆で、言い切れないからこそ、何度も何度も見直し、なんとか少しでもその片鱗を言葉にしようとしてみる必要性や必然性がある。

だから、今日もこうやってブログに書きながら、「言葉にならない」ということを一生懸命、言葉にしようとしている。

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で、ここまで毎日のように書いてきて、ようやくハッキリしてきたことは、たぶん自分が本当につくりたいのは、家族的類似を、参加しているメンバーひとりひとりに感じられる場所なんだと思います。

それが、濃すぎてはいけない。同一性が強くなると、息苦しくなるから。「うちらしさ」が固まりすぎると、外から来た人が入れなくなる。

でも、薄すぎてもいけない。何の共通性も感じられない場所には、人は根を下ろせなくなってしまうから。

その間のどこかであり、同一すぎず、でもどこか同一である、そんなアンビバレントな状態です。

言語化をしたり、解像度高くしたりして、眺めようとするとまったく同じではないのに、どこか直感的に連続していると強く感じさせてくれる安心感。

たぶん、自分が育てたいのは、ソレなんだと思う。

ソレは、なんと呼んだらいいのか、いつも迷ってしまいます。

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そしてここで思い出すのが、以前もご紹介をした凪良ゆうさんの『星を編む』という小説です。


その中で、ずっと心に残った一節があります。

血は水よりも濃く、つなげていくことの意味は大きい。その一方で、わたしたちのこの連帯をなんと呼べばいいのだろう。ぼんやりと、ゆるやかに、けれど確実につながっているわたしたちの「これ』を。よく言われるのは『疑似家族』だろう。けれどわたしたち自身のものを『疑似』と名づける、どんな権利が他人にあるのだろうか。


この一節を読んだとき、本当にそうだなあ、と思った。

血がつながっているわけではないし、国家の制度に守られているわけでもない。なにかわかりやすい理念を信じて、互いに結ばれているわけでもない。

でも、確かに何かを共有している何か、長い時間をかけて、少しずつ似てきた人たちの集まりがそこにある。

そして、凪良ゆうさんはそれを必死で「物語」という形において、僕らに教えてくれている。

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きっと「実家感」みたいな言葉が、たぶんいちばん近い気がしています。

ただ、ここで同時に正直に書いておかなければならないことがある。

実家は、決していいものとは限らないわけですよね。実家は、安心できる場所であると同時に、世界でいちばん息苦しい場所でもある。

そういう意味で、イエはすぐにムラになる。実家的なものの温かさと、実家的なものの重苦しさは、いつも表裏一体で、背中合わせなんです。

僕が「実家感のあるコミュニティをつくりたい」と語るとき、僕はその温かいほうだけを見ようとして居るような気がしていて、でも、僕がつくろうとしている実家は誰かにとっては、逃げ出したい実家になりうる。

そのことからは、決して目を逸らしてはいけないのだと思っています。

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現に、Wasei Salonを去っていった人もたくさんいます。理由を言わずに、静かにいなくなった人も多いです。

たぶんその中には、ここの「似ている感じ」が、しっくりこなかった人もいたはずなんですよね。僕が「いい類似が育ってきたな」と喜んでいるその同じ空気に対して、なんだか息苦しいと感じて、出ていった人がいるはずで。

家族的類似を育てるということは、同時に、その類似に馴染めない人を、そっと外へと押し出してしまうことでもある。

これは、絶対に避けられない。「開かれた親しさを大切にしたい」といくら唱えてみても、そのような親しさが育ては育つほど、その親しさの外側は必ず原理的には生まれてしまう。

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ただ、それでも僕は、イエのような場所をつくりたいだろうなあって。

そう考えると、たぶん本当に大事なことは、自分がつくっている親しみやすさが、誰かにとっての息苦しさにもなってしまう、ということを決して忘れないでいることなのだと思います。

言い換えると、去っていった人がいたことを、なかったことにしないこと。その人が感じた息苦しさは、Wasei Salonが育てた家族的類似の「影」の部分なのだから。

それを引き受けたうえで、なお、それでも日々淡々と手入れをし続けること。

理想のコミュニティ像を先に決めてしまって、最短距離で人を動員しようとすると、必ずどこかで無理が出てくる。

そうではなくて、日々、目の前の投稿に丁寧に反応したり、誰かの言葉を少し待ったり、迷っている人の隣にしばらく黙って座ったりしていく。

去っていく人の背中も、ちゃんと見送りながら彼ら・彼女らにもしっかりと感謝をする。

その積み重ねの先に、ある日ふと振り返ったら、「ああ、自分たちが欲していたのは、こういうものだったのかもしれない」と思える瞬間がきっとやってくると信じています。

そのときもきっと、完全に完成したわけではないし、問題は以前として山積みで、出ていった人のことも、たぶんずっと心のどこかに残り続けて、喪失感や寂しさもつきまとう。

それでも、なんとなく、ここが私たちのイエだった、と思えることを大切にしたいなあと。

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最後に、コミュニティ運営とは、一体何をしている仕事なのだろう、という問いに改めて答えておくと、

たぶんそれは、家族的類似を、薄すぎず濃すぎず、ちょうどよい濃度で育てながら、その類似が誰かを締め出してしまう影を、みて見ないふりをしないでいること、そんな仕事なのだと思います。

その両義性を抱えたまま、それでも、手入れだけはやめずに淡々と続けていく営みこそが、コミュニティ運営の本質。

少なくとも、自分がつくりたい場というのは、そういう営みの先にしか立ちあらわれてきてはくれないんだろうなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。