自立と言うと、どうしても「誰にも頼らず、ひとりで立てる状態」のように思いがちです。

でも、本当はもしかしたらそうじゃないではないかと、最近僕は思い始めています。

また、だからこそ、自立とは依存先を増やすこととも、語られがちでもある。

ただ正直に言えば、こちらの定義にも、どこか大きな違和感を抱えている自分もいます。

その違和感が一体どこから来ているのか、ずっとうまく言葉にできずにいたのですが、最近ようやく少しずつ、その輪郭が見えてきた気がしています。

今日はそんな一風変わった、自分なりの大胆な仮説になります。

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きっかけになったのは、「ボランティアする側の人間が、他人からボランティアされる側になっていたら意味がない」という、とても真っ当な指摘を改めて耳にしてから。

この点、たしかに、災害直後の現場では、その通りなのだと思います。

水も食料も寝床も足りないし、指揮系統も混乱している現場において、善意だけでやってきた無能な人間が、かえって現場のリソースを奪ってしまうことがある。純粋に足手まといなわけです。

だから「自己完結型のボランティアであれ!」と言われてしまう。

でも、それはあくまで「緊急時の作法」であって、平時の人間関係や共同体にそのまま当てはめてしまうと、かなり危ういのではないかとも、同時に思うんですよね。

むしろ平時においては、助けに来た人が、逆に助けられる側になっていることにこそ、意味や価値ががあるのではないか。

最近は、強くそう思うようになりました。

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もっと誤解を恐れずに言うと、誰かをケアしようとしているときほど、社会からケアが必要な立場のひとは、結果的に自分が立てている構造にあるのではないかと。

つまり、誰かからの支援が必要な人間ほど、実は自分よりも弱い人間を支援することによって結果的に「自立」することができる。

これは、書いていてもなかなかラディカルな意見だなと自分でも思います。

「弱い人間は、ケアされるべき存在だ」というのが、今の社会の大前提なので。

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でも、様々な現場を観察していると、本当にそう感じるんですよね。

ふだんは支援される側にいる人が、自分よりさらに弱い誰かを支えようとしたときに、その人の表情がふっと変わる瞬間がある。

たとえば、親子なんかもそうだと思います。

このひとが、独身でひとりでこの世界を生きるとなれば、無理ゲーだろうなと思う人が、子どもがいることで、意外と自立できていたりする場面を、本当によく見かける。

「自分は、ただ社会や世間の側からケアされるだけの存在ではない」というその事実が、その人自身をそのひとの能力以上に生かしはじめるというような。

これは、そうやってケアしている時に「人間的に立派になる」という話ではないんです。「誰かの役に立てているから価値がある」というそんな単純な話でもない。

ただ、人間というのはやっぱり、自分がいないと困る存在を持ったときに、いちばん自立に近い様相でいられるようにできている、元来、そういう生き物なのだと思います。

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そう考えると、現代社会で語られがちな順序には、やはり何か決定的な見落としがあるような気がしてならない。

「まず自立せよ。そのうえで、他者(子どもや弱い人)を支えよ。」

逆に言えば、「自分以外の他者を助けたいのであれば、自分の足元が固まってからにせよ」という呪いみたいなものが、現代ではあまりに強すぎる。

「親ガチャ」という言葉が、自立できない人間は人様の親になるな、という無言のプレッシャーを与えてしまう。

あとは、昔からよく語られる「修身→斉家→治国→平天下」のような話もそうです。

この順番は、たしかに論理的にものすごく正しく聞こえます。

でも、それがもし本当に真理だとしたら、そもそも人類はここまで続いてこなかったのではないかと、僕は思うのですよね。

だって、そんな強い存在ばかりじゃないですから、人間は。

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本来は、自分の人生、つまり「修身」さえままならない人間が、あえて子どもを育てる。

自分ひとりさえ支えられない人間が、そうやって自分よりも弱い誰かを支えようとする。その無理やりの中にこそ、そのひとの足場や居場所が自然と生まれてくる。

そうやって、なんとか両者が一緒に立てる構造が生まれてくるんじゃないか。

人類はずっと、そういう危うい相互扶助、綱渡りの中で生き延びてきたのだと思います。

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で、よくよく考えてみれば、兄弟姉妹というものもそうですよね。

一人っ子の子どもが、お兄さんやお姉さんに値する存在に成長してから、弟や妹ができるわけではない。

まだ自分のことしか考えられない自己中心的な幼稚な子どものところに、自分よりさらに弱い存在として赤ちゃんがやってきて、そこではじめて兄になり、姉になっていく。

兄や姉に値する存在になるまで待っていたら、一生、兄弟姉妹なんてできない。

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また、ビジネスの現場でも「立場が人を育てる」とよく言われます。

これも実体験を通して、本当にその通りだなあと思います。

弱いからこそ、まだ部下を持つに値しない存在だからこそ、先に立場を手に入れることのほうが実は大切。

「自立してから支える」のではなくて、「支えようとする関係性の中で、両者が同時に育っていく」という構造。

この順番こそが、本当はずっと人類の本流だったのではないか、僕はいま本当に強くそう思うのです。

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にも関わらず、今は災害現場の論理や、SNSでの毒親の炎上が世論の中心にありすぎて、まずは自立を求める意識のほうが強すぎるし、それが完全に社会の呪いになってしまっている。

ボランティアされる側のような人間が、子どもをつくるなんて愚の骨頂だといわんばかりに、です。

そして、責任感が強く、誠実でマジメで、自分に自身がないひとほど、それがあまりにも正論だと思うから、一歩を踏み出せない。

まずは自立からと一生懸命に努力しているうちに、婚期や昇進の機会を逃す。

でも本当は、それは社会やコミュニティ全体で抱える課題やタスクであり、個人はもっと勇気を持って踏み出したほうが、結果的に支え合う構造が、自然と世の中に増えていくはずなんです。

逆に言えば、自立できているひとたちが親や上司になればなるほど、世の中の自己責任論は、より加熱していくことも論理的な帰結であり、必然です。

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正直に言うと、僕も、自分ひとりの人生は重すぎるなあと感じることが、最近よくあります。

「自分の幸福を自分で設計しなさい、自分の機嫌を自分で取りなさい、自分の価値は自分で社会に対しいて示しなさい。」そういう声に囲まれてしまうと、人はむしろどんどん不安定になっていくものだなあと。

その要請を、ちゃんと実現できる人がいることも間違いない。

でも僕は正直、それだけでは立っていられない人間のほうが、世の中には、むしろ多いんだろうなと感じています。

言い換えると、自分ひとりのためだけに、この社会で自立して立つことのほうが、よっぽど難易度が高くて、むずかしいことだと僕は思う。

自分のためだけだと、どこかで急にこの世の全部がどうでもよくなってしまう瞬間だってやってきてしまいますからね。

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でもそこに、自分が支えないといけない誰か、そんな他者が介入してくると、少しだけ話が変わるはずなんですよね。

もちろんそれは、実子に限らず、動物でも、会社やお店、共同体でもなんでもいい。

「自分がいないと困るもの」が人生の中に入ってくると、自分の内側だけでぐるぐる回っていた不安が一気に外へ引っ張り出される。

自分のためには起き上がれないのに、誰かの朝ごはんをつくるためなら起き上がれる強さが、人間にはある。

自分の未来には何の責任を持てないのに、会社やお店など自分が始めてしまったものを「また明日も継続させねば」と思うから、明日もまたちゃんと生き延びようと思えてしまう。

人間というのは本当に、そういう不思議な生き物なのだと思います。

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そんなことを考えていたら、以前自分が書いた文章のことを思い出しました。


抱樸の奥田知志さんの言葉に強く惹かれて書いた一本です。

あのとき僕は、これを「支援」の話として書きました。支援は一方通行ではない、相互的なものなのだ、と。

それはそれで、間違っていなかったと今でも思っています。

でも、いま読み返してみると、あのとき自分が本当に言いたかったのは、もう少し別のことだったような気がするんですよね。

「支援が相互的である」ということ以上に、そもそも人間は、誰かを支える関係の中に身を置かなければ、自分の足場をちゃんと得られない生き物なのではないか。

当時の自分には、まだそれをうまく言葉にする力がなかったのだけれど、今日このタイミングで、なんだかそれがやっと腑に落ちた気がします。

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ただ、この話は気をつけないと、すぐに危ういほうへ転がってしまうのも、また事実。

「だから弱い人にも、ケアする役割を与えればいい」「自立できない人ほど、子どもを持てばいい」と読まれてしまうと、それは僕の言いたいこととは、ほぼ正反対の話になる。

ここで本当に言いたいのは、そういう「べき論」ではなくて、観察の結果の話なんですよね。

「ままならなさを引き受けよ」と言いたいわけではない。ただ、現にそういうことが起きているという観察の話が、僕はここでしたい。

そして、これは事後的にしか見えてこない構造でもあるんだ、ということを強く主張したい。

「支えようとして、支えたのではなかった。気づいたら、誰かを支えてしまっていて、そのこと自体に、自分自身も支えられていた。」

引き受けたから立てたのではなく、立っていたのはすでに何かを引き受けてしまっていたからだったのだ、というその事実。

「ままならなさを増やせば、健やかになる」のではなくて、もうすでに、ままならない関係の中にいたことに、あとから気づくという、その順番が大事なんです。

逆に言えば、昔から、それを世間が「立場」という曖昧なものを本人に無理やり一方的に押し付けることで、ギリギリのところで機能していたんだろうなあと。

ここを取り違えてしまうと、すぐに搾取の論理に回収されてしまうから要注意だなとは思っています。

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で、ここまで考えてきて、ようやく最初の違和感の正体がわかってきた気がします。

「自立とは依存先を増やすことだ」という定義は、すごく大事な定義ではあります。

誰にも頼らないことが自立だ、という強がりからは、人をちゃんと解放してくれる。

ただ、この定義はやはり、自分が、どこから支えを受け取るかの話なんですよね。依存の主体は、あくまで自分。他者は自分を支える資源や資産として、複数化されていく。

たぶん、僕がずっと感じていた違和感はここなのだと思います。

人間にはもうひとつ、別の層が明確に存在する。

人は、支えられることで立つだけではない。支えてしまっているものに、いつのまにか支えられていることでも、ちゃんと成り立っている瞬間が訪れる。

人はずっとゲストでもいられないし、ずっとホストでもいられない。あるときは迎えられ、あるときは迎え入れる役割を担う。

そのクルクルとした入れ替わりの往復の中で、ようやく人は立っていられる。以前書いた以下の話とも、たぶん地続きです。


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だから、いま自分なりに「自立」を言い直すのならば、自立とは、誰にも頼らず、ひとりで完結することではない。それはたぶん、自立というより、孤立に近いはずで。

だからといって、自立とは、ただ依存先を増やすことだけでもない。

それだけだと、自分は支えられる側にとどまったままになる。薄い関係性が無限に広がっていくだけです。

支えているつもりで、支えられている。そういう絶え間のない往復運動の中で、人はようやく本当の意味で倒れずにいられる。

回り続けていないと、逆に倒れてしまうコマ、みたいなものなんでしょうね。

だとすれば、それがどれだけ自分に依存している厄介な存在だったとしても、自分のことをコマのように回し続けてくれている存在に対しては、日々深く感謝をしたいなあと、僕なんかは強く思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。