企業やブランドの商品、アーティストの作品などによって生まれている経済圏やコミュニティが美しくないと、もうクールじゃないなと最近強く感じます。

これは、従来には存在しなかった全く新しい価値観だと思います。

以前までは「数の論理」が中心で、その質までは問われることがありませんでした。

具体的にはユーザー数や売上、認知度ランキング上位であることがこれまでの評価の対象だった。

そこに一体どんな人々が集い、どんな場の雰囲気が形成されているのかは、見て見ぬふりをされてきたと思います。

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なぜなら、以前は「メディア」が限定されており、作り手側が受け手側に丁寧な説明を行えなかったからです。

それをコントロールすることは事実上不可能でした。

しかし、現代のようにSNSが当たり前のように存在する世の中になると、ユーザーからのフィードバックも簡単に得られ、双方向性が担保された状態になります。

そうすれば、作り手側がある程度の方向性を促すこともできる。つまり、そこにはもう「コントロール可能性」が十分に存在するわけです。

仕掛ける側がちゃんと意識すれば設計できるところを、「自分には一切責任がない」と無視し続けている状態は、やっぱりあまり美しくない。

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たとえばわかりやすく、アートの文脈で考えてみましょう。

これまで、アート作品単体の評価でそれが優れているか否かの正否は決まっていました。

でも、いま問われているのは「そのアート作品に興味を持って、その鑑賞に訪れた観客も含めて美しいかどうか」だと思うのです。

もっと極端に言えば、観客も込みで「作品」になっているというような。観客も一体となって生まれている景色を俯瞰的に眺められ、そこに作り手としての責任の意識が存在するかどうか。

どれだけ素晴らしい作品であっても、その注目度だけをひたすら高めて、人を散々集めておきながら、その空間が人でごった返していたり、お客さん同士で喧嘩や言い争いが起きていたり、みんなが不安に陥りメンヘラ化して不健康な状態に陥っていたら全然クールじゃない。

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人々が集まったときに、健やかな状態を保つこと。

そもそも、一番根底にある目的は、そこにあるはずなのです。

つまり、主従が逆なんだと思います。

「作品」を世に発表するということは、人々に何かしらの反応を求めていて、その「手段」として実行しているわけですよね。

にも関わらず「作品(商品)」をつくって人を集めるだけ集め、儲けるだけ儲けておいて、「あとは知らん、群がるやつは勝手に群がれ」という態度はもう許されない。

それは、TwitterやFacebook、Yahooのようなプラットフォーム事業においても言えること。

これまでの社会構造的には、コントロール可能性がないという理由から黙認されていたのかもしれないけれど、今はもう時代が完全に変わってしまったということです。

「丁寧な説明」はちゃんと行うことができる。それをやらずに無法地帯になっていることは、ただ説明をサボっているだけだと見做されるようになりました。

参照:https://wasei.salon/blogs/5a77cc28a7af

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このWasei Salonも本来はただの空間であり、箱でしかありません。

メンバーのみなさんと一緒に、掲げている5つの価値観(誠実、簡素、健康、自然、尊重)をお互いに体現し、僕らのテーマである「私たちのはたらくを問い続ける」場としてしっかりと機能していることに、本当の価値がある。

どれだけ崇高な目標を掲げて、人が集まっていたとしても、それが一人ひとりの中で実践されて形になっていなければ、何の意味もありませんからね。

つまり、その場に集う人々のエネルギーの「循環」こそが本当の価値だと僕は考えます。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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