最近なんだか「星座を見出す」という話を聞く機会が一気に増えたなあと思います。

無数に広がる星、そのような事実や現実の中から、そこに意図的にでも無意識的にでも、星座を見出す能力こそが世界を動かしてしまっていること、それが原因なんだろうなあと思います。

そして、大抵の場合は、この星座を見出す話はネガティブに語られる場合のほうが多い。

「それはおまえが見出した星座に過ぎないだろう」といったような批判的な文脈において、です。

もしくは、もう少し中立的に「そもそも人間という生き物は、星座を見出す生き物だ」というような形で、世の中の構造理解という文脈で語られる場合も多い。

なんにせよ、この星座を見出す話が、ポジティブに語られるのは、大人の世界においてはビジネスのハック文脈だけだと感じています。

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でも一方で、子供の教育の場面においては「星座を見出せ!見出せ!」って教えられるわけですよね。

夜空に浮かぶ無数の星の中から、星座を見出すように自己の創造性を発揮すること。それこそが、子どもの教育現場では尊ぶべき良いことになっている。

具体的には、子どもの自主性こそが重んじられるべきであって「そのファンタジーの世界に、いつまでも浸っていなさい」とまで言われる。

逆に、すでに大人が描いた星座が、これほどまでに嫌われている時代もなかなかないと思います。

僕らの時代は、すでに大人が描いた星座を暗記することこそが勉強であり、それが「子どもの仕事」でもあったはずなのに、今は「創造性(主体性)を育てる」という大号令のもとに、星座を自分で見出すことこそが奨励されている。

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だから現代の子どもたち、もしくは、Z世代以降のそんな教育を受けてきた若者たちは、その教育に対して従順になって意気揚々とファンタジーの世界、つまり「あちら側の世界」で自分らしい星座を見出してきたわけです。

でも、いつの間にか子どもから大人扱いをされて、ふと気づくのは「あいつの頭の中は陰謀論に溢れている、もしくはお花畑だ」と言われるような場面に頻繁に遭遇することになる。

もしくは、誰かがそのような生贄やカモになっているのをネット上で見かけて、自分自身がそちら側にハマってしまわないようにと過度に怯えている。

この「梯子を外される」ような体験が、現代の若者が抱える漠然とした不安の根源であるように思います。

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つまり、その違いを誰も教えてくれない。

そして、どうやって、ここを乗り換えるのか自体もひどく曖昧だし、大人たちもいまいちよくわかっていないことだと思うのです。

なぜなら、自分たちは最初からすでに見出されている星座だけを、必死に暗記させられてきたわけですから。

で、このあたりの葛藤が、今の時代において「考察」文化がこれほどまでに若者に流行っている理由のひとつにもつながるよなあと思ったんです。

今日の主題もこのあたりからになります。

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この点、文芸評論家の三宅香帆さんは、ご自身のPodcastの中で「現代は考察が好かれていて、批評は嫌われている」という話をされていました。


この時代の気分のようなお話は、なんだかとてもよくわかるなあと思いながら聴きました。

ここでいう批評とは、作者の意図さえも超えて、作品から新たな意味や価値を見出す、主観的で創造的な行為。

つまり、そこに新しい星座を積極的に見出していこうとする行為です。

一方で、作中に散りばめられた伏線やヒントを拾い集め、作者が本当はこのように意図したであろうというたったひとつの「正解」を導き出す行為、それが考察。

つまり、作者が思い描いた通りの既存の星座その答えを探す行為です。

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前述した矛盾の中で育った若者たちは、主観的な解釈(=批評)を恐れ、作者の意図やエビデンスに基づいた「正解」を求める考察文化に傾倒するのも、当然だと思います。

陰謀論や頭の中がお花畑な大人たちを見て「そうはなりたくないんだ!」という極端な恐れから、批評よりも「考察」を求めて「たったひとつの正解が知りたいんだ!」ということなのだと思います。

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結果として、若者たちが大人になると「答え」だけを追い求めるようになる、そのジレンマ。

子供のころに大人たちから必死で「星座を見い出せ!」と吹き込まれたがゆえの逆説が、ここにあるよなあと思うのです。

つまり、大人たちが強いてきた「星座を見い出せ!」の欺瞞に対して、若者たちなりの必死の抵抗が、これほどまでに「考察」文化をネット上で花開かせる要因にもなったんだと思います。(とても皮肉なことですが)

そして、たったひとつの答えは「作者」しかわからないはず。であれば本人公認だったり、再生数、いいね数が多い順番に考察や解説を読んだほうがいいよね、となる。

同時に「批評なんて、そんな恣意的な星座の描き方が許されるわけがないだろう」と思うのも、ごもっともだと思います。(もちろん実際にはそうじゃないのだけれども。)

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あと、現代においてはカンタンにその作者、つまり本人にも直接「考察」や「批評」が届いてしまう。だから、批評が嫌われる原因のひとつでもあるように思います。

先日も書いたように、かつて作り手は「舞台の上」だけの存在でしたが、今はSNSでファンと直接交流する「舞台の下」にまで降りてきてしまいました。


そして、SNSで日常的に発信しているクリエイターや演者たちも、圧倒的に増えたわけです。

そこには当然のように抗弁権も発生し、自分の思惑とは違う批評がなされていれば「それは違う!」と一言物申したくなるはずですし、「実際のところどうなんですか!?」というファンからの質問やコメントも、日々彼らのもとに届くわけです。

つまり、「真実を答えろ」という圧力に日々晒されているわけですよね。

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また、切れ味の鋭い批評であればあるほど話題になるし、それが図星であればあるほど、違うとも言いたくなるのは人間の性でもある。

そして、本人が「違う」と一言だけでも言ってくれさえすれば、ポリコレ棒で叩きたいひとたちは、「妄想はやめろ!ご本人様が違うと言っているんだ!」と、頼まれてもいないのに書き手を叩きに行き、燃やしに行くわけです。

彼らにとっては何が正しいかではなく、「正解」がひとつに確定することであって、好き勝手に星座を描いているひとを叩くことが生きがいでもあり目的でもあるわけですから。

これがファンとつくり手側が直接つながってしまったこと、舞台の下にクリエイターや演者が降りてきてしまったことの功罪でもあると思います。

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あと、三宅さんが同じPodcastの中で語られていて、すごくおもしろいなと思ったのは、考察においては「考察している人の名前、誰が考察しているかという要素は重要じゃない」という視点です。

なぜなら、正解が一つという前提だから、誰が言っていてもいい。学校の先生に教えてもらおうが、予備校の講師に教えてもらおうが、YouTubeで答えを見つけようが、どの経路であっても、答えは答え。

一方で、批評というのは「小林秀雄の批評」というように「誰が書いた批評であるかが、非常に重要な要素なんだ」と。

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三宅さんは、このような考察文化全盛期には、むしろ、固有名が逆にストレスになるのではないか、とも語っていて、その話もすごくおもしろいなと思います。

実際、近年のYouTubeの考察文化は「中田敦彦のYouTube大学」をベースにしたような似たようなフォーマットで考察動画がバンバンつくられているし、「ゆっくり解説」に至っては非常に匿名性も高い。

また、考察文化における火付け役の noteなんて、まったく同じフォーマットの中にみんなが自分の考察を書いているわけですよね。

あのフォーマットは「書き手なんて重要じゃない」ということの最たる例だと思います。

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「パッと見だけでは、誰のページか、誰のブログかわかるカスタマイズなんて絶対にさせないぞ」という、note社側のとても強い意志のあらわれですし、全員が同じ制服、同じ人民服を着ているような光景こそに、noteの価値がある。

もちろん、それはnote側の思惑だけでなく、そこに対して従順でありたいと願う書き手たちの願望の投影でもあるかと思います。

つまり見事な蜜月関係。

「なるべくアノニマスに、バレたくないけれど、でもバレたい」みたいな現代人のアンビバレントな承認欲求を本当に見事に扱っているなあと思わされます。

そして当然、そこにはストレスなく書き手、つまり固有名を無視して考察(正解だけ)を読みたいと願う読者たちの願望が、何よりも深く投影されている。

「世間ではこれが正解の見方とされている」を、noteというフォーマットにおいて、SEO上位という二段階で確証さえ得られていれば、読み手にとっては書き手はもはや誰だって構わないわけですから。

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さて、このように現代は「星座を見出す」ことがひとつの大きな争点となっていて、その見出した星座(物語)によって、政治も経済も社会も、すべてにおいて星座の見出し方次第の勝負となっている。

そんな空中戦が日々世界中で行われていて、自分たちの推し活など地に足のついた場面においては、考察を大事にしたいと思わされている。

客観的なファクトが崩壊し、世の中が完全に分断してしまって、それぞれが見たい星座を見たいようにしか見ていないのが、現代です。

そして、これからは、その星座をAIが無限に書いていくようにもなる。

AIは、たしかに既存の膨大なデータから最も「確からしい」とされる伏線を回収し、整合性の取れた「考察」を生成することを得意とすることも、間違いないはずです。

それは、人々が求める「正解」を効率的に提供する、究極の「考察」を提供するはず。というか、すでにそうなっていますよね。

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しかし、そのAIが描く星座というのは、過去のデータに基づいた「最大公約数的な星座」になりがち。

そこに、時代を切り開くような新しい意味や価値を見出す「批評」の精神、つまり、誰も見たことのなかった「新しい星座」を描き出す力があるのかといえば、多分ない。

そこには必ず人間、その固有名が必要なわけですよね。そうじゃないと、僕らはただのAIのエラーであり、外れ値としてしかみなさない。

そんなときに、本当に必要な星座を見出す力、世間に求められている役割はなんだろうなと、引き続きこのブログの中でも考えていきたいなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。