昨日と今日、連日でF太さんとの対談を2日間にわたってVoicyで配信しました。



普段は、Voicyに連日で対談コンテンツを公開することはないのですが、今回は内容が見事につながっていて、特に2日目のプレミアム配信の方では、まさに”神がかった”お話を聞くことができたので、例外的に、連日配信という形式を取りました。

それぐらい、今回のF太さんは、本当に素晴らしい視点を語ってくれたなあと思っています。

決して多くは語りません。もし「自己対話」というテーマに興味があれば、ぜひ実際に直接本編を2本とも聴いてみてください。

きっと新たな発見があるはずです。

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さて今日は、この対談を受けて改めて考えた「好奇心」について、それが「成熟」とどう異なるのか、それをこのブログの中で改めて深堀りしてみたいと思います。

「おしゃべりと好奇心にうつつを抜かす現代人」と、ハイデガーの『存在と時間』をもとに書かれた飲茶さんの『あした死ぬ王子』のなかで表現されていました。

でも、現代において一般的には好意的に受け止められているのも「好奇心」。

特にAIが出てきてから、このあたりの空気感はより一層加速している気がしています。それゆえに、このあたりは今一度考えてみたい問いだなと感じていました。

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では改めて、ハイデガーがなぜ「好奇心」を批判したのかと言えば、それらは人間が「死」という根源的な問いから目をそらすための都合の良い手段となり、本当に生きるべき道から遠ざけてしまうと考えたから、だそうです。

でも、一方で現代社会では、好奇心は「精神的な若さの象徴」として賞賛されがちですよね。

「いつまでも、新しいことに興味関心を持ち続けよう、そのためにAIを活用しよう!」というメッセージは「肉体的な若さ」と同じように、アンチエイジングやネット上の自己啓発の文脈で頻繁に目にします。

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この点、確かに健全な好奇心は、新しい世界を広げてくれる。

しかし、それが執着に変わってしまうと、対象に心が取り憑かれてしまい、逆に自由を失ってしまう。

これは仏教的に言えば、「だから純粋な好奇心は良くて、執着は手放せ」と整理できるという話にもつながっていきます。

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でも、さらに現代では、そんな純粋な好奇心であっても「キャラ付け」や「商品」として消費されてしまう危うさなんかも、秘めているなと思うのです。

言い換えると、最初は独自の趣味や探求心だったものが、メディアやSNSで注目され、他者にも役立つもの、喜ばれるものとなる。それをお金や影響力にも変換できるようになってくると、いつしかその構造に最適化するための「他者に見せるための好奇心」へと変質してしまうケースが頻発している。

承認欲求や自己実現の道具と化した好奇心というのは、本来の純粋さとは、大きく異なるものに変質してしまいます。

そう考えてくると、現代でもてはやされている「好奇心」自体が本当に良いものなのかどうかも、疑いたくもなってくるなあと。

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先日、Voicyで対談した最所さんが「(武道的な観点から言えば)好奇心なんて決して良いもんじゃない」とバッサリ切り捨てていたことも非常に印象的でした。

武道や宗教という「歯止め」が前提にあるからこそ、好奇心も輝くわけで、ただの好奇心の発露は、社会にとっては迷惑そのものだ、と。

繰り返しますが、現代の多くのひとは、若いころと同じような「好奇心」を持ち続けることを「若さの証」だと考えがちです。

そのほうが自己刷新を繰り返し、保守的にもならずに、いつまでも若々しく革新的の側でいられていると感じられるからなのでしょうね。

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しかし、僕はその一般的な認識というのは、実は真逆ではないか、と思ったのです。

ここが今日のテーマの中で一番大事なポイントだと思っています。

このあたりは非常にややこしい話をしてしまっている自覚はあるのだけれど、つまり、若い頃に抱いたような「好奇心」を持ち続けている態度こそが、むしろある種の「老化」なのではないか、と。

それは、自分が指した指そのものにこだわり続ける「居着いてしまっている」状態になってしまっているわけですから。

逆に最所さんのように、武道から学んだ歯止めと共に、自らの好奇心を抑制していくことのほうが、「初心者」の秘訣にもなり得る。

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この点、内田樹さんは、武道において「居着く」ことは、最も避けるべきことだとされています。

先日ご紹介した『凱風館日乗』という本から、再び該当箇所を引用してみたいと思います。

修行においては「この道の最終目標はどこか」「今、私は全行程のどの辺まで来たのか」「他の人たちと比べて、自分はどれくらい道をたくさん踏破したのか」というような問いは何の意味も持たない。
(中略)
意味があると思うと、そこに居着いてしまう。決して居着いてはならない。それが武道の最もたいせつな教えである。決して「できた」とか「わかった」と思わないこと。おのれを「永遠の初心者」とみなして、ひたすら歩み続けること。


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本来は、自らを「永遠の初心者」とみなす精神性、それこそが武道の本当の目指すべきあり方であるということなんでしょうね。

そして、それは「好奇心」とも瓜二つにも見える。だから、好奇心が現代ではこれだけ持て囃されるものにもなったわけです。

でもそれも、資本主義の構造において見事に飲み込まれてしまって、手段が目的化してしまった状態と言える。

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だとすると、僕らが本来、若さゆえの純粋さにおいて目指して向かっていた方角というのは、そんな「永遠の初心者」としての「月」だったはずです。

そして、その月を目指し続ける態度こそが、真の目的であったはず。

でも今は、自分が若い頃に指差していたその「指」のほうに、自分自身が取り憑かれてしまっている状態になっている。それがあるべき姿だと誤解をして、です。

それは、アンチエイジングに必死に励んで「見た目の若さ」をなんとか取り繕おうとする姿と、どこか似ているし、重なる部分があるなと思うのです。

かつて子供の頃に、月を指したその「指」に固執し続けるのは、若々しいようでいて、実は何も成長していない証拠どころか、ある種の退化でもあると言えるかと思います。

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では、なぜそんな好奇心という「幼稚さ」が、現代においては肯定されてしまうのか。

その背景には、きっと経済の構造的な要因も大きいのだと思います。

新自由主義のもと、売上や影響力といった分かりやすい成功と失敗における万人共通の「ものさし」が登場したことで、内面的な成熟よりも、結果を出し続けるための「好奇心」が無条件にメディア上でも肯定されてしまうようになった。

きっと世界で一番わかりやすい事例はイーロン・マスクです。

彼と実際に交流したことがある有識者、実際にインタビューをしているひとたちが頻繁に「彼の中には純粋な子どものような側面がある」と語る。この話は非常に象徴的だなと思います。

PayPalのような決済サービスに始まり、電気自動車、宇宙、TwitterやAI、そしてDOGEのような政府の効率化など、次々とフロンティアを乗り換え、環境が変わり、事業規模も拡大している。

しかし、その内面に宿るものはきっと、一切ほとんど変わらないということなんでしょうね。

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この点少し話はそれますが、僕が、歳を重ねるたびに最近強く思うのは、外的な環境とその人の内面的な成熟はまったく関係がない、ということです。

誰かに久しぶりに会ったときに、そのひとの置かれている環境が以前よりも華やかになっていても、中身がまったく成長していないなと感じる人もいれば、以前より質素な環境に身をおいていても、その成熟した姿に、深く感動させられる人もいます。

でも当然ですが、その成熟した姿勢から、若いひとのあり方を短絡的に批判するのも、また違います。

そうじゃなくて、最所さんがよく語られるように、「どっちの気持ちもわかる」という姿勢において、世代の間の価値観のズレに対して丁寧に橋をかけていくこと。

この橋渡し役こそが大切なのであって、それが本当の意味での「大人」の役割でもあり、先に生きる「永遠の初心者」としての人間、文字通りの「先生」としての役割なのだと思います。

「霊的成長は、つなげておいたから」という、あの話にも見事に通じるお話です。


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では、具体的には一体何を、どのように大切にすれば良いのか。

それが、F太さんとのプレミアム配信の中でも語られた「自己対話」だと思います。

あの中で、語られていた自己対話とは、現代で一般的に語られがちな、誰にも見られないような場所において日記をつけたり、ジャーナリングを行ってみたりというような「自己対話」とはまったく異なる。

むしろそれを行おうとすればするほど、泥沼にハマってしまうと、僕は思っています。

それは自己の中に存在するありのままの「欲望」を言語化してしまい、悪い方向への「居着くこと」にもつながってしまう。

少しだけプレミアムの内容をご紹介してみると、そうじゃなくて、「お天道様が見ている」というような価値観、もしくは「良心の呼び声」のような「声なき声」に対してしっかりと耳を澄ましていくこと。

いつだって沈黙している超越的な存在から、言葉を預かる存在としての「自己」を確立する姿勢こそが、本当に大事なんだろうなと思います。

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あと最後に、これは意外に思えるかもしれませんが、好奇心が減退していくなかで何事においても「めんどうくさい」と感じる自分の素直な感覚の中にも、大きなヒントが眠っていると思います。

このあたりは、以前もジェーン・スーさんのエッセイや、養老孟司さんの言葉をご紹介しながら、ブログにも書いたことがあります。ぜひ合わせて読んでみて欲しいなと思います。


今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとって、何かしらの参考となれば幸いです。