AI時代の本当の財産とは何か。最近、そんなことをよく考えています。

きっかけのひとつは、F太さんと続けてきたオーディオブックカフェが、先日ついに100回を迎えたことでした。

https://x.com/audiobookcafe33/status/2108447190918303760?s=20

100回記念の配信の終盤、ふたりで「100回も話してきて、結局、僕らには何が残ったんだろう」という話になりました。

始めた頃は、これだけ本を読んで話し続ければ、何かしらの答えにたどり着けるような気がしていたと思います。

でも100回という大台にのって、実際に手元に残ったのは、答えではなく「僕らはどう生きるか」という問いのほう。

そのとき、F太さんがふと「道標じゃないな、足跡ですね」と言い直したんです。

この一言が、なんだかずっと僕の心に残っています。

ーーー

答えや指針が残ったわけではないけれど、でも、一緒に読み、対話しながら悩んで、ときに脱線しながら歩いてきた跡は、確かにそこにあるだなあって。

そして、その足跡は、いまから積み上げようと思っても、もう積み上げられないものなんですよね。配信の中でも、ふたりでそんな話をしみじみとしてしまいました。

AIを使えば、100回分の107万文字ぶんの「対話らしき文章」は、きっといくらでも生成できるはずです。そこから音声もカンタンにつくることができる。

でも、AIが出てくる前からのあの時期に、あの本を、ふたりで読んできたという過去だけは、どれだけ計算資源を注ぎ込んでも、あとからつくることはできません。

ーーー

これは、Wasei Salon内のコミュニティラジオを聴いていても、強く感じることです。

メンバーしか聴けないコンテンツなので詳しい内容には触れませんが、最近の配信で語られていることなんかも、5年、7年と関わり続けてきた関係があるからこそ、お互いに出てくる言葉ばかりなんですよね。

本当に尊いことだし、文字通り「有難い」ことだなあと思います。

そして、AI以前から紡いできたこうした関係性は、AI時代になってから改めて紡ぎ直そうと思っても、もう絶対にできない。

こればっかりは本当に、絶対にできないし、これこそが、ほんとうの意味でプライスレスなものなんだと思うのです。

ーーー

この点、以前キングコングの西野亮廣さんがVoicyの中で、AI時代の「オリジナル」とは何か、というお話をされていました。

僕なりに受け取った趣旨としては、ゼロからイチを生み出すこと自体は、もはやコモディティになっていく。そうではなく、AIを使っても、あとからコピーができないもの。それこそがオリジナルの定義なのだ、と。

だからこそ、これからは事業承継が大事になる、というようなお話でした。

これには、聴きながらほんとうに強く共感しました。

ーーー

いま僕らが「ラグジュアリー」だと思っているものも、よくよく考えてみると、その多くは、お金をかけさえすればいくらでも生み出せるものだったりします。

そして、これからフィジカルAIが本格的に登場し、その人件費がロボットに置き換わり、どんどん下がっていけば、似たようなものはいくらでもつくれるようになっていくはずです。

いまはまだ、そこに大きな金額が乗っているぶん、希少に見えているだけ。

本当の意味でオリジナルとは呼べないし、その希少価値も、これからどんどん下がっていくのだと思います。

数十年先には「当時の人々はコレを希少だと思っていたの?うっそー!」ってフィジカルAIネイティブ世代から言われる時代が必ずやってくる。

ーーー

じゃあ、あとからコピーできないものとは一体何なのか。

僕がすぐに思い浮かべたのは、群言堂さんの「他郷阿部家」です。


島根県・石見銀山のふもと、大森町にある江戸時代の武家屋敷を、松場登美さんが十年ほどの歳月をかけて、実際にそこで暮らしながら直してきた宿です。

あの家には、登美さんの想いが、文字通りすべて詰まっています。どこを残し、どこに手を入れ、そこでどんな暮らしを営むのか、その一つひとつの判断と、日々の生活の積み重ねが、いまの空間をかたちづくっている。

だからこそ、日本中、世界中から訪れる人々が、いまも後を絶たないのだと思います。

仮に、あの建物とそっくり同じ意匠のものを、最新の技術を使ってどこかに建てたとしても、それは決して阿部家にはなりません。

その意味で、ラグジュアリーホテルよりも阿部家のほうが、本来はずっと唯一無二なんですよね。あれこそ、ほんとうにプライスレスなんだと思います。

参照:取り返しがつくのに、大切にする。必要じゃないのに、残したもの。

ーーー

ただ、ここまで考えてきて、ふと引っかかったことがありました。

古いもの、時間が積もったものにこそ価値があるとして、それならば、どうして日本では、古いものを大切にするのと同じくらい、いや、もしかするとそれ以上に、新しいものを喜ぶ感覚が根強いのだろう、と。

意外と不思議ですし、何がその原因なのかも気になります。

この点、最近おもしろいなと思ったのは、日本マクドナルドの創業者・藤田田が『起業家のモノサシ』という本の中で、日本人が「割り箸」を好むことを批判していた話です。

藤田田いわく、あれは使い勝手の問題ではなく、ある種の「処女信仰」なのだ、と。

まだ誰にも使われていないこと、自分が最初にソレに触れられること、など、その処女性にある意味で希少価値が宿る。

伊勢神宮の式年遷宮も、とてもわかりやすい例かもしれません。まだ十分に使える社殿を、20年ごとに、あえて新しく建て替えている。

「穢れ」を遠ざけ、真新しいものを尊ぶ。その感覚もまた、確かにこの国に根づいているものです。

さて、これは一体どう考えたらいいんだろうか、と。

ーーー

ただ、ここで僕は、こうした感覚を「非合理な信仰だ」と安易に否定したくはないなと思うのです。

それが長い時間をかけて、大切に受け継がれてきたということは、そこには一定の意味が必ずあるはずだからです。

そう思って改めて式年遷宮のことを考えてみると、見え方がガラッと変わってきました。

ーーー

式年遷宮は、たしかに社殿を新しくしている。でも、そこで長い年月にわたって受け継がれてきたのは、建物そのもの以上に、「造り替え続ける」という営みそれ自体のほうなんですよね。

仮に明日、AIとロボットを使ってまったく同じ社殿を寸分違わずつくれたとしても、式年遷宮を繰り返してきた歴史までは、決して手に入らない。

奈良・東大寺二月堂のお水取りなんかも、きっと同じだと思います。1200年以上途絶えることなく続いてきたからこそ、その系譜の中にあるからこそ、あれは誰にもコピーできないオリジナルなわけです。

つまり、式年遷宮は「新しくすること」によって、むしろ歴史を重ねている。

阿部家は、暮らしながら直すことで、時間をつないできたわけですが、伊勢は、造り替えることで、時間をつないできた。

一見すると正反対に見えますが、どちらも前の人から受け取ったものに、いまを生きる人が手をかけ、それを次の人へと渡しています。

それこそが、ほんとうの意味での「オリジナル」な循環なのかもしれないなあと。だからこそ、それを絶やさずに続けていくこと自体に、かけがえのない意味や価値が宿る。

ーーー

そして、たぶんそのカギになっているのは、「繰り返す」ということなんだと思います。

同じことを、何度でも反復すること。

「穢れ」の語源を「気枯れ」、つまり気が枯れることだと捉える民俗学の解釈があります。

僕らは同じ日常を生きているうちに、どうしても慣れて、疲れて、最初に感じていたはずの意味や目新しさ見失っていきます。

大切にしていたはずの関係や場所でさえ、ただ続いているだけで、だんだんと生き生きとは感じられなくなっていく。

まさに、気が枯れていく、萎えていくわけです。

だからこそ、改めて場を清め、新しいものを迎え入れ、同じ営みをもう一度行う。そうやって、枯れかけた気を、もう一度よみがえらせることが必要となる。

そう考えると、真新しい割り箸を尊ぶ感覚も、「誰かが使ったものは嫌だ」というだけでは捉えきれないのかもしれません。

そこには、次の時間を迎えるために、こちらの態度を整え直すという働きなんかもきっと含まれている。

だから、良くも悪くも、使い捨て信仰は、日本の中から消えない。

エコや、派手なお祭り騒ぎとは違う、静かなハレとケの往還が、そこにはあるのだと思います。

ーーー

お正月なんかも、まさにそうですよね。

年の瀬に家を掃き清め、新しい祝い箸を新たにおろして、年神さまを迎えるわけです。

しつこいぐらいに、毎年、同じことをただ繰り返しています。でも、去年のお正月をもう一度生き直すことはできない。

新しい年を迎える自分も、それを一緒に迎える人も、去年とは少しずつ違っているわけです。

だからこそ、お正月にはあの「心機一転」の感覚があるのだと思います。一年のあいだに少しずつ枯れていった気を、年の初めに、まとめて生き生きとよみがえらせるような。

そうやって、繰り返されるからこそ、その一回が、非常に逆説的なんですが、過去の一回一回とちゃんと結びついていくわけです。

ーーー

そう考えてみると、オーディオブックカフェも、まさにこの小さな循環だったんだなと気づかされます。

毎回取り上げる本は違うけれど、その場には、これまでの会話がちゃんと残っている。

昔の自分たちの言葉が、いまになってまったく別の意味を帯びて聞こえてくることもあります。

そして「その後、どうですか?」と聞き直すことで、長い付き合いの相手を、過去の理解の中に閉じ込めずにいられるわけです。

「あの人はこういう人だから」と決めつけてしまった瞬間に、関係はそこで動かなくなります。それもまた、ひとつの「気枯れ」なのかもしれません。

過去を一緒に抱えながら、いまの相手に、もう一度問いかけてみること。

Wasei Salonのコミュニティラジオで語られていることも、きっと同じなはずです。

毎週集まって話すたびに、5年、7年と重なってきた時間に、そのつど新しい息が、反復的にそこに通っていく。清々しい風が、そこに通るわけですよね。

ーーー

冒頭で、AI時代の本当の財産とは何か、と書きました。

最初は、それを「AI以前から積み重ねてきた時間そのもの」のことだと思っていました。もちろん、その実感はいまも変わらない。

でも、ここまで考えてきて、もう少しだけ新たに付け加えたくなる部分もあります。

それは、積み重なった時間に、何度でも新しい息を通わせられる営み、その循環が大事だということ。そして、それを一緒に続けてくれる人たちがいること。

それこそが、本当のAI時代の「財産」なのかもしれないなあと。

ーーー

そして、それは決して、自分ひとりで所有できるものではないんですよね。

一緒に話してくれる相手がいて、その場を受け継いできた人たちがいて、いまも続けられているから、僕はたまたまその巡りの中に、居合わせることができている。

100回を迎えられたこと。そして、また101回目にも心機一転、新しい本を読んで話せる仲間がいることのかけがえのなさ、です。

その「また」があることを、決して当たり前だとは思わないでいたいなあって心底思います。

ーーー

思えば、「あけましておめでとうございます」という言葉も、ひとりきりでは絶対に成り立たない言葉ですよね。

年が明けること自体は、誰のもとにも同じようにやってくるけれど、それを「おめでとう」と言い合える相手がいてはじめて、ただの日付の切り替わりが、祝うべき節目に変わるわけですから。

去年もそう言い合った人と、今年もまた同じ言葉を交わせる。その何気ない反復の中に、一緒に過ごしてきた時間と、新しく迎える喜びとが、同時に宿っています。

それはどれだけ技術が進んでも、あとからはつくることのできない豊かさ、なんだと思います。

ーーー

「プライスレス」というのは、どれだけお金を積んでも買えないという意味だけではなく、そもそも値段をつけることを目的に育まれてこなかった、ということでもあるのかもしれない。

ただ一緒に話したいから話し、関わりたいから関わってきた、その先で、気づけば5年、7年という時間が流れていた。ちゃんと足跡も残っている。

そして、今年も、今回も、その巡りの中に去年と、前回と、同じようにいられることの喜び。それがほんとうに、文字通りに「有難い」ことだなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のブログが何かしらの参考になったら幸いです。