今日は、昨日のブログの続きのようなお話です。


「高度資本主義社会がつくり出したデジタルマーケットや、SNSの影響力のヒエラルキー、それらの『外』に出る」ということについて、改めて少し掘り下げてみたいと思います。

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この点、昨今はヒエラルキーを意図的にハックするではなく、ヒエラルキーの外にでること、そのための呼びかけが少しずつ、でも着実に広がってきているなあと思います。

たとえば以前から語ってきた「適切な邪道」としての佐々木俊尚さんのフラット登山や、自炊料理家・山口さんが提唱する自炊のあり方なんかはわかりやすい。

それらは、ヒエラルキーを“ハックする”のではなく、その“外”に立つことを選び直す姿勢の現れだと思うのです。

じゃあ、なぜ今このような主張が増えてきているのか。

これまでも、似たような対立構造はあったはずなんです。でも今、この気運が盛り上がる理由が知りたいし、それを改めてこのブログの中で考えてみたい。

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で、きっとこれは、完全な揺り戻しなんだろうなあと思います。

グローバルマーケットやSNSなどの数字ですべてが判断される世界がドンドンと際立っていて、なんとなく漠然とした感覚で「画一化していく”ものさし”」に対して違和感を持つ人が増えてきた。

そして、今の特筆すべきところは、そこに生成AIが出てきたってことなんだと思います。

これによって、完全に終止符が打たれた気がしています。

これはなんだかおかしな話に聞こえるかもしれないけれど、ヒエラルキーのハックはAIで極限まで加速することがわかったからこそ、もうそのヒエラルキーの外へ出ようと決心するひとが増えているのだと思う。

つまり、安易な資本主義ハックは不毛だし、意味がないというのがわかってしまったのが、まさに今だということです。

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これを投資に喩えるとわかりやすい(かどうかはわからないけれど)、スイングトレードやスキャルピングトレードなど短期売買に関しては、ボットやAIに勝てないと変わったから、個人投資家がファンダメンタル重視の長期投資に切り替える、みたいなイメージです。

人間同士の争いならワンチャンあるかもとも思えた時代から「あー、これはもう無理だ」ってなったのが、ここ数年の大きな変化。完全に白旗をあげているイメージにも近い。

それは、たぶん飛脚が、馬や自転車だったらまだなんとか戦えるかもと思えていたような時代から、いよいよ自動車が出てきて、もう無理だって感じたように、です。

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きっとこれから大事なのは、ハックからデタッチメント。そのための、ヒエラルキーの外ということなんでしょうね。

昨日の話の具体例で言えば、あまりにも滑らかになりすぎてしまったデジタルマーケットに対するアンチテーゼとしての、手づくりやハンドメイドの商品がならぶ原始的でプリミティブな「市場(いちば)」その可能性。

で、ここで左翼的な人々やオーガニック思考が強い人々は、外だけを追い求めてしまう。

そうやって資本主義の真反対、理想的なユートピアを創り出そうとする。

でも、それはあまりに理想主義的すぎるとも思います。それはそれで間違いなく頭打ちする。デジタルマーケットや資本主義の外で、すべての生活を完結させるのは不可能です。

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そうじゃなくて、ヒエラルキーの外があるからこそ、ヒエラルキーの内側でも健やかに戦えるという状態が大切で、僕はそこを探っていきたいなと思うんですよね。

ここが今日一番主張したいポイントでもある。

これは言い換えれば、ヒエラルキーの内側だけだと、間違いなく疲弊してしまうということでもあります。

僕が目指したいのは、そのヒエラルキーの外があることで、ヒエラルキーの内側でも健やかに生きていける状態をつくること。

島根県・石見銀山の群言堂さんの言葉を借りると、「文化51%、経済49%」というあの話にも非常によく似ている。

どちらか一方に振り切らない。

両方を行き来する中で立ち現れてくる、自分たちの健やかな「あり方」や「暮らし方」を淡々と問い続けながら模索していくような姿勢です。

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それは非常に曖昧だし、「どっちかに振り切れよ!」と思う人もいると思うかもしれないけれど、でもそうしてしまうと、本当にありのままを受け入れられなくなる。

嫌な出来事も、ポジティブ解釈したり、コスパタイパ良くしたりという話になる。そうじゃなくて、この外と内の相互の行き来が大事だと思うのです。

そうすれば、わざわざ世界を曲解するような必要もなくなる。無理なポジティブ解釈も不要です。

で、このときに僕は本当の意味で「救われる」と思うのです。それは、以前Voicyで対談したおのじさんとのお話にも通じるお話です。


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ヒエラルキーの外に作り出した自分独自の「道」に対して、それぞれがそれぞれの歩幅で歩めるような状態が生まれてくる、ここが本当に大事。

そしてそのときに、昨日も書いたように真の意味での「私は、ここにいる」という感覚なんかも味わえるようになるはずで。

不特定多数や社会の中における順位や承認などは、もはや不要になるはずです。

現代は、ともすればAIに労働が置き換わるとか、SNSの煽りでオーディオション系の番組が流行りに流行ってしまっている結果、自分の存在価値に対して疑心暗鬼になってしまっている。

それゆえに、ただお互いの存在価値を肯定できる関係性を構築するという状態が、逆説的にものすごく意味を持ち始めているように思います。

そのときに、手づくりのものをお互いに享受し合う、そんな愛おしさのようなものを味わっていくということが一周回って本当に価値あることになってきているということなんでしょうね。

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で、きっと現代に限らず、日本人は常にずっとそうやって生きてきたと思うのです。

そうやって、自分たちの独自の文化を耕してきたはずです。

この点、最近読んでいる松岡正剛さんと田中優子さんの対談本『日本問答』という本の中に、日本社会の「内」と「外」の概念について、非常に興味深い話が書かれてありました。

以下で本書から少しだけ引用してみます。

田中    日本社会では、いまも「うちの会社」とか「うちの旦那」という言い方があるように、とても「内」を強く意識する。日本人はつねに「内と外」を分けているように見えるんです。

松岡    きっと「うち」と呼んでいる境界領域があるんです。山や川をひとつ隔てたくらいの風土的領域、風土ごとの風習や方言の領域、たとえば三河と尾張で内と外が分かれるというようなね。それから内輪とか内覧会とか内見という言葉がやたらに好きだといううちうち感覚もある。そういうものが日本独特の内外の境界性に作用していたんだと思う。
(中略)
田中. そう考えると、日本でインサイドが強調された理由は、むしろ膨大で多様な外がつねに内に流れ込んでいたので、消化と再構成、つまり新しい秩序をつくるために梳(くしけず)りつづけていたからではないかと思います。


この感覚が本当に大事だと僕は思います。

内と外、その両方があることで日本人は完全にどちらかに外に染まり切ることもなく、独自の思想や文化を発展させてきた。

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また、松岡正剛さんは以前もご紹介したことがある『面影日本』という本のなかで、日本がおかしくなるときは、結局「取り合わせ」の方法や「数寄の方法」を見失ったときだと書かれていました。

ひたすら海外のサイズをそのまま香みこもうとしているとき、そのままにロールとルールとツールをまるごと鵜呑みしようとしているときにおかしくなるのだと。

じゃあ一体どうすればいいのか。そしてそのときに何が問題なのか。

この点も非常におもしろかったので、改めてここで再び本書から引用してみたいと思います。

外からのものを受容しようとしていること自体が、問題なのではない。そんなことは古代このかたやってきたことなのだ。そうではなく、それらの”編集"をしなかったときが問題なのである。内外の文物や制度や思想を取り交ぜ、組み合わせ、数寄のフィルターをかけなかったことが問題なのだ。

いまの日本は「面影」と「余白」を失っている。大半をグローバルでデファクト・スタンダードな制度にしようとしているために、かつての「面影」と「余白」が消えて、むしろさまざまな局面で衝突をおこしている。過剰なのである。導入も過剰、反応も過剰、留保も過剰なのだ。


これは本当に素晴らしい助言ですよね。

この「過剰さ」をどう和らげるか。そして内と外を行き来しながら、どうやって再びにほんらしい行ったり来たり、そしてそのときに必要な「編集する力」を取り戻すかが大切なのだと僕は思います。

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で、そのときのカギになるのが、きっとコミュニティの力なんです。

今、大河ドラマで描かれている蔦屋重三郎のような話なんかは非常にわかりやすいですが、あんなふうに、あえて時代の中心にあるヒエラルキーの外で「編集」という文化を育むことが、日本の変革期のどの時代にも必要とされてきたはずで。

そのようなデタッチメント的なあり方が、逆にヒエラルキーに対して明確なカウンター的な立ち位置となっていく。どちらかに過剰になってしまうと、それが完全に見失われてしまう。

それゆえに僕自身、そんなヒエラルキーの外を楽しむ、外を味わうための場やコミュニティをこれからも丁寧につくっていきたいし、とはいえ、そこに居着かないように常に「喫茶去精神」を大切にしながら、ドンドンとヒエラルキーの内側にも送り返していきたいなあと。

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皆さんにも、このWasei Salonという小さな共同体をもとに「内」と「外」を行き来しながら、自分自身と社会、その両方と誠実に向き合っていけるような感覚を思う存分味わってみて欲しいと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。