昨日もご紹介した、松岡正剛さんと田中優子さんの対談本『日本問答』。
この本の中に、日本や日本人にとって「和する」とは何か、という問いについて語られてありました。これが非常におもしろかった。
Wasei Salonの「Wasei」も「和成」が一つの語源であり、もはや「和」についての言及は他人事ではありません。
むしろ、すべて自分ごとと捉えてしまうぐらいには、「和」への言及はいつも見逃せないなあと思ってしまいます。
今回も、そんな「和」について新しい発見を得られたので、このブログにしっかりと書き残しておきたいと思います。
ーーー
では、本書の中では一体どんなことが語られてあったのか。
日本では、「出る杭は打たれる」というように、既存の秩序を乱す行為には強く対応するけれど、その背景にある思想や価値観までは、あまり問題にしない傾向があるよねと、おふたりは語ります。
そのために、「一体何を否定しているのか」や「何を守ろうとしているのか」が曖昧になってしまうのだと。
このような曖昧さの背景には,日本という国や宗教に「はっきりした起源(オリジン)」が存在しないことが関係しているのではないか、と本書の中では指摘されていました。
ーーー
このときに、古事記に登場するイザナギとイザナミの神話が引き合いに出されていて、日本の成り立ちそのものが、そもそも明確な原点に基づいていないことが語られています。
この指摘がすごくおもしろいなと感じたので、田中さんの発言を少し引用してみたいと思います。
イザナギ・イザナミの話は、近世になるといろんな思想書にも出てくるんです。ついには富士信仰にも出てくる。何かが生まれる、生産されるというところにシンボルとして登場するんです。そこから「夫婦和合」という言葉も生まれていく。この「和合」ということ、「和する」ということが、ひょっとしたらいちばん重要な観念だったかもしれませんね。だから対立するものがあっても、表と裏が並立していても、そこが和合していさえすればいい。
これは、なんだか我が意を得たりというか、本当にそのとおりだろうなあと思いました。
つまり、一神教のように、始祖及びその始祖が語ったことを最重要視する感覚とは全く異なるということです。
ーーー
一神教の考えというのは、基本的に絶対的な神がいて、その神が言うことも絶対なわけです。そこにルールや秩序が生まれていて、その秩序に反するか否かが常に問題となる。
でも、日本人の感覚としては、絶対的な秩序があるわけではなく、この「和合さえしていればいい。そこに優劣は存在しない」という感覚のほうが大切であって、絶対的な秩序を持たないからこそ、日本では“関係性そのもの”が秩序となり得る。
そしてその関係性の維持こそが、「和合」なのです。
誤解を恐れずにもっと踏み込んで言うと、イザナギ・イザナミ、そのふたりのなかに形成された「対幻想」で培われた和合が、日本の秩序であるということです。
ーーー
この点に関連して、松岡正剛さんも「ひとつの秩序でなくてもいいということですよ。絶妙に和合さえしていれば、そういうものがいくつあっても平気というのかな。聖徳太子の『和を以て貴しとなす』も、喧嘩しないで仲よくやりなさいなんてつまらない意味じゃない」と語られていて、こちらも、なんだかものすごく納得感がありました。
で、この話に続いて、田中さんはさらに、安藤昌益の「天地人」の解釈を紹介しながら、以下のように語られていました。
こちらも非常に面白い解釈なので少し引用してみたいと思います。
安藤昌益がこんなふうに言ってるんです。たとえば「天地人」という言葉があるとすると、儒教ではこれを上下関係にする。それぞれちがうものだということをまず規定し、その関係を設定してこれを秩序とよぶ。でも昌益は、そんなふうには考えない。これらは同時に存在するもので、天は同時に地であり、地は同時に人である、そのすべてがそろって初めて動くのだと。この「同時に存在している」というのが、「和する」に近い感覚じゃないかと思うんですね。で、この「和」を保つことが、「治める」ことになる。
僕は、この「和」の感覚に対しては、まだあまりうまくは言えないけれど、なんだかものすごく深い納得感がある。
それぞれが同時に存在していること、互いに密接不可分であるということ。
和合していることとはつまり、この同時に成立していることを指し、決して何かお互いの秩序のヒエラルキー中での上下関係や優劣で判断しようとしているわけではない、ということです。
ーーー
で、さらに話がおもしろいのはここからであって、じゃあ、このときに「和を乱す」とは一体どういう意味合いになるのか。
それは、当人が意図して秩序を乱そうとしているわけではないのだけれど、一瞬でも「和」を破って乱しているとみなされると危険視されるんだ、という話が語られてありました。
具体的には、芸能ニュースなんかで「お騒がせしてすみません」という会見をするけど、「和」を乱すというのはああいうことなんだ、と。
こちらも非常におもしろい話ですよね。
ーーー
芸能人の謝罪会見が行われるごとに、「あれは一体、何に対して謝っているのか」とTwitter上でよくリベラル的な価値観の人々が批判をしている。
「誰かに具体的な実害があったのか」と。特に不倫会見などはわかりやすいですよね。
でも、「和」の観点からすれば、実害があったかどうかではなく、「和を乱した」とみなされること自体が問題なんだ、と。
その感覚が強く働いているからこそ「お騒がせして申し訳ありません」という謝罪も、日本では成立し得るということなんでしょうね。
ーーー
「いやいや、だからそれが問題なんだ!」と批判されるということも、よくよく分かります。
でも、もともともの「和」の感覚からすれば、確かに乱してはならないものがあるというものが先にあったと解釈することは、よく理解できるなとも同時に思えるはずなんです。
本書の中では具体的に、いくつかの「乱」の話も語られてあり、乱がおこる前に露見して捕えられてしまって、実際には何もおこしていなくても「謀反の疑いあり」で処罰されるという話が語られてありました。
あの有名な「大塩平八郎の乱」も、実際には一日の蜂起ですぐに捕まっている。にもかかわらず、人々はそれを「乱」と呼んでいたんだ、と。
ーーー
当然、今は芸能人の謝罪会見の多くは、メディアの都合の良い形として完全にゴシップとして消費されてしまっているから、養護するような余地は一切ない。
でも、この一連の話を受けて、僕はここに日本人的な「和」の本質的な価値が見え隠れしているように思います。
これらをちゃんと正しく理解したうえで考えないと、何か大事なものを見誤る気がしているんですよね。
少なくとも、「和をもって貴しとなす」ということについて、いわゆる「出る杭は打たれる」的な意味合いや批判的な観点から、くだらない教えだとは決して思いたくはないなと。
ーー
じゃあ、本当の意味での和とは何か。
それを丁寧に考えてこの場で実際に再現していきたい。
もっと、本質的な意味での、調和の感覚を重視していきたいなあと思うんですよね。
「和」を古めかしい保守的な価値観であると軽視するひとたちが、今の世の大半だからこそ、なおさら強くそう思います。
松岡正剛さんが語るように、日本という国の国家統治の基本理念を示した一番最初の成文法であるもの、そして今日までずっと語り継がれている「17条の憲法」の第1条が、そんなくだらないものなワケがないじゃないですか。
ーーー
きっと僕が、このブログで繰り返し述べている「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」というのは、まさにこの「和を乱さない」感覚として必要不可欠であって。
それは決して「建前で生きろ」ということではなく、これは逆に言えば、そんな敬意や礼儀で包んでさえいてくれれば、その中で個々人が何を考えていても構わないということでもある。
だって、それさえ守れば決して「和を乱さない」のですから。
ここも、ものすごく大事なポイントだと思います。
以前も書きましたが、変な話ですが、日本人ほど内心の自由が担保された国民もなかなかいない。
で、そのためには非常に逆説的なんだけれども、ちゃんと「和をもって貴しとなす」を実行しなければいけない。
これさえ守り続けていれば、本当の意味で、全員にとって居心地の良い空間、つまり「和合」が立ちあらわれてくるのではないかと思っています。
ーーー
僕は、このサロンに対して「Wasei Salon」と名付けてしまった以上、この点に関しては、それこそ一生問い続けないといけないなと思っています。
名は体を表す、とはよく言ったもので本当に因果なものだなとも思います。また、それがこのコミュニティをはじめた人間の責務だなとも感じています。
今日の話も、ともすればものすごく誤解を受けそうな話だなと思って、書くかどうか一瞬悩みました。
でも、きっといつもこのブログを読んでくださっているみなさんであれば、その真意を読み取ってくれるだろうなあと思って書いてみました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。