先日、映画『オデュッセイア』を観てから、未だ興奮が冷めません。


もう一度、映画館に観に行こうと決心しましたし、なんなら、IMAXのためだけに池袋まで行っちゃいそうです。

これぞ映画、これぞリアル。クリストファー・ノーラン、本当にすげえなあと。

で、そんな興奮の中で、ここ数日のことを振り返っていたら、この映画をいま観たことが、なんだかとても不思議に感じられてきました。

というのも、僕はちょうど、このブログのなかで「罪」や「苦しみ」について考えていたところだったんですよね。

苦しみからは、できることなら解放されたい。でも、その苦しみの中で出会ったひとや、そこで生きてきた自分まで、なかったことにはしたくない。

そんなことを、うまく言葉にならないまま、二日続けて、連続でブログに書いていました。

まさにその直後に、『オデュッセイア』に出会ってしまいました。

今日は、この重なりが自分にとって、どうしてこんなにも大きく大切なものになったのか、丁寧に考えてみたいなと思います。

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まず、先日のWasei Salonの読書会では、『ファンタジーに秘められた宗教』を読みながら、皆さんと罪や苦しみについて話しました。

その時間を経て書いたのが、「罪や苦しみこそが、人間の言葉に重みを与えている。」というブログでした。

参照:罪や苦しみこそが、人間の言葉に重みを与えている。

何かをしてしまった自分として、その後も生きていくのが人間。後悔を抱えて誰かと関わっているうちに、昔から知っていた言葉でも、それを受け取る自分のほうが変わってしまうことがあるんだろうなあと。

そして、その続きを考えながら思い浮かべたのが、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』です。

悲しみも悩みもない月の世界へ帰れることは、姫にとって明確に救いであるはずです。それなのに、どうしてあの結末は、あんなにも悲しく切なく感じるのか。

自らの生きる苦しみがなくなることを願っていたはずなのに、そのために手放すことになるものを知ると、すぐにはうなずけなくなってしまう。

僕は、ちょうどそこに引っかかっていたわけです。

参照:苦しみのない月の世界へ、僕らは帰りたいだろうか。 

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で、そんな自分にとって、『オデュッセイア』の中で描かれている「帰りたい」という願望は、なんだかとても印象的なものになりました。

この作品は、トロイア戦争を終えたオデュッセウスが、長い苦難の旅を経て、「故郷」へ帰ろうとする物語です。

ここで原典の話も少し重ねると、彼の帰郷を阻む女神カリュプソが、不死を持ちかける場面があります。

「自分のもとにいれば、あなたは不死になれる。故郷へ向かえば、まだまだ苦しいことが待っている。それでも、妻のもとへ帰りたいのか」と。

オデュッセウスは、妻ペネロペが、女神のように美しくもなく、不死でもない生身の人間であることを重々承知しています。それでも、故郷に帰りたいと答えるんですよね。

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もちろん、帰ることを妨げられている彼にとって、カリュプソの島は、すでに苦しみのある場所でもあります。

だから、そのまま、かぐや姫にとっての月と同じ世界だという気はありません。

でも、不死になれるという条件を与えられても、それだけでは満たされない願いがあって、そのことが、いまの自分には、なんだかものすごく大きく感じられるのです。

つまり何が言いたいのかと言えば、かぐや姫は、この地上の世界から離れたくないし、オデュッセウスは、あのひとたちのいる故郷の世界へ帰りたいと願う。

向かう方向は真逆なのに、僕には、その願いがとても近いものに思えてしまいます。

生きられる時間がどれだけ長くても、そこに、いま自分が会いたいひとがいなければどうなるのか。

別の場所でもっと恵まれた生活ができると言われても、それで自分の願いは本当にかなうのだろうか、と。

そう考えると、オデュッセウスの「帰りたい」という短い言葉の中に、急にたくさんのものが見えてくるような気がするんですよね。

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そして、この二つの物語には、もうひとつ、とても気になる重なりがあります。

かぐや姫が着せられる羽衣と、今回の映画の中で、オデュッセウスが食べる蓮の花です。

『かぐや姫の物語』で、月へ帰る姫に着せられる羽衣は、地上での記憶を失わせるものでした。

一方、ノーランの映画では、カリュプソがオデュッセウスに蓮の花を食べさせ、故郷や家族の記憶を忘れさせようとする。

この二つを並べてみると、僕には、単に記憶がなくなるということ以上のものがあるように思えてきます。

それは、忘れてしまえば、「あのひとたちと共に生きたい」という願いそのものまで、失われてしまうかもしれないということ。

会えないことが苦しいのは、会いたいひとがいるからです。帰れないことがつらいのは、自分にとって帰りたい場所が明確にあるからです。

じゃあ、その記憶がなくなれば、そのことで苦しまずに済むのかもしれない。でも、そうなった自分は、忘れる前に願っていたものを、もう願うことさえできなくなってしまうのか。

ここが、僕にはどうしても引っかかるんですよね。

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羽衣は、姫を地上から連れ去るときに着せられ、蓮はオデュッセウスを故郷へ帰らせないために、与えられるわけです。

どちらも、誰かと生きてきた記憶を失わせることによって、そのひとたちから離れた状態を受け入れさせてしまうものとして、読める。

前回のブログで「自分が忘れれば、それで済むのだろうか」と書きましたが、忘れた自分がもう苦しんでいないとしても、忘れる前の自分が守りたかったものは、その先でどうなってしまうのだろう、と。

羽衣と蓮を重ねると、その問い自体が、よりいっそう切実なものに感じられてくるから不思議です。

そう考えると、なぜ記憶を操る小道具が、西洋と東洋の古典的な物語のなかに共通して出てくるのかも、なんだか急に気になってきます。

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で、前の二本のブログを書きながら、僕はずっと、罪や苦しみについて考えているつもりでした。

でも、こうして物語を重ねてみると、気になっていることがもう少し具体的になってきた気がします。

それは「自分は、誰と、どんな自分として、生き続けたいのだろうか」という問いです。

苦しみをなくしたいという願いの、さらにその先にあるような話です。

罪や苦しみ自体を、よかったことに変える必要はないし、それは間違いない。

でも、その罪も苦しみもある時間を生きてきたほかでもないこの自分として、これからどう関わるのかは、まだ終わっていない。

僕には、『オデュッセイア』の中に描かれている「故郷に帰る」ということも、そんなふうに見えてきます。

長い時間を過ごしたあとでは、自分も、故郷で待っていたひとも、出発したときとまったく同じではいられない、そんなことはわかっている。

当然、お互いに、相手の知らない時間を既に生きてしまっていて、お互いに変わってしまっている。

それでも、そのひとのもとへ帰りたい。

そういう願いの切実さが、いま僕が考えていることと、なんだか深く重なるのだと思います。

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で、ここまで考えていて、自分が先日のブログの最後に書いた一文に、改めて目が止まってしまいました。

これから同じ物語を読んだとき、以前とは違う言葉の前で、足が止まりそうな気がしています。


自分で、ブログの最後にこんなことを書いていたんですよね。

その直後に『オデュッセイア』を観て、まさにいま、こうして何度も立ち返って考えてしまっている自分がいる。

「受け取る自分が変わる」ということの意味を、自分自身の映画鑑賞の体験を通して、もう一度考えることになっているのが、なんとも不思議な感覚だなあと。

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もし、あの読書会の前にこの作品を観ていたら、果たしてどうなっていたんだろうか、と。

実際に、そのタイミングで既に日本でも公開されていたので、決してありえない話ではないはずなのです。

もちろん、それでもすごい映画だと思ったことは間違いない。

でも、「帰りたい」という願いや、不死であることだけでは満たされない人間の姿を、いまと同じように受け取ることができていたのだろうか。

それが、まったくわからないんですよね。本当にわからない。

ブログを書きながら、まだ答えの出ていない問いを抱えていたからこそ、『オデュッセイア』という物語の中のある願いが、通り過ぎられないものになったわけです。

出会ったタイミングは偶然でも、その物語を受け取る自分には、そこまで生きてきた時間があったからこそ、僕は今、こんなにも強い衝撃を受けている。

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僕が今回、奇遇だなあと感じながら、どこかで必然のようにも思ってしまうのは、このあたりなのかもしれません。

何かに出会う前から、その意味を知っておくことはどう頑張ってもできない。でも、出会ってしまってから振り返ると、あのとき考えていたことが、こんなにもつながっていたのか!と驚いてしまう。

あの『ファンタジーに秘められた宗教』の読書会で、すぐにきれいな答えが出なくて、逆によかったのかもしれないなあとさえ思います。

わからなさが自分の中に残っていたから、その続きを、映画を観たあとも考えているわけですから。

そしてこの衝撃は、生身の身体を持つ人間だからこそ得られることでもある。

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そして、もうひとつ驚くのは、僕が最近、AIの進化を見ながら考えていたことが、こんなにも古い物語と、ダイレクトに、そして鮮明につながってしまうということです。

とても新しい時代の、新しい問いを考えているような気持ちにもなっていたのに、そういう問いを、人間はずっと前から、それこそ紀元前の時代から「物語」の中で考え続けていた。

AIがつくるかもしれない未来と、古代の神話の世界が、そのまま同じだとは思いませんが、自分がいま抱いている疑問について、こんなに遠い時代の物語からも、考えるきっかけを受け取れること。

それが、なんだか、とても心強いことにも感じられたのです。

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そして、古典がいまの自分に関係するし、関係してしまうというのは、こういうことなのかもしれません。

遠くにある大きな作品だと思っていたものが、自分たちの話の続きとして、急に近づいてくる感覚。

そして、その物語のほうから、自分はどう生きたいのかと、真正面から改めて問われているような気になってくる。

君たちの時代はどう生きるか、と。

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だから、公開期間中に、必ずもう一度この映画を観に行こうと思っています。

こうして改めてブログにその感想を書いてみたことで、次に映画館に座るときの自分は、最初に観たときとは、また少し違っているはずです。

「同じ川に二度入ることはできない」とは、ほんとうによく言ったもの。

次回は、いま自分が気になっていることが、もっと強く心に残るかもしれない。逆に、今回このブログに書いたこととはまったく関係がない別の言葉や表情の前で、大きく気持ちを揺さぶられてしまうかもしれない。

それも含めて、もう一度、観てみたいんですよね。

いま『オデュッセイア』に出会えてよかったなあと、ほんとうに思います。

次は、どんなものを受け取ってしまうのだろう。そんなことを楽しみにしながら、あの作品に描かれている同じ旅に、もう一度出てみたいと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。