昨日に引き続き、面影の一貫性について、今日は考えてみたい。
改めて昨日の話を少し振り返ってみると、何かを残そうとするとき、僕らはどうしても客観的に証明できるものを残そうとしてしまいがちです。
具体的には、中身やコンテンツをそのままにするとか、客観的に昔これがこの場にあったというような証拠のようなものを残そうとする。
でも、本当に残すべきというのは、「面影」のようなものだったりするのだと思います。そして、その面影を受け継ぐためには「骨格」が必要。
逆に言えば、その骨格を大切にしながら、面影を残すことにしっかりと徹すれば、実は中身、つまりソフト面はなんでもよかったりもするというのが昨日のお話です。
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で、この「中身の解釈」の自由さを認めることが、本当に大事だよなあと思ったのですよね。
この話を古民家だけにとどめてしまうと、意外とわかりにくいのかもしれないなと思ったので、もう少し別の角度から今日は考えてみたい。
それは意外にもマンガ『葬送のフリーレン』の中で描かれてある話なんです。
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最近発売された新刊を読むうえで、またフリーレンを読み返していて、ついついハッとしてスクショを撮ってしまったシーンが、勇者ヒンメルとは、似ても似つかない銅像にフリーレン一行が困惑するシーンです。
そして、そこには勇者の魔王退治の物語が、いろいろな尾ヒレがついて神話化されているような状態。
実際の歴史とは明らかに異なる神話が語られていて、完全に「事実」が塗り替えられてしまっている。
その時に、現代を生きるフリーレン一行の若いふたりは、当然怒るわけです。事実とは違う、と。ちゃんと訂正したほうがいい、と。
でも、フリーレンはそれに対して、意外と怒らずに寛容な素振りを見せるんですよね。
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じゃあ、なぜ寛容なのかと言えば、ヒンメルの昔のとある一言がきっかけだったりする。
回想シーンの中で「そのうち、尾ひれと背びれがくっついて、いつかはそっちが真実になってしまう。」と民衆たちの神話化に対して、不満そうに語る若いころのフリーレンに対して、
ヒンメルは、「こうしてゆっくりと僕達の冒険譚は変わっていくんだ、少し残念だけれども、どんなに伝聞や伝承が変わろうとも、僕達の成してきたことは変わらない。下らない旅を続けて、最後には世界を救ったんだ。それで十分じゃないか。」といなすようなシーンがあります。
このお話に読者としても、妙に納得をしてしまう。
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で、これって現代の陰謀論にもまったく同じことが言えるなあと思ったんですよね。
というかきっと、陰謀論を受けて描いたシーンでもあるんだろうなあと。
そして、リベラルの主張というのは、若いふたりと全く一緒の反応でもあるわけですよね。
物語が次第に神話化されて、話に尾ヒレがついてしまうことは、ある意味では致し方のないこと。それは、物語の定めでもある。
物語が物語である以上、正確性なんてものは存在せず、陰謀論化される定めにあると言ってしまっても決して過言ではないのかもしれない。
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だとすれば、そうじゃなくて「骨格」部分さえかわらなければ問題ないと思いながら、そこに残る「面影」のほうを重視する、そんなヒンメルやフリーレンの姿を描きたかったんじゃないのかなあと思います。
本人とは別人になっている銅像に変わっていたとしてもそれは関係がない。でもちゃんとどこかに面影は残っている、というような。
つまり実は「面影」を残すために重要なのは「客観的な証拠」ではなく、「物語を共有する人たちの間にある感情や感覚」のようなものではないのかなあと。
例えば神社の祭りや、地域の伝統行事なんかも、本質的には昔のまま残されているわけではない。
長い時間を経て、中身は少しずつ変化しています。それでも「面影」が残るのは、人々が物語を語り継ぎ、その行為の中に「共有された感情」が引き継がれているからですよね。
ヒンメルとフリーレンも、「事実」が変化することを許容していますが、それは「自分たちが旅をしたという骨格」と、「その旅の中で感じた感情や価値観」が揺るがないという確信があるからこそなわけです。
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で、だとすれば、ここで立ちあらわれる問いとしては、面影が残るぐらいの寛容さをどう担保していくのか?という話だと思います。
現代は、客観的な正しさ、データ的な正しさ、そして政治的・倫理的な正しさを重視しまくる世の中です。
それは先ほど書いたように、「世の中の情報」という面においてもそうですし、「情報としての私」という意味においてもそうだと思うんですよね。
「私」という個人の存在にこだわり続けるあまり「私の一貫性」のほうに誰もが過剰にとらわれてしまっている。
でも世の中や世間は、どちらにせよ、あることないことを噂をする。
また同時に、自分自身の身体や心も時間の経過と共に否応なしに変わってしまう。周囲もそこにさまざまな意味付けをしていく。
その尾ヒレに対して「それは違う、あれも違う」と抗いたくもなる。
でも、人間が生きていて物語を紡いでいる以上、外側からも内側からも次第に変わっていく。時間というのはそれぐらい残酷なもので、否応なく発酵や腐敗的な変化を人間に与えていくわけです。
かといって、そこで達観して何でもかんでも世間の好き勝手な言う通りにしていたら、自己が崩壊するような感覚に陥ってしまう。
ここに対して、どうやって折り合いをつけていくのか。その葛藤と、折り合いの付け方が肝であり、いま多くの人が悩んでいるポイントでもあるなと思います。
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で、これは少し余談なのですが、最近、ジェーン・スーさんのオーディオブック立て続けに何冊も聴きながら思ったのは、ジェーン・スーさんのエッセイの書き方は、その構造がハッキリしていてとても聴きやすいなということなんです。
ではそれは一体どんな構造になっているのか?
具体的には、現代社会に生きるアラサーからアラフォーぐらいの、パンパンに膨れ上がった自意識、その過剰性を自らメタ認知して、見て見ぬふりしたり拗ねてしまったり、そこから他者への攻撃性に変わってしまっていたりする、そんな自分の中の「祟り神」になったものを一体どういなして、弔うのかという話になっている。
ここでもやっぱりそんな祟り神の「弔い」なんだなあと思います。
当然そこには痛みも伴うし、見たくない現実や、蓋をしていた臭いものに、自ら蓋を空けてそれを覗き込むような覚悟も必要になる。
ゆえに渦中の当事者にはあまりに辛すぎて直視ができない(だから、好き嫌いハッキリ別れる)とも思うのだけれど、「あー、そういう思考回路だったのね!」という発見もたくさんあって、妙齢の女性たちがハマる理由もよくわかるなあと。
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で、話をもとに戻して、何が大事な「骨格」の部分であって、そこに面影さえ残っていれば、あとは他者からどのように解釈されても構わないんだという、寛容さ。それらを大切にすることはここにつながるなって思うんですよね。
で、それっていうのは、ヒンメルと同様にある種の諦めでもあり、一方で自分たちのパーティーの面々はしっかりと覚えている、ここだけは決して譲らないんだという強い強い想いでもある。
まさに「理想を忘れない現実主義的な選択」だと僕は思います。厳格さと寛容さが混在している。
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そして、一気に話を壮大にしてしまいますが、実際に長い長い歴史の中で、そうやって骨格を大切にしつつ、内蔵部分は柔軟に変更させていきながらも、常に「面影」を残すようにと意識をしながら、外側からいろいろなものを果敢に取り込んできたのが、この日本という国なんだと思うんですよね。
それが「面影の国・日本」ということなんだと思います。
国産み神話やヤマタノオロチ退治など、どう考えても尾ヒレがつきまくりな話で、アバンギャルドな『古事記』のような内容なのだけれども、そこには明確に日本の面影が残っている。
そう思えるから、これだけ長い間、天皇制なんかも残り続けて、今の日本があるわけですからね。
『葬送のフリーレン』という物語自体も、「情報」の正確性にばかりこだわる現代において、その「面影」のほうを大切にする姿勢が一貫して描かれてあるから、虚を突かれるようなハッとする場面もあるし、どこか妙な安心感を覚えるような感覚にも陥る。
それって言うのはきっと、ものすごく「日本的な面影解釈」だからなんでしょうね。現代のマンガとして、これだけ日本人からウケている理由もきっとここにある。
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もちろん今日の話には、訂正可能性みたいな話にもつながって、その作法というか型が描かれているのが、あの本の重要なポイントだなあと個人的には思います。
訂正可能性は、過去の過ちを認めつつも、そこに「面影」を残していく営みと言ってもいいんだろうなと勝手に思います。
世の中の多くのひとが内容やソフト面、情報の一貫性ばかりを重視して、それで互いを攻撃し合うような時代だからこそ、
それよりも、骨格を重視し、面影を残すことに注力して、無駄な争いや、抗っても意味がない「物語の特性」のようなものに寛容であれる態度を養っていきたい。
もちろん、抗うときは徹底的に抗う態度も忘れずに、です。
そんなことをWasei Salonの中でも大切にしていきたいなあと思いました。受け継ぎたいものの本質部分、その面影はなんだろう?と丁寧に考えていける空間でありたいなあと。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/03/25 19:52