昨日のVoicyの中で「古民家の魅力って何だろう?」という対話会を配信しました。
ゲストは、建築設計士の黒木さんとイケウチオーガニックの益田さん。
既に古民家に何かしらの形で関わっている方や、これから古民家を改修して住んでみたい、何かお店を始めてみたいという方には、ぜひとも聴いてみて欲しい内容になったなあと思います。
で、今日は、後半部分で語られてあった、日本家屋は骨格を受け継ぎ、そしてその面影を残すこと、というお話が個人的にはとても印象的だったので、そのお話について、このブログの中でも改めて深堀りしてみたいなあと思います。
具体的には、リノベーションされた古民家であっても、そこに以前の「面影」を発見して、しっかりと受け継がれていると感じられる何かが、古民家には宿るのだというお話です。
詳しくはぜひ、黒木さんが体験された原体験のお話を直接聴いてみて欲しい。
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で、この点、どうしても何かを残すというときに、僕らは客観的に証明できるものを残そうとしてしまいがちです。
具体的には、内装をそのままにするとか、客観的に昔これがこの場にあったというような証拠のようなものを残そうとする。
でも、本当に残すべきというのは、むしろ「面影」のようなものだったりするのだと思います。そして、それを受け継ぐためには「骨格」が必要。
逆に言えば、その骨格を大切にしながら、面影を残すことにしっかりと徹すれば、実は中身、つまりソフト面はなんでもよかったりもする。
そして、日本家屋というのは、その骨格と面影を残すことに最適な器でもあるということなんでしょうね。
古民家で言えば、よく語られがちなデメリットが、寒さや水回り、そして虫が出るというような話は、原型を残すことに躍起になりすぎて生活に支障が出るという話でもあるかと思います。
それだと、現代人は満足に暮らせない。そうすると、自然とひとも寄り付かなくなってしまって、本末転倒になってしまう。
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そうじゃなくて、中は空っぽ、中空構造的にしておきながら、それでもはっきりとそこに同一性がありながら続いていること自体に価値がある。
言い換えると、人々がそこに「継続性」があると思えるかどうか。
また、誤解を恐れずに言えば、その関わる人々の認知の問題や、「物語性」の問題だと思います。
そのうえで、家(イエ)というのは面影を残そうとするときに、その骨格にとても適しているということでもあるんだろうなあと。
つまり、物語を紡ぐときの「入れ物」や「器」として機能しやすい。
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ちなみに、この「面影」という文脈においていつも思い出すのは、松岡正剛さんのお話。
さまざまな場面で語られていますが、この場ではオーディオブック化もされている『日本文化の核心』という本から面影について言及されている部分を少し引用してみたいと思います。
面影はそこに居つづけているものではありません。だからそれについてのイメージはそこには継続的には「ない」と言うしかないのですが、思い浮かべようとしたり、沈丁花の匂いなどの何かのきっかけがあったり、あるいは夏の日の思いに耽っていたりしていると、実際の「ある」以上の何かを伴ってそれが現前するのです。「ない」のに「ある」。それが面影です。
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これは本当にそのとおりだなあと思います。
そしてこれもまさに「物語」のお話。テセウスの船のような話でもあって、人間の認知の問題。
何か継いでいる感覚のときに人々が抱く、畏怖の念や敬意、謙虚さなど、そのような姿勢から自然と生まれてくるその物語こそが大切であって、それは骨格を受け継いで、面影が残っていると思えることが重要だということなのでしょうね。
ゆえに、ある意味では「神事」や「儀礼」のようなことも重要になる。宗教的な意味というよりも、物語をつないでいくために、古いものを受け継ぎながらも、新しい姿で再出発するために、神事が必要。
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また、何か特等席をつくらないというお話も、改めて本当に参考になりました。
以前、このブログでもご紹介したことがあるお話です。
でも、今の日本は、すぐに一番良い特等席やVIP席を作りがち。
タワマンなんてその象徴的存在ですよね。タワマンの場合は、いついかなるときも最上階のペントハウスが一番その建物の中で特等席なポジションになるわけです。
そして、そんな最上階のプレミアム住戸を買う人たちがいるから、このタワマンに安く住めているんだ、という話にしがち。
でもそんなことをすれば、当然住民の中でヒエラルキーが生まれて、それを揶揄するようなタワマン文学が生まれてくるのも当然で。
今は、地方の祭りでも、そんなタワマン文化のように、特等席を用意して、そこにVIP席のようなものをつくってしまう。
もちろん、それはそれで経済合理性という意味では正しいのかもしれないけれど、それで文化が育たないと嘆くのは、さすがに自己矛盾甚だしいなと僕は思います。
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本来、物語の多様性を尊重するためには、特等席はあえて作らず視線を分散させるほうが正しい。
京都の神社仏閣の日本庭園に代表されるように、そんな創意工夫が施された残し方が存在していたはずで、そこに人々がそれぞれの「面影」をみていたはずなのです。
物語の柔軟性や多様性もそこに含まれていた。いい意味で視線がバラバラだった。
でも、特等席をつくるとその物語が一元化されてしまう。そこを中心に物語が形成されてしまい、全体主義のようなものも自然と完成する。
僕らが本来注力するべきは、骨格を残しながら面影を受け継いでいくというときに、その場にいる人達の喜ぶ顔の中に、その面影を観ること。
集まっているひとたちの顔色それ自体が、鏡のような役割を果たしているはずなんですよね。そして、黒木さんはそれを一貫して大切にしながら古民家を改装し続けている。
だからこそ、内装がガラッと変わっても、町や家の継続性を担保し続けるんだろうなあと思います。
ここに連綿と暮らしがあったんだ、そこにつながる物語を、それぞれが自己の中に自然と紡ぐことができるようになるわけです。
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その結果、誰かの正解ではなく、自分の関わる余白も感じる。身分に関係がなく、家を中心とした文化を守る一員だと思えるようにもなる。
外部からその場に訪れたひとも、自然とその面影を感じられるからこそ、その中で受け継いできたもの、その受け継いできたことを自然と想起して、そこに集まる人達の中に「家族的つながり」なんかも生み出されやすい。
昨日の話にもあったように、ラグジュアリーな新築のホテルにありがちなホストとゲスト、売り手と消費者のような関係性ではなく、古民家宿を共に大切にしようとする一員になれることにこそ価値がある。
なぜなら、何かを大事にするという、その営みの成員になることに価値を感じるから。
決して、等価交換として泊まるわけではない。同じものを大事にする一員として、参加させてもらったお礼が宿泊料だったりもするわけです。
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黒木さんの古民家宿はもちろんのこと、いつもこの場でご紹介している島根県・石見銀山の群言堂さんの阿部家なんて、その最たる例だなあと思います。
一緒に阿部家という武家屋敷を守ろうとするその営みに参加させてもらえることの喜び。それは労働でも、仕事でもなく、強いて言えば布施(行)なんかに近い。
連綿と続く物語の一部に加担できるような喜び、「永遠の同伴者」というと言い過ぎかもしれないけれど、自分という人間なんかよりも何倍も寿命が長いもの、その片鱗に触れるような感覚を味わえること、それがいま本当に大事なんだろうなあと思います。
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で、このようなお話をサラッと「そんなのは当たり前でしょう」というテンションで語ってくれるのが、京都人のおふたりの魅力です。
昨日の配信を直接聴いてくれた方々は、きっと僕がここ1〜2年の間、ひたすら京都文化の話に着目してきたその理由を理解していただけたかと思います。
いい意味でまったくご本人たちの中に、そのことに対する「〜すべき」というべき論のような執着がないことが本当に素晴らしいなと思います。
恣意的ではなく、本心かつ等身大でソレを語っているし、それを守るのが当たり前だという感覚。
生まれたときから京都の文化に囲まれて骨身に染み付いている、まさにネイティブだなあと思います。
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あの自然体の中で、聞かせてもらえることのありがたさ。
これっていうのは、道産子の僕が、あとから一生懸命京都文化を勉強して、入れ知恵でどうこうできることでもない。
だからこそ、あのように対話させてもらえる機会も本当にありがたいなと。
そしてそれを受けて、僕は僕で、自らのネイティブ性にも自覚をするわけです。
北の大地、道産子だからこその価値観、自己のネイティブ性も発見できる瞬間だったりもするから、ありがたい。本当に貴重な機会をいただいているなあと思います。
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まだ聴いていない方には、ぜひ直接本編の対話を聴いてみて欲しいです。
またおふたりをゲストとしてお呼びして、違うテーマでもお話してみたいなあと思っています。次回もぜひ楽しみにしていてもらえると嬉しいです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。