最近読み終えた、政治学者・宇野重規さんの新刊『すごい古典入門 ルソー『社会契約論』――民主主義をまだ信じていいの?』。
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たった100ページほどのブックレットのような本なのに、ルソーという思想家の核心が、中学生にもわかるくらいの平易な言葉でスッと入ってきます。
読みながら何度も「こういう言い方ができるのか」と強く膝を打ちました。
今日はこの本を読んで印象に残っている部分と、一般意志という概念を目指す姿勢は、「裏の裏」を探ろうとする姿勢と似ているんだと感じたので、そんな話を少しだけ書いてみたいと思います。
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さて、この本の中で、ルソーは一体何を大事にしたのか、とてもわかりやすい言葉で書かれていました。
まずはさっそく本書から引用してみたいと思います。
自分が徹底的に自由でありながら、他人とも仲良くできる。完全に対等な関係として、互いに人格を尊重し合う。それは不可能じゃない。ルソーが考えたかったのは、まさにその一点に尽きています。私はこの箇所を読んだとき、本当に感動しました。
(中略)
その両方を完璧に両立できる方法はないのか?「うーん、無理っぽいけど、できたら
いいよね」ーみんなそう言うはずです。
そこでルソーは、「なぜ諦めるんだ」「それこそ本気になって考えるべきことじゃないか」と迫ってくる。ルソーの『社会契約論』は、「完璧に自由でありながら、完璧に人と仲良くする」。そんな仲間と共にある社会のあり方を、本気で考え抜いているのです。
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この「自分が徹底的に自由でありながら、他人とも仲良くできる」を探ったのが、ルソーという思想家なんだという考え方は、非常にわかりやすいなと思います。
そして、これもまた「も」の思想。
どうしても僕らは二項対立をつきつけられたとき、トレードオフの関係性で考えてしまいがち。だけど、そうじゃない。
ルソーは、どっちも大事だと真剣に思ったから、どっちも大事にするためにはどうすれば良いのかを真剣に考えたひと。
具体的には、対等な他者と良い関係を築きたいという願いも、自分らしくありたいという思いも、どちらも正当な欲求なんだから、両者が完全に一致する状態こそが“本当に正しい”思想だと捉えて、その思想とは何かを徹底して考え抜いた。
言い方を変えると、それを実現できるような思想として「一般意志」という概念を後付の論理として創造、ともすれば捏造したわけですよね。
ちなみに一般意志とは、個人の私利私欲を超え、共同体全体の公共の利益や共通善を目指す理性的・普遍的な意志のこと。
詳しくは以下の記事を読んでみてください。
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で、それゆえに、「一般意志」の概念においてよく誤解されがちな点も、ちゃんと本書の中には書かれてあります。
こちらも非常にわかりやすかったので、再び引用してみます。
人々の意志と社会の法が完全に一致した状態を「一般意志」と呼び、その自ら作り上げたルールに自発的に従うことこそ「自由」なのだと定義する点に、ルソーの思想の真髄があるのもまた事実です。
ただし、これはあくまでルソーが掲げた壮大な「理想」です。私の解釈では、彼は「一般意志は必ず存在する」と断言したのではなく、「もし、そのようなものが"ある”としたら、と考えてみないか?」と私たちに問いかけているのだと思います。
(中略)
もちろん、そんなものは、ないのかもしれません。それでも、"ある”と仮定して探求してみよう、というのがルソーの提案なのです。
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このように実際に客観的に存在するかどうかもわからない「一般意志」を目指す姿勢って、「裏の裏」があると信じて問い続ける過程そのものだなと思ったのです。
この点まず、「表」はある。それは間違いない。
ということは、その「裏」もある。こちらも間違いない。
でも「裏の裏」なんて、ほんとうににあるのかと問われたら、かなり怪しいわけです。
「結局それは表じゃないのか。もしくは、表の顔をした裏なんじゃないのか」
実際、大抵の場合、その指摘はそのとおりだし、だとすればそもそも「裏の裏」なんて言葉だけのまやかしであって、客観的には存在しないということになる。
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でもこれも一般意志と同じであって、あると仮定することが大事だなと思います。
つまり、裏の裏が最初から「正解の一点」として存在しているんだと言っているわけではないということです。
そうじゃなくて、もしソレがあるとすれば、それは何かを真剣に問い続けてみようと言いたいのです。
そして、何よりも、そんな「裏の裏」があると信じて、ソレを目指すこと自体が非常に大事だと僕は思うんですよね。
その「もし、あるとすれば?」という問いが立つこと自体が非常に重要。
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なぜなら、それがあると仮定することによって、目の前に立ちあらわれてくる行動の一つ一つや、その意味付けがガラッと変わってきて、その行動変容こそが、僕らが真に求めている価値そのものだからです。
まさに、仮定を歩む豊かさがここにある。
旅先を決めたことによって、その道程で立ち現れるものこそが旅の豊かさそのものであるように、です。
究極目的地なんて、どこでも良い。でもその目的地の定め方次第によって、当日までの準備も変われば、当日の装備も変わる。
また、旅の当日の歩むスピードや、その味わい方も変わってしまう。そうなったらもう「勝ち」だって言えるなと思います。
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だって、そのときには、道にも迷わず済むわけだから。
これは、僕が繰り返し言及している「後ろ向きの北極星」の話なんかも、まさにそうです。
背中に北極星を背負いながら、後ろ向きに前に進んでいくことで、結果的に、自分の目の目の前で起きていることに、自分の言葉で意味付けをしていくことができるようになる。
これもある種の「嘘も方便」的な運用でもあるわけです。
でも、方便が通用していて、僕らの言動が変わるということは、やっぱり間違いなくそこにそれは「ある」とも言える。とても変な感じがしますが、ほんとうにそう思います。
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で、ここまで読んでくれてきた方の中には、「なんだ結局は、一神教の神を信じることと同じか…」と思うはず。
イエスが実在するかどうか、は関係がなくて、イエスが存在すると思えば自らの信仰心が変わり行動が変わるみたいな話だろ?と。
そうとも言えるけれど、でも、ここに紙一重の差異もちゃんとあると思っています。
では一体それは、どんな差異なのか?
それは、裏切られた感じがあるかどうか、だと思います。
せっかく信じてついてきたのに、結局は存在しなかったとなれば、人は必ず裏切られたと思うはず。
僕がいつだって、「報われる」のではなく、「救われる」ことのほうが大事だと言いたい理由なんかも、まさにここにある。
信じて裏切られたら、私は今回の人生では報われなかった、となってしまう。
なぜなら、「報われる」は、いつだって外部(社会や他者、あるいは神)からの報酬を期待する等価交換の論理だからです。
もし信じたのに思い通りの結果が出なければ、つまり等価交換が失敗したら、それはすべて「裏切られた」「報われなかった」ことになります。
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でも、「裏の裏」を目指す、そんな「後ろ向きの北極星」的な態度はそうじゃない。
たとえ、どちらに転んでも、自分が納得感を持って信じて歩んできた道であれば、道中の道半ばで息絶えてしまっても、いついかなる場合であっても「私は救われた」と思えるはずなんです。
だって、自分で自分の意味づけや価値付けを行ってきたのだから。そこに自然と価値が宿るよねって思います。
まさに『ヨブ記』みたいな話です。そして、遠藤周作の『沈黙』みたいな話でもある。
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だから僕は、そうやって信じて、歩み続けることが大事だと言いたい。
具体的な比喩としては、そんなふうに歩むときに道端に咲いている花を愛でたり、ゴミを拾ってみたり、誰かが転んでしまいそうな穴が空いていれば、率先してそれも埋めてみる。
また、袖触れ合うも他生の縁だと思って、見ず知らずの他者であっても親切に接してみる。
その道を歩んだ結果、報われようが報われまいが、自分がたった1回しか歩まない道だから。
その道で、他者がどう振る舞おうと関係がない。誰(神)が見ていようが、誰(神)も見ていなかろうが関係がない。
自分が、その道でほんとうにしたいと思える行動指針がしっかりと定まっていれば、自分の行動も自然と定まっていくはずなのです。
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今日語ってきたように、その道の歩み方、つまり人と人とが共同体を築くとき、社会を構築しようとするとき、自らの行動を自然と定めてくれるもの、それが「一般意志」というフィクションなんだ、きっとそれがルソーが言いたいこと。
誰かが何かを犠牲にしなければ成立しないようなものは、たとえそれがどれだけ現実に即した考え方であったとしても、そこに逃げないこと。
同時に、ユートピア思想にも逃げないこと。
「理想を忘れない現実主義」の実践とは何かを常に問い続ける。
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また、このときに実践の間とのズレへの絶え間ない自覚なんかも、非常に大事になってくる。
「やっぱりまたズレてしまった。そもそも実現不可能なんじゃないか…」とそのズレ自体に深く絶望して、自分が行動しない理由にするのではなく、そのズレこそが、行動を見直すきっかけだと考える。
宇野重規さんも、本書の中で以下のように書かれていました。
繰り返しますが、ルソーは「一般意志は現実に存在する」と断定したのではありません。むしろ、「理想として"ある”と信じ、現実の私たちはそこからずれてしまうものだと認めたうえで、それでもなお、どうすればその理想に近づけるかを考え続けよう」と呼びかけている。この、理想への不断の努力を促す姿勢こそ、ルソー思想の根本にあると私は考えています。
(中略)
ルソーの一般意志とは、一人ひとりが自分の頭で考え、あるべき姿を想定し、自分の”特殊意志”との距離を自覚しながら、その間をじわじわと縮めていくようなものだと思うのです。実際にはその距離にギャップがあって、ずれているかもしれない。でも、その”ずれ”を感じること、それ自体が重要なんです。
こちらも非常に大切な教えだなと思います。
自らのズレの実感、その自覚こそが大切であって、ズレているからこそ、目の前のズレを淡々と修正しようと思い、実行できるようにもなるわけだから。
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言い換えると、そんなふうに正しく悪魔と出会い続けることが、ほんとうに大事。
ひとが生きている以上は、悪魔と出会わないということ自体が、そもそも現実的に不可能です。
悪魔と出会うことが避けられない以上、悪魔の奴隷になってもいい、そんな理由にはならないことは、誰にでも容易にわかることだと思います。
だから、悪魔と出会わない世界線、そんな世界線は絶対に存在しないことは理解したうえでなお、もし「悪魔と出会わずに、悪魔の奴隷にならないで済む世界線がある」と仮定をして、そのうえで、目の前の行動とのズレがあるのなら、そのズレに自覚的になること。
そして、そのズレの修正とは何かを自らに問い続けて、実践し、決して死ぬまで諦めない。
そのように、まるで自転車を漕いでいる間にだけ唯一点灯する電球が、一般意志だということです。
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同様に、そういう状態を目指して歩み続けようぜ、一点のゴールに到着することができたかどうかで、報われたかどうかを判断するのではなく、そういう理想を歩もうとしているときに立ちあらわれる人間関係や過程こそが大切で、自分たちで自分たちのことを救おうぜ、と。
そのことを本当の意味で理解し合う者同士が共同体をつくり出すときに、立ちあらわれてくれるものが「一般意志」が実現されている状態であり、「裏の裏」が実践されている状態でもあると思っています。
結局はいつもと似たような話になってしまったかもしれないのですが、改めて大事な考え方だなと思いましたし、結局この同じところをグルグルとすることを確認し合うこと自体がまさにソレだなと思ったので、今日のブログにも改めて自分なりに翻訳し直して書いてみました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
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