最近、Xのアルゴリズムや、noteのアルゴリズムの公開が話題です。
今日は、このSNSやプラットフォームのアルゴリズムとの向き合い方について、自分なりに考えてみたいなと思います。
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まず、冒頭から軽く余談なのですが、AI時代にnoteが目指しているのは、AI時代の総合レビューサイト、生身の人間が書いた口コミが多数書き込まれているプラットフォームなのだろうなと思います。
生身の人間が書いた口コミや体験談が、ジャンルを横断して大量に蓄積されている場所を、たぶん目指している。
今後、人間が検索する窓口がすべてAIになるのなら、もうジャンルごとに細かく分かれている必要なんてまったくないですからね。
それよりも、AIから参照される“もと”になればいい。
だからこそ、あらゆる生身の人間の視点や熱量高いものが集まる場をつくろうとしているなと感じます。
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このあたりは、さとなおさんの必読の新刊『AIに選ばれ、ファンに愛される。 変わる生活者とこれからのマーケティング』を読んでみると、AI時代にnoteが何を大切にしようとしているのか、より具体的に理解できると思います。
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この本については、また別の機会に改めてご紹介しようと思っていますが、ユーザーや消費者の熱量の高いレビューがたくさんネット上に転がっていることで、その企業の”商品”はAIに推奨されやすい状態が生まれてくる。
で、note側もそれをハッキリと理解しているからこそ、今回のような方針を明らかに打ち出してきたのだろうなあと。
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このようなnoteの攻め方、ユーザーの熱量高い一次情報を重視するアルゴリズムに変更するというのは、とても理にかなった攻め方だなあと思います。
ただ、ここでひとつだけ言っておきたいのはこの構造って、別にそれ即ち“善”ではないということなんですよね。
つまり、倫理が進歩したわけじゃない。ネット上の審判が、GoogleのSEOや人間の閲覧数や滞在率などから、AIに置き換わっただけ。
これは極端な話ですが、人間であれば暑苦しくて誰も読まないような1万文字を超えるようなファンのレビュー記事や体験レポ記事も、AIであれば、それをちゃんと一瞬で読んでくれる。
そんなオタクたちの推し活の熱量を感じ取ってくれるのが、AIなわけです。
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この点「ひとつひとつのコンテンツには価値がない。群れになったときに価値を持つ」というのは、SNS勃興期のメディア論においても語られていた話ですが、いまその“群れ”を評価するのが、AIになったということです。
これまでのように、口が達者な(文章な上手な)ファンがいる必要はない。それよりも、熱量の高さにこそ、また価値が移り変わってきている。
その雑でも明らかに”人間らしい”熱量あるレビュー群を、真の意味で統合するものがAIであって、それが「デジタル民主主義」全般の話なんかにもつながっていく。
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なにはともあれ、ユーザーとの接点、その窓口がAIになった以上、もう人間に読んでもらう必要がなくなった変化は、めちゃくちゃ大きいなと思います。
AIがユーザーとの間に入り込むことによって、届け方が上手なインフルエンサーよりも、ヘタクソでも熱量高いコンテンツ群のほうが、企業担当者としては圧倒的に嬉しい、ということだから。
それをキレイにまとめて「で、結局のところ要約すれば、どういうこと?」をユーザーごとの理解力にあわせて出力するのが、AIのお仕事であり、企業にとって喉から手が出るほど一番欲しい”広告”になってきている。
逆に言えば、noteはそのような”広告”を揃えにいったのは、自分たちの広告戦略のためなんだ、と考えたほうが自然です。
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で、ここからが、今日の本題にも入ってくるのですが、じゃあ、そんな時代に書き手としては、一体どうすればいいのか。
それがまったくわからないわけですよね。
だからみんな、Xやnoteのアルゴリズムに素直に従いたくなるってことだと思うのです。
もしSNSのアルゴリズムが、今のひどい世の中を生んだ!と批判的に語るのであれば、僕らが本当にやるべきことは、アルゴリズムを“良いもの”に乗り換えることじゃないはずですから。
アルゴリズムに肩入れしすぎず、自分が書きたいことを淡々と書くこと、以上です。
少なくともXやTikTok、YoutubeやInstagramのアルゴリズムがNGで、noteのアルゴリズムはOKというのは、まったく意味がわからないなと僕は思う。
それは結局、別のアルゴリズムに都合よく支配されるだけであって、支配の形式が変わっただけです。
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これは先日話題になっていた、オードリー・タンの話とまったく一緒。
オードリー・タンのような聖人君子みたいなひとが「健全なアルゴリズムを!」と言っていれば、なんだかそれが善悪の二項対立みたいに見えてしまう。
でも、実際にはオードリー・タンが主張するアルゴリズムに支配される世界だって、それはそれで普通に「アルゴリズムに支配される」という意味では、めっちゃくちゃディストピアなわけです。
オードリー・タンだって人間ですからね。自分の実現したい世界線に向けて、全力で設計し、全力で誘導するに決まっています。
そしてnoteもまた、インターネット上の“公共圏”っぽい顔をしているけれど、一私企業であり、しかも上場企業です。
それでも、AIに選ばれるために必死で、企業収益をあげるために努力をしている。みんなそうやって、明日は我が身のなかで戦っている。
つまり、どんなアルゴリズムであっても「中立な自然現象」なんて存在せず、我田引水、人間の利害の結晶なんですよね。
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そして、だからこそ行動経済学における「ナッジ」みたいな概念って、基本的には盲目的に信じてはいけないことだと思うのです。
“従えば報われる”を設計している時点で、支配構造は同じ。
そして、今のSNSのアルゴリズムの見える化や透明化は「こういうものがオススメされやすいですよ!」とルールを見せつけて撒き餌をし、結果として、AIが喜ぶコンテンツを、ユーザーたちに無償で作成させるための「方便」でもあるわけだから。
これはもはや、権力をチラつかせるのと同様です。
そして今度はまた、新しいアルゴリズムが生まれて、noteというサービス自体が弾かれる日がやってくるかもしれない。それは誰にもわからない。
noteが弾かれなくても、noteの中のあなたのアカウントだけが弾かれる日はやってくる可能性だってある。そしてその理由はわからない。そのAIの基準は、完全にブラックボックスです。そうしたら、またゼロから出直しです。
だとしたら、本当に自分が耕すべきものは何か、を今一度真剣に考えたい。
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で、ここで問題なのは、それをわかったうえでなお、僕ら一般ユーザーが「自分たちを正しい方向に導いてくれるアルゴリズム」を求めてしまう、従いたいと願ってしまう心のほう。
結局これは、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』の話につながるのだと思います。
つまり、人は自由がしんどいから、大きなものに服従したい。そうすれば、自ら考えなくても済む、責任を背負わなくて済むからです。
言い換えると、第二次世界大戦時に、それぞれの国民が従うべきナショナリズムの勃興、たとえば日本であれば「国家神道」が、現代においては「AIのアルゴリズム」に変わっただけなんだとも言えそうです。
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伊丹万作の話だって、まさにこういうことだよなと思うのです。
というか、まさに伊丹万作の予言が、いまこうやって結実している。騙された、自らの潔癖を語る国民は、何度だって騙される。
剥き出しの欲望を隠さないイーロン・マスクに対して、なんだか美しいリベラルな価値観提示されたら、それには盲目的にコロッと信じてしまい、従っても良い方針なんだと思うこと。それは結局、戦時中の論理なんかと、まったく一緒ですからね。
具体的には、欧米の帝国主義的侵略からアジアを守る、八紘一宇、大東亜共栄圏と構造的にはとても良く似ている。
あちら側とは違う理想的な世界像が提示されたとき、人は“正義”に酔いやすい。
そして怖いのは、服従している本人だけが、自分が服従していることに気づいていない、という点です。
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で、この時に必ず出てくる反論は「とはいえ、やらない善よりも、やる偽善だろう」という反論です。
そうやって少しでも、偽善で世界が満たされるなら、やらないよりはマシだ、と。
でも、その「やる偽善」こそが結果的に、一番望まぬ「正直な悪」を生み出す温床となる。トランプ大統領のような存在です。それも以前ブログに書いたことがあります。
「そうやってぐるっと一周したのが、まさに今のインターネットのなはずなのに、またもう一度ぐるっと一周するの?しかも今度はAIというより厄介な道具を携えて…?」と、僕なんかは思ってしまいます。
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だからこそ、どんなアルゴリズムでも自分が書きたいことを素直に書こうよ、と。
そういう書き手がこそが、アルゴリズム以前も以後も、ずっと生き残っているんだから。
逆に言えば、時代ごとのアルゴリズムをハックしたひとたちは、ハックしてうまくいったからこそ、時代の終焉と共に消えていった。
それはもう自明の論理だと思います。
指月の喩えそのもの。「指」が指し示す方向に、右往左往している状態がアルゴリズムをハックしようとする態度です。
そうではなくて、「人に伝える」の本質とは何かを考える、それが指の先にある「月」を観るということ。
小津安二郎の「古いが、いちばん新しい」というあの話なんかにも、まさにつながる話だなと思います。
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最後に、今日何よりも主張したいのは、自分にとって都合のいいアルゴリズムに従いたい、流されたい、自分の考える責任を放棄したい、そういう人間の弱さにこそ、自覚的になりたいよねって、ことなんです。
「アルゴリズムを公開しました!」と言われた時に、我先にと焦ってその内容を見に行き「ふつうに日々の日記や、思いを書いているユーザーには大きな影響はないかと思います」と書かれていてホッと胸を撫で下ろすような、その自己の浅はかさに対して、いちばんハッとしたいよね、ってことです。
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そうやって先端の仕組みをハックしない、「からくり」を使うな!という話じゃない。
そうじゃなくて、それをわかったうえで、普通に生きよう。これもまた、裏の裏の発想だと思っています。
「ダメ絶対」ではなくて、必要な場合は、気負わずにハックすればいい。でもやっぱりそれも目的によるよね、と思います。
本当に心から届けたいもの、そんな目的あっての「手段」のはずですから。
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あとは無闇矢鱈とアルゴリズムをハックして、FOMOみたいなものに煽られないことに対して、明確にひとつメリットがあるとすれば、自分自身が焦らずに済むようになること。
「お先にどうぞ」と、他者に先を譲ることができるようになる。
つまり他者に対して親切に慣れることだと思います。そして、同じコミュニティを生きる人々の報われる瞬間なんかも素直に喜べる。
それは今、ものすごく豊かなことだと思います。他者と競って我こそが先にと、自らの主張を行わずに済むようになるわけだから。
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いつも書いている内容で言えば、喫茶去精神を発揮できるようになる。
「ゆっくりとお茶を飲んでいってください」と「お茶を飲んで、今すぐにここを立ち去れ」その両方を、静かに体現できるようになる。
その心の余裕こそが、こんな混迷を極める時代に僕らが本当に求めているソレだろうと僕は思います。
今とっても、大事な視点だと思ったので、今日のブログにも書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/01/22 20:29
