ここ数年、読書会のような企画や、本に関して他者と対話する機会が増えてきた中で、時々「あれっ?」って思うことがあります。

それは「著者が言いたいことは何か」「どんな教訓を読者に与えようとしているのか」と、著者の主張を一言一句文字通り読み取らなければならないという何か強迫観念のようなものにとらわれて、本を読んでいるひとがいるなあと。

つまり、「作者のたった一つの主張は何か」ばかりに固執してしまっているのです。

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これは、小・中学校の国語のテストで「作者の言いたいことは何か、◯文字以内で答えよ」という設問に慣れすぎてしまったがゆえに、僕らの中に生まれてしまっている弊害なのかもしれません。

そういった出題者の「説教臭さ」に慣れすぎてしまったせいで、作者の主張に慮ることばかりに終止してしまっているのです。

それ以外の読み方はすべて誤読であり、私がどう感じるかは関係なく、常にただひとつの正解を探っていきたいのだ、と。

変な言い方かもしれませんが、そのような態度を見るたびに本に向かって自ら説教されにいっているような印象を抱くことさえあります。

そして、その教訓に配慮し、これが私の取るべき行動だと勝手に理解して行動してしまうことが、そのまま「忖度」という行動にもつながっているのではないのかなあと。

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この点、最近おもしろいなと感じたお話は、「100分de名著」のプロデューサーである秋満吉彦さんが出された新刊『名著の読み方 』に紹介されていたお話です。

「ある朝、目覚めると虫になっていた」という書き出しが有名なカフカの『変身』という小説を番組内で取り上げるとき、プロデューサーの秋満吉彦さんは「介護小説」としてこの本を読んだそう。

一方で、番組にご出演されている伊集院光さんは「引きこもり小説」として読んでいたと紹介されていました。

それぞれがご自身の経験に引きつけて読んでいた、と。本来これぐらいそれぞれの読み方には大きな乖離があってもいいはずです。

にも関わらず、「これは◯◯について書かれた小説であるに違いない」と多くのひとは議論してしまう。

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じゃあ、本は一体どんなふうに読めばいいのでしょうか。

もちろん、この点においても明確な正解はありません。本当にそれぞれが好きなように読めばいいと思います。

ただ、ひとつ参考になるなあと思ったのは、同じく『名著の読み方』の中で紹介されていた若松英輔さんの言葉であり、「本は、自分宛ての手紙として読むと良い」というお話です。

自分宛に書かれた手紙を読み終えて、自分が感じた気持ちや感情以外に正解があるなんて思う人はいないはず。

にもかかわらず、僕らは本という自分宛ての手紙を読むときに、「手紙の差出人は、どんな教訓を我々に与えてようとしていて、どんな説教を読者にしようとしているのだろうか?」

「そのうえで、私にはどんな忖度(行動変容)が求められているのだろうか?」と考えながら読んでしまう。

いかにそれが異様な行動なのかは、この喩えでも少しは理解してもらえるかと思います。

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ただし、厄介なことは、ビジネス書においては、書き手側がそんな「ワンテーマ」を設定し「それ以外はすべて誤読である!」と著者が言い切るパターンが存在します。

だから、ここまでの内容をすべてひっくり返すような言い方をしてしまいますが、「忖度」することも読み方の一つとしては正しいのかもしれない。

ただ、そういった読み方をしていると、気づかないうちに「忖度」している私に気がつかなくなってしまう。知らず知らずのうちに忖度根性が染み付いてしまっている。

まさに、リースマンの『孤独の群衆』の中に出てくる、エーリッヒ・フロムの言葉そのものです。

どのような社会でも、それがうまく機能するためには、その成員が、その社会あるいはその社会の中での特定の階層の一員として"なすべき"行為を、"したくなる"ような性格を身につけていなければならない。かれらは客観的にみて、かれらに必要なことを、欲しなければならぬ。すなわち、"外的な力"は、"内的な強迫"に転化され、また、人間の特殊なエネルギーによって、それは性格の特性となるのである。


参照:自らの孤独感と無力感から目を背けたくて、人は権威に服従してしまう。

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最後は少しわかりにくい話になってしまったかもしれませんが、「本の解釈は一つじゃない。自分宛ての手紙のようにして読むといいのかも」という話を今日は書いてみたかったです。

大事なことは、この本を読んで私がどう感じたかということであり、教訓を読み取り忖度することではないと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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