「役に立つ」と「意味がある」のような話を聞いて、この二項対立を認知してしまうと、どうしても僕らは、この世の中にはこれら二種類の「商品」が存在すると思ってしまいがち。

つまり「役に立つ実用的なもの」と「意味があるブランド品」のような対立を、頭に想像してしまいます。

でも実際のところは、そのすべてが「記号」なんだと思います。

僕らは、そのどちらも記号でしかないものを、自ら能動的に選んでいるように思いつつ、単に「記号を消費」しているに過ぎないのかもしれません。

今日はそんなお話を少しだけ。

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この点、「現代は記号を消費する時代」だと語ったのは『消費社会の神話と構造』を書いたジャン・ボードリヤール。

またまた、飲茶さんの説明が一番わかりやすいと思いますので、『14歳からの哲学入門    「今」を生きるためのテキスト』という本から、以下で少し引用してみたいと思います。

ボードリヤールの言う「記号を消費する時代」とは、 「モノの道具的価値にお金を払うのではなく、ブランドなどに代表されるような、『高級感、特別感といった心地よいイメージを与えてくれるモノやサービス(記号)』にお金を払って消費していく時代」ということを意味しているわけである。     

しかし、そうだとして、ではなぜその「記号(イメージを与えてくれるもの)を消費する社会」だと破綻しないのだろうか?     答えを先に言えば、 「消費される記号には実体がないため、無限に生産できるから」 になるのだが、ここは大事なポイントなので、きちんと順を追って説明していこう。


続きが気になる方は、ぜひ本書を手にとってみてください。本当に誰でも読むことができてしまうとってもわかりやすくて、おもしろい本ですよ。

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さて、ボードリヤールが語ったように、ありとあらゆる消費がすべて、この「記号」のなかに含まれてしまっているのが現代社会なんですよね。

で、いま僕が毎日のように言及している「NFT」なんて、その記号消費の権化みたいなもので、まさに記号消費の「最終形態」だと思っています。

もはや、ルイ・ヴィトンのバッグやNIKEのスニーカーのように、質量がある実用的に思える物質(バッグや靴など)に、その「意味」を表象させることさえ、しなくなりました。

文字通り、何のためらいもなく、それは「ただの画像」であり、ただのデジタルデータの「記号」を消費しているだけです。

「記号」と「お金」をセットにして無限にやり取りしているだけ、です。

そして当然ですが、この記号は「質量」としての実態がないのだから、いくらでも作り出せてしまいます。

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このような不毛な「記号消費の構造」に言及して、鬼の首を取ったかのようにNFTを批判しているひとをよく見かけますが、本当にそれはご指摘のとおりだと思います。

何も間違ったことは言っていない。

でも、ある意味でこっちのほうが進化しているよなあとも、僕は思っています。

どれだけ環境に配慮しているというパタゴニアの最新のギアであったとしても、それはやはり何かしらの形で環境に負荷をかけていますからね。

一方で、NFTはものすごく軽いデータをやり取りしているだけだから、見方によっては、圧倒的にこちらのほうが地球には優しいとも言えそうです。

ゆえに、すべてが記号として消費される世界は、その「意味」のすべてがバーチャル空間に移行していくことも間違いないと思っています。

環境的負荷が圧倒的に少ないということと、その「スピード感」と「なめらかさ」がバーチャル空間だと全く違いますからね。

それは、自転車のスピードと飛行機ぐらい違う。

資本は、増殖する先を求めて無限に拡大し続けていくのであれば、その記号のやり取りのスピードがはやければはやいほど良いに決まっています。

いちいち質量のある物質に、その記号の意味を表象させていたら時間がかかってしょうがない。それが以前、下記のブログの中にでも書きたかったお話です。

参照:社会的なメタ・メッセージの伝え方は、NFTや仮想空間の登場で大きく変化する。

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「いやいや、でも自分はそれでもただのデータに対して、何かしらの役に立つ『機能』を求めているよ!」と言ってみたところで、それさえも「ユーティリティ(実用性)がある」という記号であり、「役に立つ」という記号なんです。

そうやって「私は、実態がなさそうな怪しい記号(ブランド)には踊らされない人間なんだ」という記号を発するためだけに「実用」を求めていたりもする。

資産運用の文脈における、NISAなどを用いた堅実そうなインデックス投資なんかもまさにそう。私はあの人たちとは違って博打なんかはしない、堅実であるという「記号」をあらわしているに過ぎません。

そう、世界のすべてが記号であると指摘されると、結局のところ、その「マウント合戦」となってしまうことは避けられないんですよね。

この点、ある種の開き直りの立場から、「記号消費社会」の有り様を完全にハックして、いま世界の頂点にいるのが、NFTの文脈で言えば「Yuga Labs」のBAYCなのでしょう。

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じゃあ、僕らはもう本当に、この「記号消費」の構造から逃れることができないのでしょうか。

その答えはきっとイエスで、たぶん僕らが生きているうちにはもうほぼ不可能に近いんだろうなあと思っています。

むしろ、数十年〜数百年後の未来から、今を振り返ったとき「あのときはまだあんまり記号に振り回せれていなかった時代だったねー」と振り返るぐらいの初期のレベル感なのかもしれません。

もちろん、それが嫌だから「人里離れた場所で、自給自足で生きていく」などと言いつつ、記号消費社会から一定の距離を置くこともできるかもしれないですが、それもある種の「現代社会に対するアンチテーゼ的なライフスタイル」というひとつの記号であって、カウンターカルチャーを実践しているにすぎません。

つまり、本当にこの構造からは決して逃れることはできないんですよね。

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でも、だからこそ、僕は思うのです。

だとしたら、その記号を用いることによってのみ、その「記号消費」という構造に、真正面から向き合ってみるしかないのではなかろうかと。

記号から逃げるのではなく、記号と真正面から向き合い、記号自体を観察してみるという第3の道です。

以前、ブッダは悟りを経て「悪魔と出会わない超人」になったのではなく、「悪魔ときちんと出会える人間」になったという話をこのブログでもご紹介しましたが、まさにあの話と同じ構造です。

悪魔と出会えるということは、そういう自らの微細な煩悩の動きに「気づける」ということですよね。

記号を使って記号に出会えるというのは、同じくそういう自らの微細な煩悩の動きに「気づける」ということなんです。

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つまり、BAYCのようにNFTを使って「徹底的に記号消費社会をハックしよう!」と開き直るのではなく、「NFT」という記号を自ら率先して消費することによって「記号を消費させられている」という構造自体を、メタ的に認知し続けていこうと。

こうやって努力し続けることだけが、僕らに残された唯一の手段的なところがあって、それができるのは記号、つまりNFTを用いた場合のみだと思うのです。

「いま僕らがやっていることは紛れもない記号消費なんだ。果たしてこれに一体何の意味があるのだろうね??」と真正面から問うことができるのも、その極限まで突き詰められた記号を触れた者だけなんです。(非常にわかりにくい話で、ごめんなさい)

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唯一残された第3の道があるとすれば、ここにあると僕は思っています。

そして、紀元前5世紀ごろに、世界で同時多発的に今も中核にある宗教や哲学、思想などが生まれてきた理由なんかも、まさにここにあるのではないでしょうか。

「諸行無常、一切皆苦、諸法無我」など心と時間という概念を宿してしまった人間が、本当の意味でそれ理解するためには、その世界の仕組みに対して、真正面から向き合うことが重要だった。

向き合ったところで、その世界の仕組みや構造自体を変えられるわけではありません。

でも、ブッダは決して、そこから目を背けて逃げろ言ったわけではなく、ちゃんとそれらの事実と向き合えと言ってくれたわけです。正しく見定めろ、と。

すべてが「記号」で満たされる現代社会のおいて、僕らに唯一残されている道だと思います。

それが今朝ツイートした、下記のツイートの本意です。もちろん、今日のお話もすべて、そういう「記号」となってしまうんですけどね。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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