「美術館や博物館は好きですか?」よく聞かれる質問です。

しかし、僕はいつも曖昧な返事をしてきたように思います。

日本各地を訪れるたびに一応現地で調べてみて、興味のある展示が行われていれば訪れることもあるけれど、あまり積極的に行こうとは思いません。

あくまで、物であっても、人であっても、歴史であっても、現地で直接生(なま)で触れたものに対して、その答え合わせや補講を受けるような気分で行くことが多いのです。

それはなぜなのか。これまでうまく言葉化できませんでした。

この点に関して、年末年始に読んだブーアスティン著『幻影(イメジ)の時代』の中に膝を打つ表現が書かれてあったのです。

今日はこれを少し引用しつつ、自分の考えを改めて書いてみたいと思います。

早速、以下は本書から「美術館について」の引用となります。

ー引用開始ー

  美術品は便利さ、教育、楽しみといった目的のために一ヶ所に集められたものである。しかし一ヶ所に集めるために、美術館の責任者はそれらの美術品を本当の環境、すなわちかつてこれらの美術品を創造し、享受した本者の文化から切り離さなければならなかった。美術館訪問者は、建物いっぱいの文化的産物を見学するが、生きている文化そのものを見ることはない。

(中略)

つごうのよい時にわれわれが眺められるように、本来あるべき場所から運ばれてきた美術品は、動物園にいる動物のようなものである。運ぶ途中で何かが死んでしまったのである。

ー引用終了ー

このブーアスティンの主張は、自己の経験に照らし合わせてみても、とても共感するところです。

美術館に展示されている国宝のありがたい仏像よりも、なんとなしに道端に置かれたお地蔵さんのほうを見たい。

そして、さらに土地で野良仕事しているおばあさんがそこを通りがかり、いつも通りに手を合わせている様子を見るほうが、僕は何倍も好きです。

なぜなら、その瞬間に「あぁ、この場で生きているんだなあ」と感じられるから。

それは、子供たちが地方都市のイオンモールのベンチで必死になって、Nintendo SwitchやYouTubeを観ている姿を見ても、同様に感じられるところです。

それがなんであれ、その場に根付いてちゃんと生きているものが、僕にとっての「真実」だということなのかもしれません。


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逆に言えば、それがどれだけ理想的で、高尚な言葉や思想が掲げられていたとしても、場に生きていなかったら信じられない。

社会主義的なイデオロギーを僕が信じないのも、きっとそれが理由です。世界中で何度も実験されてきたにも関わらず、場に生きていた試しが一度もない。メディアで声高に主張している学者たちも、自分たちで「小さな現実」さえつくろうとしない。

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さて、話は少し逸れますが、年末年始の富士フィルムのCMの中でも使われるようになってしまった「エモい」という言葉。

誰もが、その定義を明確に説明できないとは思うけれど、僕はこの話を通じて、もしかしたら「生きている」ということなのかもしれないなあと思いました。

商業のため、権威のため、威信のため、理想のため、人間の手によって殺されているものが、現代社会には山ほどある。

それらを見せられて、理性や知性は多少喜んだとしても、心が決して喜ばない。

動物園で生まれ育ったパンダを檻の外側から観ても、誰も「エモい」とは思わないでしょう。

でも「生きている」と感じられるものに触れられたとき、ひとは自然と喜びを感じる。

そして、それを他者と共有したいと感じたときに、人は自然と"エモさ"に似たものを感じるのではないでしょうか。

それは、もしかしたら道端のお地蔵さんのように、非常にみすぼらしいものかもしれないし、つまらないものかもしれない。

それでも「場に生きているもの」であるほうが、僕はやはりなんだか尊いなあと思うのです。

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「なぜ、休日には生物(なまもの)を見に行きたいと思うのか?」以前、くいしんさんに聞いてもらった問いです。

それが7年越しで、少しだけ自分の中で理解できたような気がします。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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