僕らは、「言葉」をとても便利な道具として扱っています。

そして、あまりにも「言葉」が便利であるがゆえに、言葉がつくり出した「現実」を本当の現実だと誤解してしまうようなことも、しばしば起こりがちです。

たとえば、男女の違いについては非常にわかりやすい。

この点、養老孟司さんは、自らの解剖学の知見と比較しながら「男と女」は自然が連続しているだけのはずなのに、僕らが言葉を用いているから、それらが完全に切れているように感じてしまっていると語ります。

この考え方がとても膝を打つような話で非常にわかりやすかったので、養老さんの『こう考えると、うまくいく』という書籍から、少し引用してみたいと思います。

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男とか女という言葉を使うと、自然のものが切れてしまうのです。しかし、実際には自然は連続していて、切れ目はありません。それがあたかも完全に切れてしまうように思うのは、私たちが言葉を使うためです。     私は解剖学をやっていましたが、解剖では人間をバラバラに切り、それに胃とか腸とか、腸にもさらに大腸、小腸、直腸などと名前をつけていますが、実際には切れ目のない一本の管です。ではどうして切るのかというと、まさに名前をつけるからです。このように名前をつけると、私たちは言葉の世界に生きていますから物がきれいに切れて見える。


つまり、言葉があるから男女には明確な違いがあるように捉えて、その間はスパッと切れているように感じられるだけであって、実際のところそれは「幻想」というか言葉がつくり出したフィクションにすぎないはずなんですよね。

その境界線というのは、本当はもっともっと曖昧であるはず。良く言われるようにスペクトラムで、明確にココからこっちが男で、ここからこっちが女という国境のようなものは存在しないわけですよね。

そして、僕はいつだって、この曖昧な部分のほうに、しっかりと目を向けていたいなあと思います。言葉に惑わされることなく。

なぜなら、今日のタイトルにもあるようにそんな言葉の「一貫性」にこだわると、逆に不安定になるからです。

世の中を安定させたくて、みんな言葉を用いて「一貫性」をもたせようと躍起になっているはずなんだけれども、むしろ、その一貫性にこだわるせいで、逆に不安定になってしまっている。

それは本末転倒だと、僕は思うのです。

ここが今日、本当に強く強調したいポイントです。

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この点に関連し、年末年始に読んでいた『富の法則』という本の中にでてきた、ナシーム・ニコラス・タレブが語ったとされる「ボラティリティを受け入れるためのヒント」のお話が、個人的にはとても学びになりました。

ちなみに、ナシーム・ニコラス・タレブは、不確実性とリスクの本質をテーマにした書籍『ブラックスワン』や『反脆弱性』を書いた、アメリカ人の思想家であり作家です。

以下で、本書から少し引用してみます。

作家のナシム・タレブは、ボラティリティを受け入れるためのヒントとして、毎日勤務先から午後6時ぴったりに帰宅する人の例を挙げている。この人がこのパターンをしばらく続けていると、たとえ5分遅れただけでも、家族は安否を心配するようになる。一方、毎日午後5時半や6時半など、6時前後に帰宅している人の場合、よほど遅くならない限り、家族は心配しないだろう。     このように、一貫性にこだわりすぎると、逆に不安定になってしまう。一方、「折れない程度に曲げられる」余白のあるアプローチは、時間の経過とともに強化されていく。タレブは、免疫をつくるために少量の病原体をワクチンとして身体に注入するのと同じように、真の安心を得るためにはある程度のボラティリティが必要だと述べている。「人生では、不安定性の要素がなければ安定は得られない」のである。


帰宅時間において、ある程度の遊びやズレがあり、そこにボラティリティが存在するからこそ、家族も不安にならずに、一貫性をもたせようとするよりも逆に安定する。

この『富の法則』の本の中では、これが投資におけるボラティリティの話に繋がっていくのですが、これは社会のありとあらゆる現象、そして現代のポリコレ論争なんかにもそのままつながっていく話だと僕は思います。

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これは完全に余談なのですが、先日NHKで放送されていた『平安時代サミット2024    平安時代は、本当に「平安」だったのか』という年始特番で、「時代」という概念について、とても面白い言及がなされていました。

「平安時代」や「鎌倉時代」など僕らは時代を区切って、それぞれの特徴について言及するけれど、実はそもそもそれはおかしいのだと。

確かに、言われてみると、もともとはすべてひとつながりであるはずです。

たとえば、江戸と明治の比較においても、江戸は◯◯で、明治は◯◯だと、時代ごとにその違いを僕らは言葉で表現しようとしてしまいますが、でも実際にはそんなにスパッと切り分けられる話ではないですよね。

現代に置き換えて考えてみると、平成と令和をシームレスに体験している現代を生きる僕らは、その平成と令和の「連続性」の方をむしろハッキリと理解しているはずです。

でも、ここからきっと100〜200年後の未来、僕らがこの世から消え去ったときの日本人にとっては、今の僕らがちょうど江戸と明治をきっぱりと分けて語ってしまうように、平成と令和の違いは、まるで令和元年(2019年)にすべてがガラッと令和式に変わったというふうに捉えられてしまうはず。

でも実際には、その令和式というのは、これからもっともっと解像度高く決まってくるはずですし、令和が終わるタイミングで初めて、そこから遡行的に振り返ったときに「令和とはこういう時代だったね」と決まるわけですよね。

今、2024年現在、令和6年になった年でも、令和の輪郭や境界線というのはひどく曖昧で、どちらかと言えば、まだまだ平成の延長で、なんなら昭和99年と言っても違和感ないぐらい、昭和の延長線上にもあります。

このように時代という区分でさえも、実は境界線というのはかなり曖昧なわけです。

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さて話をもとに戻すと、じゃあ、僕らはなぜ言葉で説明されたときに、そこにリアリティを感じ取ってしまうのでしょうか。

このような「リアリティ」の実感というのは、なぜ起こるのか。

再び、養老孟司さんの『こう考えると、うまくいく』の内容に戻り、リアリティとは何かについて言及している部分から少し引用してみたいと思います。

リアリティの翻訳は案外難しくて、リアルを現実的と訳すとどうもぴったりこない。リアルあるいはリアリティという抽象名詞は、むしろ「真善美」と訳す方が正しいと私は思っています。つまり正しい、いいとか、美しいというのは非常に強い実感を持っていて、これも現実の一つです。     善、いいことというのが力を持つことは、戦前から生きてこられた方はよくおわかりのはずです。大日本帝国、天皇陛下万歳か知りませんが、とにかくそういう抽象的な観念が人間を徹底的に動かすことは、誰でもおわかりの通りです。特定の新興宗教でもまったく同じで、なぜそういうものが人を動かすかというと、それが現実に変わるだけのことです。


僕はこの視点は、本当に慧眼だなと思いました。何回も繰り返し読み返して、まるっと暗記してしまいたいぐらい、非常に重要な指摘だと感じます。

つまり、リアリティ(真善美)にこだわっているひとたちのほうが実は圧倒的に言葉によって生まれたバイアス(重み付け)に溺れてしまっている状態なのだと思います。

養老さんはこの文章の後に、「おそらく人間の世界の争いの最大の原因はこのあたりにあります」と書かれていましたが、僕も本当にそう思います。

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先ほどご紹介したタレブの話に当てはめてみると、6時ぴったりに帰宅することが、真善美としてあるべき姿であるともし仮に仮定したときに、一分でもどちらかにズレてしまったら、家族を不安にさせてしまうからそれは良くないんだ、みたいな話です。

でも、そもそも自然界に「6時」なんてものはなくて、6時ジャストという60秒間の時間的隔たりを区切ったのは、あくまで人間の言葉や認知にすぎないはずなのに、むしろそれこそが現実となってしまっている、この矛盾。

僕はここが本当にいつも不思議でしょうがない。

時間に置き換えると、非常に間抜けな議論に思えるけれども、いま似たような議論があちこちで散見される。

特に「人間は平等だ」という幻想に、あまりにも囚われすぎてしまっているような気がします。リアリティにおける「善」というものが、目の前の「現実」と完全に入れ替わってしまっている。

それは、ほかでもなく言葉のちからによって、です。

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そして、本来存在しても一向にかまわないはずの「ボラティリティ」の許容範囲を認めないことによって、現実とのギャップ、その乖離が誕生してしまい、そこに自分たちがものすごく苦しんでいるような状態です。

あわいがそこに一切存在していないわけですよね。でも、繰り返しますが、このような一貫性にこだわると、逆に不安定になるんです。

むしろあわいや遊びこそが大切で。ここを理解することが今、本当に大事だなあと。

一方で、少しでも遊びが存在すると「けしからん」と怒るひとは多いです。結局それは自分たちの首を締めることにつながってしまっているのではないか。

「ざっくりと大体これぐらいの間なら大丈夫」というある程度の許容範囲が存在していることが、きっと何よりもきっと重要で。

だからこそ、過去に何度も語ってきたように「境界線」は、常に曖昧にする方向に向かうべきなんだと僕は思います。


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最後に、以前もご紹介した尖閣諸島の問題に用いられるような「戦略的棚上げの理論」などは、とても優れた「解」であり、その最終地点だと僕は思う。

これは境界線の判断を留保している状態で、宙ぶらりんだというふうに考えるひとも多いけれど、僕はこれこそが「確定的な答え」だと思う。

でも、一貫性にこだわるひと、つまり境界線をはっきりさせないと気がすまない人たちはそれを絶対に許さない。

彼らは、言葉が生み出した真善美に溺れてしまうから、そのようなスタンスは保留や留保であり、中途半端な状態だとみなして、いつかは明確に決めないといけないと信じるわけです。

でも、いやいや、そうじゃない。これが最終形態なんだ、と。

人間が、言葉で切り分けただけ、ということに改めて気づいて欲しい。本当はすべてつながっている。すべては同一平面上に存在しているんだと僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。