先日、マンガ編集者・佐渡島庸平さんの『編集者のフィードバック』を読みました。

この本に関連したトークイベントが先日開催され、そのトークイベントの中で佐渡島さんに直接お話を伺う聞き役を担わせていただきました。

そちらの様子はオシロさんのコミュニティメンバー限定のお話だったので、この場では語らずに、今日はこの本をじっくりと精読してみた自分が、一体本書から何を学んだのか。

イベント前に準備した大量の読書メモから一部抜粋をしながら、この本の魅力について改めて丁寧に考えてみたいと思います。

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この点、僕は、最初はタイトルそのままに「編集者が作家にどうフィードバックを返すのか」その技術を学ぶ本なのだろうと思いながら読み始めたのです。

でも、実際に読み終えてみると、それだけの本ではなかった気がしたんですよね。

僕にはこれが、かなり「中年世代の言葉の使い方」の本として読めました。

そして、ある種のケア論の話にも思えた。

もう少し正確に言うと、40代以降の人間が、自分の中にある経験に裏打ちされた正論や鋭さと、これからどう付き合っていくのか。

その問いに対して、佐渡島さんご自身がとても誠実に向き合っている本なのだと感じたんですよね。

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若いころは、正しいことを正しく主張できること自体が、ひとつの大きな武器になります。

イノベーター的に正論を鋭く指摘できること。もしくは、画期的な新しいアイデアについて、論理的に整理できることなどです。

さらには、保守的な人々の中にある欺瞞や曖昧さを見抜いて、端的に言葉にできることもそう。

それはたしかに、若いころの大きな力になります。

実際、僕自身も20代前半でブログを書き始めて、最初の頃はそんなふうにズバズバと切り込んでいくような文体や芸風で、読者を集めるようなことを無意識のうちにしてしまっていたと思います。

もちろん、当時はそんなつもりはまったくなかったし、むしろ自分は誠実に、率直に、世の中のおかしなところを指摘しているつもりだった。

でも、30代半ばぐらいに入ってから同じことをやっても、それはもう同じようには届かなくなる。

ここが本当に怖いところだなと思うのです。

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40代になってくると、たとえまったく同じ言葉であっても、相手にまったく違って届きはじめてしまう。

昔は「率直さ」だったものが、いつのまにか「正論の圧力」ともすれば「パワハラ」として受け取られてしまう瞬間があるわけです。

本人としては、若いころと同じように、ただ正しいことを言っているだけのつもりなのに、です。

年齢の厚みがあり、ある程度の経験があり、立場があると、その言葉はもう昔と同じ感覚では届かなくなってしまうということなんだと思います。

本書の中でも、「ベテラン作家なら受け取れるボールでも、社員には取れない」という話が出てきます。

この比喩なんかも、とてもわかりやすかったです。

同じボールを投げているつもりでも、相手にとっては、ものすごい剛速球になってしまってしまっている。だから相手は、受け取る前に必ず身構えてしまう。あるいは、届く前にそっと閉じてしまう。

言葉の中身が正しいかどうか以前に、「一方的に評価されている、責められている」と感じてしまうんだと思います。

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このように、40代とは、正論や真っ当なアドバイスが、否応なく、「北風と太陽」の北風になりはじめる年齢なのだと思います。

実際、僕よりも少し上の世代で、20代〜30代のタイミングから自身の名前で活躍していた人たちが、続々と40代に入っていく中で、似たような悩みや不満を吐露する場面を幾度となく見てきました。

もちろん、正論そのものが悪いわけではないですし、真っ当なアドバイスが要らなくなるわけでもない。

ただ、それをそのまま相手にぶつけることの危うさに、自覚的でいなければいけない年齢になる、ということなんだと思います。

若いころは、「正しいことを言っているのだから、伝わるはずだ」と素朴に信じられました。

でも、だんだんわかってくるわけです。伝えることと、伝わることは、まったく別物であるということを。

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この本の中で、佐渡島さんは、そんな「伝わる」ことを目指したいと願うとき、「アドバイス」ではなく「感想」を大切にすると書いています。

ここが、僕にはいちばん印象に残ったところでもある。

ここ数年、「感想」はずいぶん軽んじられてきたように思います。

感想は本人の主観にすぎないし、ともすれば独りよがりな発言になりがち。感想よりも、客観的な分析や、具体的な改善案のほうが価値があるのだ、と。

そんな空気が、過去数年のあいだ、たしかに時代の空気として続いていたと思います。

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でも、佐渡島さんはそこで価値観を転倒させるのです。

アドバイスは、どれだけ善意であったとしても、どうしても上下関係を生みやすい。わかっている人と、わかっていない人。その非対称性が、どうしても入り込んでしまう。

言っている側は、もちろん相手のためを思っている。でも受け取る側からすると、「あなたはまだ足りない」「あなたはこう変わるべきだ」と言われているように感じてしまうことがある。

一方で、感想は少し違うわけですよね。

感想は、「あなたはこうすべきだ」と相手を変えようとする言葉ではない。

「あなたの言葉を受け取った私は、こう感じた」「あなたの表現で、私の中のこの記憶が動いた」そんなふうに、自分の側において、相手の表現を引き受けて、それをただ変化したとおりに伝える言葉なんですよね。

つまり感想とは、相手を変えるための言葉ではなくて、相手によって自分自身がどう変わってしまったのかを差し出す言葉なのかもしれないなと。

そう考えると、感想をもらった側は、「自分の言葉や表現が、この人の中を一度通った」と感じることができて、自分の言葉が、誰かの中でちゃんと出来事になったと思える。

その実感があるからこそ、人はもう一度、自分の表現を素直に信じられるのだと思います。

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で、これは、コミュニティの中でも本当にそうだなと思うのです。

Wasei Salonを運営していても頻繁に感じるのですが、人が何かを投稿したあとに本当に欲しいのは、必ずしも正しい意見や、有益なアドバイスなんかではなかったりする。

それよりもむしろ、「私はこう受け取りました」という素直な感想だったりするんですよね。

それがあることで、その言葉は誰かの中に、一度ちゃんと入ったと感じられて、そこに、静かな信頼のようなものがお互いに生まれるような気がしています。

逆に、どれだけ正しいアドバイスでも、相手の言葉を一度も自分の中に通していないものは、どこか冷たいんです。

「あなたのために言っている」という顔をしながら、実際には相手の言葉をまったく受け取っていない。

相手の言葉をただの素材や呼び水にして、自分の中にある確固たる正しさを語り直しているだけに過ぎなかったりする。

最初から自分が変わる気なんて一切ないし、そもそもそれを自分の中に通すつもりもない。

それっていうのは、たぶん相手にもちゃんと伝わってしまうんだと思います。

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また、おもしろいのは、佐渡島さんが単に「やさしく伝えましょう」と言っているわけではないところです。

感想は、甘やかしではない。ただ褒めることでもないし、傷つけないように何も言わずにおくことでもない。むしろ佐渡島さんが語る「感想」には、かなりシビアな視点がちゃんと含まれています。

でも、そのシビアさがただの「ダメ出し」ではなく、ちゃんと相手への「応援」として届くためには、相手の未来への信頼が、必ず必要になるんですよね。

今を甘やかすわけではないけれど、未来を見限りもしない。この両方を、同時に持っていること。それが、本書で語られている感想の核心なのだと思います。

僕はこれを、以前からこのブログでひたすらに書き続けてきた「包摂の中の否定」のようなものだと感じました。

相手を丸ごと包摂し受け止めるというその信頼関係が成立しているうえで、それでも「ここは違う」「ここはもっといけるはずだ」とちゃんと伝える。

切り捨てるためではなく、相手に自分の足で立ち上がってもらうために、素直な感想の言葉を差し出し、そこで信頼を構築しようとするような態度こそが重要なんだと。

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だからこの本は、ケア論の本としても読めるなと思ったんですよね。

編集者は、作家を甘やかすファンでもなく、でも、一方的に鍛えるようなトレーナー的な態度でもないわけです。

作家が、自分の中にある創作の熱量や魂に、自分自身で気づけるように、いちばんそばにいる最初の読者なのかもしれません。

この話を読んでいて、僕は東畑開人さんの『カウンセリングとは何か』に出てくる、河合隼雄さんの「ついてきてくれるなら、行きましょう」という態度のことも同時に思い出しました。


相手を強引に引っ張るのではなく、でも見捨てるわけでもない。

この距離感は、編集者の伴走にも、かなり近いものがあるのかもしれないなと感じました。

だからこそ、編集者の仕事には、雑談や食事や、ただ一緒に過ごす時間が必要になるのだと思います。

本書の中でも、雑談や、一緒に何かを見ること、時間を共にすることの大切さが何度も繰り返し語られてあって、その部分も、ものすごく腑に落ちました。

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同じ言葉でも、誰が言うかで、本人への届き方はガラッと変わってしまう。

だとすれば、どんな時間をともに過ごしてきたかで、その受け取られ方も180度変わるわけです。

「伝える」は、技術。でも「伝わる」は、関係性そのものだと、佐渡島さんは本書に書かれていて、僕はその一文を読んでものすごく強く膝を打ちました。

関係性のないところで正論を言えば、それは北風的なメッセージになってしまう。でも、関係性が健やかに育まれた中で差し出された素直な感想は、太陽みたいに、相手を少しずつ開いていくことがある。

そして、そうやって相手を少しずつ開いた先で、共に変容したときに、初めて本当の意味でお互いが目指す「最高のマンガを生み出す」という結果にコミットできる。急がば回れ、的な話なんだろうなあと。

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そして、この話は、そのままAI時代の言葉の話にもつながっていく気がしています。

AIはこれから、ますます真っ当なアドバイスをしてくれるようになる。

「この一言に、私は救われた」とは言えない。「ここは論理的には歪んでいるけれど、この歪みこそが、この作品の命なんだ」と言って、作家と一緒に心中することはできない。

本書の後半では、そっと差し出す「祈り」のような言葉が何度も出てくるのですが、AIは分析することはできたとしても、「祈る」ことはできない。

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人間同士のコミュニケーションに最後まで残る価値は、たぶんこのあたりにある気がしています。

つまり、感想とは、正しい分析ではなくて、身体を一度通った共鳴、その表明なんですよね。

それを互いに差し出すこと。それは、不完全な人間にしかできないことであり、佐渡島さんはそのことについて、本書の中で僕ら読者に必死で教えてくれているなと感じます。

むしろ、僕らが不完全で変化し続けるような生き物だからこそ、その自分自身が変容してしまったという感想には、大きな価値が宿る。

その価値を、今こそしっかりと理解していきたいなあと思います。

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相手を変えようとする前に、まず、自分自身がどう変わったのかを丁寧に差し出してみること。

そのささやかな感想を伝え合う過程が、誰かの背中をそっと押し、勇気を与えることができるのだと思います。

佐渡島さんの『編集者のフィードバック』は、そんなことを教えてくれる素晴らしい本でした。ぜひみなさんも一度手にとり、読んでみてもらえると嬉しいです。

https://wasei.salon/books/9784295411574

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。