自分は読書家だという自負がある人たちが、オーディオブックをどこか見下している感じがあって、正直なところなんだかすごく苦手です。

紙の本 >>>>> 電子書籍 > オーディオブック

たぶん彼ら・彼女らの中には、このような価値の序列が無意識のうちにあるのだと思います。

もちろん、露骨に口にするわけではない。でも、ふとした言葉の端々ににじみ出てくる感じがある。

「耳で聴くのは、読むのとは違うよね。ながら聴きで本当にわかるの?」そういう彼らの一言に触れるたびに、なんだか「そういうとこだぞ!」と本気で思ってしまいます。

しかも、その無意識の見下しを指摘したところで、返ってくる言葉もだいたい想像もついてしまう。

「そんなつもりはなかった」とか「読書する人は、どんな形であれ素晴らしいと思っています」とか、きっと、そんな木で鼻を括ったような答えが返ってくるはずです。

でも、こちらが引っかかっているのは、そういうことではないんですよね。

Audibleがグングンと頭角を現してきて、オーディオブックに対しての風あたりがつよくなってきたなと思うので、今日はそんなことについて、丁寧に考えてみたいなと思います。

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この点、もちろん紙で読むことと、耳で聴くことは違います。それは間違いありません。

紙の本には紙の本のよさがあるし、視線で文字を追って、本全体の厚みを手の感触ごと覚えていくような体験は、たしかにオーディオブックとはまったくの別のものです。

だから、その違いを大事にしたい気持ちはよくわかります。

むしろ、読書体験を深く積み重ねてきた人ほど、細かな差異のほうが気になってしまうもの。

それを全部「同じ読書ですよ」と雑にまとめられたら、抵抗感を覚えるのもよくわかります。

ただ、それでもなお、まずは包摂から始めたほうがいい気がするのです。

どんな形であれ、読書は読書だ、と。

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だって、読書文化自体が衰退しているのだから、わざわざ差異ばかりを言挙げして「あれは厳密に言えば、読書ではない」とする必要があるのか、と。

オーディオブックで入ってきたひとが、紙の本に流れることもよくあることだし、読書の間口はできるだけ広いほうが良いに決まっています。

紙では一生出会わなかったはずの一冊に、音声だからこそ出会えた人もいる。

にも関わらず、「それは本当の読書ではない」とでも言いたげに扱う感覚のほうが、そしてそれを「空気」のようなものとして曖昧に生み出すことのほうが、よっぽど読書というものを狭くしてしまうし、書店の衰退に対しても、拍車をかけているように思うのです。

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また、ここで少し不思議なのは、読書家の人ほど、目で読むときの不完全さにはずいぶん寛容だ、ということです。

斜め読みや飛ばし読み、必要な章だけ読む、このあたりは、むしろ「読書術」としてわりと堂々と肯定されています。

本をたくさん読む人ほど、すべての本を一字一句おなじ密度では絶対に読んでいない。

それ自体は、決して悪いことではないと思います。本との付き合いが深くなるほど、読み方は一様でなくなっていくのも当然のこと。

なのに、これがオーディオブックになると、急に風当たりが強くなるんですよね。「そんな倍速で聴いてわかるの?」「ながら聴きで、本当に理解できるの?」と。

いや、でもあなたたちも飛ばし読みしていますよね、と僕なんかは思ってしまうんですよね。

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そもそも読書という行為そのものが、最初からかなり不完全で、状況に左右されるものなのだと思います。紙の本だって、いつも完璧に読まれているわけではない。

僕らは本をかなり粗雑に読んでいて、それでもその粗雑さのなかから、ちゃんと何かをそれぞれに受け取っている。

だとしたら、耳で聴く読書にだけ、どうしてそんなに高い純度を求めるのだろう、と思ってしまうのです。

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「ながら聴き」への批判も、たぶんこことつながってきます。

『本を読めなくなった人たち』という本を書かれた稲田豊史さんが、何かのインタビューの中で、目で読む読書が若い人たちに避けられる理由として「ながらが、できないから」だと語っていました。

これは本当にその通りだと思います。

紙の本を読む行為は、目と手を、けっこうな時間割合で占有してしまう。他の作業が何もできなくなる。

もちろん、それが紙の読書のよさでもあるわけです。

世界からいったん離れて、言葉のなかに深く潜っていく時間には、今でも大きな価値があるし、それこそが読書の醍醐味でもある。

でも同時に、その「占有される感じ」そのものが、現代の生活のなかで読書を遠ざけてしまう一面もあるのだと思います。

端的に言うと、現代において、贅沢すぎてしまうのです。その時間の使い方は。

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あと、ここで一度、立ち止まって考えてみたいのは、シングルタスクで集中することだけが、そんなにも偉いのか、と。

「ひとつのことに全集中」って無条件で肯定されがちな行為だけれど、それって本当に…?って思ってしまう。

現代社会のなかで、日常でも仕事でも、完全に一つのことだけに集中できる場面は実はそんなに多くはない。

むしろ、いくつもの流れを同時に見ながら、必要なものを拾い、また戻ってくる。そういう往復運動できる力のほうが強く求められているような気がします。

この点、佐々木俊尚さんが『読む力大全』の中で、集中力ではなくあえて逆手に取った「散漫力」を身に着けようという話をされていましたが、まさにそうだなと思います。


集中力だけでなく、複数のことに同時に気配りできる散漫力のほうにも価値がある時代が、まさに今。

AIエージェントが出てきて、その指示出しこそが重要になってきて、ますますそこに拍車がかかってきているように思います。

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もちろん、ただ注意が散っているだけでいい、という話ではありません。

通知に振り回されて、何も深まらないまま時間が溶けていくような散漫さは、たぶん違う。でも、散漫さのなかから必要なものを拾い上げて、一度離れてもまた戻ってこられる力は、現代のサバイバル術のひとつです。

完璧に集中していなくても、それでも何かを受け取れる力。だとすれば、それもまた、これからの読書に必要な力のひとつなんだと思います。

そう考えると、オーディオブックは「読書の劣化版」ではなくて、「大”ながら”時代」における新しい集中力の鍛え方、その訓練そのものなのかもしれないなと僕は思います。

あと、そもそもオーディオブックだって、訓練しないと聴けないものです。4倍速で聴くためには、一定の訓練が必要。それは紙の本でも、全く同じです。

紙の本派のひとたちも、紙の本がスラスラ読めるようになるまでには、相当な努力をしたはず。

にも関わらず、十代の頃に獲得した、その能力だけにしがみついていることが、僕にはとっても不思議に思える。

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あと、よく「紙で読んだほうが圧倒的に速い」と言われます。それも、たぶん本当です。

同じ一冊なら、目で読むほうが読み飛ばせるし、構造もつかみやすい。自分のペースで読み進められる。

読書そのものの速さでいえば、紙や電子のほうが圧倒的に速いと思います。

でも、それはあくまで「その本だけに、単独で集中する時間を使った場合」の速さなんですよね。

散歩や家事をしながら聴いたり、旅先へ向かう移動時間に一冊を聴けたりするなら、生活全体で見たときの「速さ」は、まったく別の話になります。

言い換えると、紙の読書は、読書のためにわざわざ時間を切り出す。一方で、オーディオブックは、すでにそこにある生活時間のなかに、読書の時間も差し込むわけです。

だからオーディオブックは、読む速度を上げているというより、本と出会える時間の総量そのものを増やしているのだと思います。

ふたつの時間が、同時並行的に流れるわけですから。

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そして、ここがいちばん言いたいところなのですが、大事なのは「ながら聴きしながら、何をしているか」のほうだと思うのです。

ながら聴きそのものが良いとか悪いとかではなくて、その「ながら」のもう片方に一体何があるのか。

スマホをだらだら眺めながら、なんとなく音声を流しているだけなら、たしかにそれはあまり豊かではないかもしれない。

でも、街に出ながら聴いたり、友達に会いに行く途中で聴いたり、旅先へ向かう新幹線や飛行機のなかで聴くなら、それは、まったく違う時間になります。

ずっと家にこもって本だけを読み続けている人間にむけて「書を捨てよ、街へ出よう」とよく語られますが、「本を連れて、街に出よう」と僕なんかは思ってしまいます。

現地を歩いて、人に会って、旅に出て、身体を動かして、自分自身で実際に触れてみる。

その時間に、本も一緒に連れていける、ここに、オーディオブックの現代的な価値があるのだと僕は思っています。

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これからのAIの時代に、本当に価値が出るのは、机の上だけで完結する知識ではない。

むしろ、そういう生身の体験の価値のほうが、これからどんどん上がっていくはずです。

でも、だからといって、そのときにシングルタスク的な集中時間を求められる本を、トレードオフのようなものとして捉え、二者択一で「体験か、本か」と迫って、本のほうを捨て去ってしまうのは、あまりにもったいない。

どっちも享受すればいい。現代はそれができる時代なんだから。

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ただし、もちろん、やりすぎには気をつけたいところです。

便利だからといって、いつでも何かを聴いていればいい、というわけではありません。

ずっと耳をふさいでいると、今度はもっと大切な沈黙のほうが失われていく。

何も聴かずに歩く時間や、街の音をそのまま聞く時間までを全部オーディオブックで埋めてしまうと、それはそれで貧しくなる気がします。過ぎたるは及ばざるが如し。

だから、オーディオブックを絶対化するつもりはまったくない。

紙も電子も音声も、そして何も読まない時間も、それぞれにちゃんと役割がある。

大事なのは、形式をひとつに決めてしまうことではなくて、現代のライフスタイルに合わせて、その日の生活ごとに、読み方を自由に選べることなのだと思います。

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どんなジャンルでも、もう昔のようなひとつの型のままでは、若いひとを惹きつけられなくなっている。

師弟関係も、仕事も、学びも、読書なんかも全部、「こうあるべきだ」だけでは縛れない。そして、たぶん縛らないほうがいいことも、間違いない。

縛れば縛るほど、若い世代は逃げていってしまうわけですから。

だとすれば、考えるべきなのは、昔のあり方をそのまま押しつけることでも、若い世代に合わせて昔の大切なものを全部捨てることでもなくて、昔ながらの読書スタイルの中に確かに存在した深さを、いまの生活に合う形でどう受け継いでいくか、を考える。

それが、大人の読書家たちの役割なのだと思います。

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守るべきなのは、本と出会う人の数を少しでも増やすこと。読書の入口を、できるだけ広く開けておきながら、そのうえで、深く読む方法も、そっと手渡していくこと。

「電子書籍やオーディオブックは、本当の読書ではない」と切り捨てるのではなく、「それも読書です。そのうえで、こんな読み方もありますよ」と誘えること。

そのうえで、もっと深く読む方法を本が好きなひとたちみんなで、考えていけばいい。

どちらか一方を本物と呼ぶのではなく、その両方を包摂しながら、現代社会の暮らしのなかにちゃんと置きなおす節度のようなものが、今改めて大事だなあと思ったので、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。