昨日のVoicyのゲストに、F太さんにお越しいただきました。
今回も、最新回の「オーディオブックカフェ」のこぼれ話についてふたりで語り始めたわけですが、ひょんなことをきっかけに、「地域性」や「方言」についての話題になりました。
そのなかで、僕がものすごくおもしろいなと思ったのは、F太さんのご出身である東北のご両親が、いつも独り言を言っているというお話です。
F太さんは実家に帰るたびに、一瞬この状況に戸惑ってしまうと語られていました。
なぜなら「親のそんな独り言を、ちゃんと聞き取って理解しなきゃいけない」と感じてしまうから。
つまり、相手の話をちゃんと応答しなければいけないという強迫観念がそこにあるんだ、と。
でも親御さんのほうは、自分の独り言をちゃんと聞かれると思っていないから、逆にちゃんと聞こうとされることにビックリされてしまうのだと語られていました。
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つまり、親御さんは明確な反応や返答が欲しいわけではなく、届いているという実感が欲しくて、独り言を言っているはずなんですよね、きっと。
とはいえ、それが完全に無視されるのも違う。
その宛先は独り言を言っている本人、つまり自分自身であり、その自分に届く過程の中で、相手にもなんとなく届けばいいな(誤配)ぐらいの感覚なのだと思います。
この一連の話はなんだか、ものすごく重要な示唆を与えてくれる話だなあと思いながら、僕はF太さんのお話を聴いていました。
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で、きっとこのように独り言をつぶやける関係性、内容は必ずしも理解しなくていい関係性のほうが、本来人間と人間のコミュニケーションや、家族や共同体においては大切であったはずなんですよね。
逆に言えば、僕らは「相手の話をちゃんと聞かなければいけない。そして、ちゃんと理解しないといけない」という現代的な価値観を、都会やインターネット上で浴びすぎてしまった。
そんな聴き方や寄り添い方こそが、相手への礼儀であり、ビジネスマナーであり、相手を尊重することにもつながるんだ、と。
でもそれがもしかしたら、本当は間違っているのかもしれない。
何ならそれこそが、逆に「分断」を広げてしまっているのではないか。
まさに「聴く」ブームの功罪のような話です。
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この点、僕はこの独り言の話を聴いて、なんだかとても東北人らしい立ち振舞だなあと思いました。
配信の中でも言いましたが、きっと宮沢賢治だって、いつもブツブツと独り言を言っていたと思いますし、きっと太宰治もそう。
また、この独り言というのは、本来のTwitter文化そのものでもあるわけですよね。
Xに変わってから、「ポスト」という呼び方になってしまったけれど、もともとはツイート(つぶやき)だったわけですから。
そう考えると、もう何年間も変わらずに、ずっと鬼バズをしつづけるアルファツイッタラーのF太さんは、その時点で既に、とても東北人らしい挙動を行っているのかもしれないなと思いました。
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そもそも、僕ら人間は、自らの主張において一貫性なんて存在しないはず。
ここで思い出すのは、東畑開人さんの「心は複数である」というお話です。
東畑さんは、LINEで友達から「死にたい」「もう私死ぬから」ってメッセージが来たときの話を具体例に出しながら「 実際には、死なない。死にたくないから、そういう人の気を引くようなことをするんだ」という一般論に対して、明確に反論しています。
『雨の日の心理学』という本から、少しだけ引用してみたいと思います。
「死にたい死にたいっていうやつはどうせ死なないんだよ」みたいなマッチョな話ではありません。あれは完全に間違ってて、「死にたい」と言っているときには、当たり前ですけど、死にたいんですよ。でもその裏に死にたくない気持ち「も」ある。両方ある。
ここのくだりは、なんだかめずらしく強い言葉を選ばれているなと感じました。
それゆえに、本当に強く実感されている部分でもあるんだろうなあと思いながら、僕は読みました。
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また、頭木弘樹さんの『痛いところから見えるもの』の中にも、似たような話が書かれてありました。
入院しているとき、「先生を呼べ!」と騒いで、いざ医師が来ると、「さわるな!」と怒るおじいさんがいた。それを何回もくり返すので、困った患者だなあと、みんなあきれていたし、私もそう思っていた。でも、長く病人をやっていると、おじいさんの気持ちがだんだんわかる気がしてきた。治す手を求めているし、痛い手がこわいのだ。アンビバレントな状態におちいっているのだから、アンビバレントな態度をとってしまうのはむしろ当然のことで、おじいさんは自分の気持ちに正直なだけだったのだ。
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僕らはこのような本人の主張の一貫性のなさを、「メンヘラ」という言葉で、ネット上で散々バカにしてきたわけです。
もちろん、僕もご多分に漏れず、バカにしてきました。なんなら20代の頃の自分は、そういうメンヘラ的行為を、心底毛嫌いをしていた。
でも、30代後半の年齢になってきて今思うのは、相手の心のなかにある複数性を、複数のままに受け止めることの重要性も大事に思えてきます。
「あなたの本音は一体どっち!?」じゃなくて、どっちも本音だし、どっちも同程度に受け取ってみること。
これこそまさに「複雑なことを、複雑なまま受け入れる」という話だなとも思います。
だって本来、人間の心は複数だから。
社会生活を営むうえで、あたかも一貫性があるように、あくまで建前的に、僕らは日常生活の中で意識して振る舞っているに過ぎない。
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そしてそれって、なかなかにむずかしいなと思います。無意識がいつも顔を出してくる。
だからこそ、それよりもお互いの「独り言」が届く距離感にいることのほうが大切で。
そのときには、同意も否定も別にいらない。
だって、直接あなたに反応や応答が求められていることではないのだから。
それよりも、届いているという実感が欲しいだけなのだと思います。
逆に言えば、その実感さえ、お互いに持ち合うことができていれば、僕らは共にいられるということでもあるのかもしれないなあと。
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もちろん、度が過ぎる場合は、ただの「構ってちゃん」になってしまうし、完全にメンヘラになるんだけれども、でも多かれ少なかれ、誰にでもその要素はある。
その証拠に、これがきっとリモートワークがなかなかうまくいかない理由だったり、音声配信で気持ちを伝え合うことが、流行っている原因だったりでもあるかと思います。
言い換えると、テキスト(ポスト)コミュニケーションや、Slackのようなチャットコミュニケーションだと、伝え合うことがむずかしい部分でもある。そこでは、心の複数性が自然と立ちあらわれてこないから、です。
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このように考えると、相手の主張を首尾一貫して理解しようとしないということが、今めちゃくちゃ大事だなと思う。
「だって、あの時、あんなふうに言ったじゃないか!」とか「前に言っていたことと完全に矛盾するじゃないか!とか、そうやって突っ込まないことの節度や配慮、相手のこころの複数性への敬意をちゃんと払うことのほうが大事になってきている。
「聴く」の重要性ばかりがあまりにも語られ続けた結果として、そのお互いのなかに存在する強迫観念が、結果的に「ちゃんと相手の話を聞いて理解しないといけない!」となり、それが今の都会の(ビジネス)のルールになりつつある。
そして、すべてが資本主義に毒されていく中で、家族や友人のような間柄であっても、そのルールが適用されてしまっていることに、田舎に帰った時にふと気付かされてしまうということなんだと思います。
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ここまでの話をまとめると、人間のこころというものがそもそも常に複数存在している。
そしてそれはいつだって最初は、ボソボソと独り言のような形で、この世界にあらわれる。
このタイミングにおいて一貫性はない。「武士に二言はない」というほど腹が決まった言葉ではまだないということです。
言い換えると、腹が決まっているような切れ味の良いストックフレーズではなく、「私のヴォイス」として、独り言という弱々しい形であらわれる。
だったら、それをお互いにただ黙って受け流す。
その余韻や余白「も」、同時に大事にする。
それが本当の意味で、意見も価値観もまったく異なる他者同士が、共にいるための秘訣なのかもしれません。
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今日の気づきを通して、お互いに理解し合うことも大事だけれど「絶対理解しなければいけない」という呪いみたいなものは、少しずつ解いていきたいなと思いました。
それよりも相手の独り言に、ただただ黙って寄り添う。別に、聴こうとさえしなくてもいい。
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また最後にこれは完全に余談なのですが、今のTwitterのつぶやきは、キャンセルカルチャーのためにこそ、過去のつぶやきが掘り起こされて、用いられてしまっていますが、それは「つぶやき」の本旨からはいちばん遠い扱われ方であるということ、今日の話からも、とてもよくわかるかと思います。
だからこそ、Wasei Salonの中のタイムライン、このクローズドの中のつぶやきは、本来のつぶやきの役割を改めてしっかりと復活させていきたい。
僕だって、あの場に書き込むときは、まったく首尾一貫していません。複数の心のうちのひとつを、ボソボソと発露させているだけ。誤字脱字も多いですし、前言撤回する気も満々です。
それゆえに、お互いにしっかりと受け取る義務もない。でもそれが、いつだって届く距離感に共にいること。
あなたの声は私にちゃんと届いているかもしれないし、届いていないかもしれないよ、ただ間違いなく届く距離感にはいて、我々は共にいようと意識しているよね、ということを静かに示していきたい。
それがきっと、本来的な「共同体」としてのお互いに無理のない寄り添い方なんだろうなあと思いました。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。