最近、本もだいぶ高くなったよなあと思います。
新書や文庫でも1,000円超えは、あたりまえになってきました。
「漫画は嗜好品であり、全巻揃えられるのは富裕層」とよく言うけれど、いよいよ紙の本も高級品の部類になってきた感じがあるなあと思います。
また、相対的に、様々なサブスクによる◯◯放題のデジタルコンテンツサービスが登場し、コンテンツが限りなく安価に近づく一方、本だけが質量のある物体として世の中の流れと共にインフレしているからこそ、余計にそう感じるのでしょうね。
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とはいえ、身銭を切って2,000円以上の本を積極的に購入して読もうとしないから、2,000円以上の本が買えない状況下に、いつまでも置かれ続けるというのも否めない。
ある程度、身銭を切って学べば、そこから抜け出せることも真実だとは思いつつ、金銭的余裕と、本を読むだけの時間的余裕がそもそも存在しないんだ、という場合もあるかと思います。
そして、仕事から家に帰ってきて疲れ果てているときは、スマホゲームかショート動画、アイドルの推し活にしか手につかないんだ、という流れは致し方のないことでもあると思います。
それは、個人の問題というよりも社会、特に資本主義というゲームの構造上、そうなることになってしまっている。
なおかつ、その抗いがたい構造こそが、まさにいまビジネスマンたちに狙われていたりもするわけですよね。
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で、これを先鋭化させていけば、すぐに自己責任論からの情報商材ビジネスのできあがり。
そこに情報格差が生じるのだから、当然と言えば当然の成り行きです。
知っているひとが知らない人をカモにしているだけであって、ビジネスとしては何も間違っているわけではないし、そこでまた搾取構造が生まれてしまうのも必定です。
なおかつ近年はそれがスピード勝負であって、焼畑農業的にもなりつつある。
誰よりも早くその差分を見つけては、情報商材やそれに類似したスクールビジネス、また交流メインのカンファレンスやオンライン上の掲示板のようなコミュニティを作成して、そこに関所を設けて課金してしまえばいい。
そしてまた、ある程度情報が一般化したタイミングで次へ行く。
その時々に、自分さえ稼げればそれでよくて、その業界の健全な発展なんて一ミリも興味がないというひとが大半なのだと思います。
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でも、そんな時代だからこそ僕は、何千円もする本でも自腹でポンポン買って、自分で時間をかけてしっかりと読み込んで咀嚼をし、それを惜しみなく還元していきたいなと強く思います。
つまり、僕が散々コストをかけて得られたその知識によって、情報格差を狙って他者からの搾取をするためではなく、他者へのバフのために用いたい。
なぜなら、社会福祉(公金や税金)なんかも含めて、自分が幼い頃から自分自身に億単位の学習投資コストをかけてもらってきたことは間違いない事実だろうなあと思うからです。
そうなってくると、もはや自分自身がある種の公共財的なものにも思えてくる。
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こうやって時間をかけて本を読み込める立場にいるということは、自分で勝ち取ったというよりも、たまたまの偶然やご縁のようなものが重なった結果、自分の手元に舞い降りてきた、鳥の羽根みたいなものでもあると思うから、です。
これもすべて、世間のおかげ。
だとすれば、それを他者から搾取するためではなく、惜しげもなく社会へと還元していきたい。そのための循環する健やかな仕組みやシステムのほうをつくりだしたいと思うのです。
きっと、これもひとつのノブレス・オブリージュの形だと僕は思うし、そういう意味でも、もはや自分の読書習慣は趣味ではなく、社会的責務だとも感じるようになってきました。
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じゃあ、具体的にはどうやればいいのか。
とはいえ、やっぱり砂を噛むような時間が長く続くことも否めない。
それが一般的には諦めてしまいやすい原因にもなってしまうから問題になるなあと思います。
僕がここでいつも強く思うのは、本を読むときに明確に「顔のある他者」として実際に手を差し伸べたい人がいる状態、それが一番の学びになるなということなんです。
このあたりは、語学学習とまったく同じ。
言い換えると、「この想いを伝えたい顔のある他者、そんな相手がいる」ってことが学習サイクルにおいて、いかに大切なことか。
その言語が母国語である恋人をつくるのが、一番手っ取り早いというのは本当にそのとおりで。
具体的に解決したいことだったり、悩みだったりがあるからこそ、そこに当事者意識や課題意識を持ち始めて、実際に必死でページをめくるわけですから。
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もちろん、それこそが、辛く苦しい状況とも言えるかもしれない。
でも、こうやって考えてくると、それはそれで本当に幸せな状態なんだなと思います。
本当に課題が解決するか否か、自らが実際にその活動によって救われるか否か、幸福になれるか否かはおまけみたいなもので、本当に結果論に過ぎない。
自分自身がその過程にいること自体が、幸せなことだなあと素直に思えてきます。
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当然、僕の場合、本を読んでいるときは「Wasei Salonにどう活かせるか」ということばかりをずっと考えながら読んでいます。
また、Voicyを毎日聴いてくれているひとたちに、どれだけわかりやすく、なおかつおもしろいと感じてもらえる中で、惜しみなくこの知見を提供できるかを考えている。
そうやって、実践の場があるというのは、本当にありがたいことだなと思う。
このように考えてくると、全力でコミットしたいと思えるむずかしい現場(状況や環境、相手)が存在するということは、生きるうえで、実は、その時点で一番幸せで恵まれていることなのかもしれないなあと思うようになりました。
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この点、たとえば、最近読んだ2冊も、まさにそういう本でした。
一冊は、先日もご紹介した頭木弘樹さんの新刊『痛いところから見えるもの』。
そしてもう一冊は、東畑開人さんの新刊『カウンセリングとは何か』です。
こちらも、改めて、複数回にわたってこれからブログやVoicyでしっかりとご紹介していくつもりではありますが、この本を読み終えたときは本当に呆然としてしまいました。
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それは、痛みとか悩みとか苦しみとか、ありとあらゆる煩悩が具体例として、自分の前に存在していたからなんだろうなと思います。
最所さんがよく冗談交じりで、進研ゼミの漫画みたいに「これは進研ゼミで見たやつだ…!」ってなるという話をVoicyの中でもしてくれていますが、まさにあれこそ学びの原初の体験そのものだなと思います。
現実と知識の交差点、その時に課題に立ち向かう「勇気」を私という存在に与えてくれるのは、周囲の顔のある人々、このひとたちのために立ち向かいたいと思える状況に居させてもらっているかどうかに尽きるんだろうなあと。
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僕の場合、Wasei Salonも、Voicyも、F太さんと一緒にやっているポッドキャスト番組「オーディオブックカフェ」も、トリートメントという鳥井とのマンツーマンのセッションも、すべてそうです。
どうか、この場で惜しみなく提供する自分の読書体験が、誰かの役に立ちますように、という願いを込めて、どれも日々運営しています。
この感覚というのは、以前もご紹介したことがあるように、中村天風の言葉である「霊性満足とは、できるだけ、自分の言葉やおこないが人の心に喜びを与え、人に幸福を感じさせるように心がけりゃいいだけなんだ。」というあの話にも見事につながる。
これは本当にそのとおりで、それこそが真の意味での幸福な状態なんだろうなと思います。
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もちろんこれは、決して日本的な精神には限らない。
『愛するということ』を書いたエーリッヒ・フロムの言葉「たくさんもっている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ」という話にも見事につながっていく。
まさに以下のような話です。
「これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなく、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているものすべてを与えるのだ。このように人は自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。」
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そして最後に、これはなんだかメタ構造になってしまうけれど、こういうふうに今ブログを書きながら思えていることもまた、読書とコミュニティのおかげでもあるわけですからね。
中村天風やエーリッヒ・フロムの言葉に触れて、その通りだ!と素直に思えている状況にいることのありがたさ、です。
そんなのはキレイゴトだ!とか、嘘っぱちだ!とか、矛盾する!とか、そんなことは一切思わない。
むしろ、このような気付きや発見、洞察こそが真実だと素直に思えるわけですから。
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この循環を行える空間を淡々と作り出していきたいなあと思います。
そのためのコミュニティであり、なおかつビジネスでもあると思うから。これが、本来の経世済民という意味での「経済」の意味合いでもあると思っています。
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生きるうえで、本当に大切なことは何か。
そのために、本を読み、旅などを通じて現地取材も行いながら、僕自身も有識者の方々に直接お話を伺っていきたい。
そこで得た知見を、惜しみなく還元し、自己犠牲ではない真の豊かさを、みなさんと共に育みながら体現していきたいなあと思っています。
それが、僕が各コミュニティやメディアを通して、本当の意味で実現していきたいことでもあります。
いつもこのブログを読んでいる方々にとっても、何かしらの参考となっていたら幸いです。