従来なら当たり前のように炎上していたものが、最近はもう炎上しなくなったというのは、近ごろよく語られる話です。
でもきっとそれは「やっとそれが許される社会に変化した」とか「やっと社会のほうが時代に追いついた」とかでもなんでもなくて、単純に無視されるようになっただけだと思います。
これは、Twitterで一向に駆逐されない闇バイトの募集なんかとも、まったく一緒。
潰しても潰しても、完全にいたちごっこになってしまっている。
どれだけ正義感が強い人であっても、一日中Twitterに張り付いて注意喚起なんかしたりしない。それと一緒なんだろうなあと。
でも、この危うさは「昔のインターネット」の世界を知っているひとほど、実はひっかかりやすい罠でもあるなあと思っています。
今日は、ネット上で情報発信を15年以上続けてきて炎上しづらくなってきたネット社会に思うことを少し書いてみたいと思います。
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この点、昔のインターネットには確かに「自浄作用」がありました。
言い換えると、世間の常識からどれだけ逸脱しているか。そのファールラインを探る場所でもあった。
そのギリギリのラインを突いていくことが「ハックする」ということであり、いわゆる炎上マーケティングの本質でもあった。
じゃあ、なぜ当時はそんなふうに自浄作用が存在していたのか。
単純に、発信者自体も少なく、ある程度テキストコミュニケーションに長けているひと、でもリアルの業界はまったく異なるひとたちが、ひとつの同じ場を共有していたのが、初期の頃のブログ論壇やSNSだったからだと思います。
だからこそ、世論の反応も“その場”で観ることができたし、「さすがにそれはないよ」というツッコミも各方面からすぐに飛んできた。
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でも、今はもう違います。ただ「野放し」になるだけ。
オンラインサロンや有料コンテンツが当たり前になったから、それに類似するものも社会的に許されるようになったと思われがちだけれども、「それは間違っているよ」と誰からもいちいち指摘すらしてもらえなくなっただけだと感じます。
言い換えると、あまりにも有象無象すぎていたちごっこになった結果、それぞれがもはや自衛するしかない世界線となってしまった。
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この忘年会シーズンにわかりやすい喩えでいえば、新宿や渋谷、池袋のような街に蔓延るボッタクリ居酒屋みたいなものですよね。
数が少ないうちは、口コミやメディアによる自浄作用がそれなりに働いていた。
でも、いまはもうその数が増えすぎて、さらに開き直るひとたちまであらわれてしまうと、もう淘汰どころではない。
結果として、世の中で起きるのは「棲み分け」、つまり「分断」につながっていくわけですよね。そして、騙されるヤツが悪いと、自己責任論となるわけです。
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僕は、今年はインターネットが「リアル社会」と完全に同一となり、底が抜けた元年だと思っています。特に「東京」そのものみたいになったなと感じています。
昔、誰かが言っていて、今もとても印象に残っている言葉があります。
「とんでもないブスが、とんでもなく着飾っていても、誰からも咎められずに許されてしまう街が東京。」
この言葉の善し悪しはさておき、ここで語られていることは、東京の持つ「とてつもない寛容さ」と、その裏返しとしての「とてつもない無関心さ」、その両方を併せ持つのが東京の真の姿なんだと伝えてくれている。
良くも悪くも、誰も見向きもしない。
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一方で、ローカルに行けば行くほど「身の程をわきまえろ!」と心無い言葉が飛んでくる。こっちも本当に良くも悪くも、です。
まさに「自分」という言葉は、「自由」と「分際」で成り立っているという、あの安岡正篤の言葉にも繋がる話。
https://wasei.salon/timeline?filter=following&selector=messages?filter=all&message_id=10839614
圧倒的に「自由」側に振り切るのが東京であるとすれば、「分際」側に振り切るのがムラ社会。
そして、インターネットはその中間ぐらいだったところから、完全に今年、東京側に振り切れて、底が抜けた感じがしています。
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そんな中で、「従来だったら炎上したけれど、今は炎上しないなら、もっと過激にやっても良いんだ!」と、自分の中のファールラインを勝手に引き直してしまうことはかなり危ういなと思う。
しかも、そのときの言い訳は、どれだけ自分のエゴや下心が混ざっていても、「仲間や家族を守りたい。そのためには背に腹は代えられない」という物語を、いくらでもカンタンに捏造できてしまう。
というか多くの場合、それはたしかに真実でもあるから余計にややこしいなと思います。
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たとえば、みんなで仲良く椅子取りゲームをしていたときに、最初は倫理観高くゲームが進んでいたとしても、そのうち誰かがこっそりとカッターを持ち出してきて、脅してきたらどうなるか。
「自分もカッターを持たないと、自分の椅子は守れない」と考えてしまうのは、ある意味自然な流れだと思います。
でもそれは、自分の倫理観や価値基準を「世間」に全面的に委任しているだけとも言える。逆説的ではあるけれど、そこに「自己の自由」なんてものはまったく存在しない。
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こうやって、自分の倫理よりも「生き残るための常識」の方が優先されていくと、本当に大事にしたかったはずの自己の価値基準が、いつの間にか自分の中から完全に失われてしまうわけです。
逆に言えば、世間の中における「常識」なんて、その程度のものだということでもあるのだと思います。
ひどくカンタンに移り変わるもの。
だからこそ 「自分は一体何を大事にしたいのか」という倫理を、自分の中でちゃんと打ち立てていくことが、今こそ本当に大事になってくるはずです。
さもないと、本来したくなかったはずのファール(逸脱)でさえも「状況的に仕方がないから。今はもう炎上しないから」といった安易な理由で、自分自身で望んでファールを犯すことになっていく。
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この点、西洋の一神教における「神」という存在は、このあたりを担保する仕組みとしてきっと見事に機能しているのだと思います。
常識が移ろいゆく中においても 「私と神とのあいだで、取り交わされる契約」その倫理がまず絶対的に存在し、それ以外はすべて相対化されるというような状態。
ここには、以前もご紹介したハンナ・アーレントの「人殺しの話」なんかにも見事に通じるものがあります。
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でも、宗教なき日本においては、その基準がすべて世間の「空気」に回収されてしまう。
具体的には「みんながやっていれば自分もやるし、みんながやっていなければ自分もやらない」となる。
でも、大事なことは、社会の常識や空気のほうではなく、自分が本当に大事にしたい価値や倫理のほうであるはずです。
つまり、みんながやっていても、自分はやらない。みんながやっていなくても、自分だけはやるという態度を、どこまで引き受けられるか。
その結果として、誰もついてこないかもしれないし、客観的な「正解」から見れば、コスパやタイパも悪く圧倒的に損をするかもしれない。
それでも、その決断に、自分で自分の責任を持つということ。
それが、 「自分の人生の手綱は、自分で握る」ということなのだと思うのです。
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で、だからこそ僕が思うのは、これからの時代には、自分のなかの違和感やファールラインからの逸脱に対して「それ、おかしくない?」と素直に表明できる場所が何より一層重要になってくると思います。
そして、そんな各人の違和感や問いについて、しっかりと共に考えられる仲間がいる場所が存在すること。
そのときに大事なことは、過度に「世間の常識」をあてがってこないこと。
また、どんな危うい問いであっても「なんでだろうね…?」と批判せずに考えてみようと思ってもらえること。言い換えれば、一つの意見に染め上げようとしてこないことです。
そんな人たちが集まる場が必要だと感じます。
インターネット上では、もう良くも悪くも、よっぽどのことがない限り炎上しなくなったからこそ、なんですよね。
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最近、Wasei Salonの中で始まった「お金の読書会」でも、まさにこれに近い話が語られました。
インフレの時代にあってしてもなお「額に汗して働かずに資産運用みたいな“濡れ手に粟”的なお金の稼ぎ方には、どこか違和感が残る」というお話が語られていました。
世間のマジョリティからすれば 「そんなこと言ってたら、完全に周囲に置いていかれるぞ。いいから黙って投資をしろ」というのが、きっと“賢い”意見として提示されるはず。
でも世間の正解がどうであれ、得か損かではなくて、自分の中の「納得感」や「腹落ち感」を大事にすることを僕は優先したい。
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だからこそ、僕はみなさんに、ぜひ自分の体感覚の方に耳を澄ませて欲しいと思っています。
もちろん、その耳を澄ませて聴こえてきた自らの内なる声が、必ずしも「客観的に正しい」わけではないと思います。
あくまで、あなた自身がたどり着いたひとつの場所であって、そこに誰もついてこないかもしれない。
それでも、その感覚を簡単に手放してほしくないし、大切にして欲しいと強く願う。
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さもないと、僕らはすぐに世間の「常識」や「空気」に流されてしまうから。
また、それこそがこれからの時代に必須となる、それぞれの「個性」だとも思うからです。
対話を通して行動変容してもいいし、しなくてもいい。ただ、お互いに「自分はここに違和感がある、わからないんだ」と素直に言い合えることが、とても大事だと思うのです。
そして 相手に対して敬意を持って「あなたの中のその感覚こそ大事にしてください」と伝え合える関係性。
それこそがこれからは大事になるし、そのようにひとりひとりが自分の腹落ち感をもった倫理を備えていれば、結果的に、他者の倫理に対しても寛容になれるし、お互いの中間地点としての「落とし所」も丁寧に探ることができる。
相手の価値観を、自分の価値観と同様に大切にする態度が自然と養われて、お互いの関心事に関心を寄せ合うことができると思うのです。
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そのためにも、Wasei Salonのような場では、どんなに危うく思える問いであっても、「なんでだろうね?」と一緒に考え続けられる場をつくっていきたいと思っています。
極論、あなたが人を殺したほうがいいと自分の倫理に従って心底思ってしまうなら、それさえも決して話を途中で遮らずに、一度黙ってただただ最後まで耳を傾けて聴いてみたいなと思う。
対話はそれからだ、って思っています。そんな場が、ネットがリアル社会と完全に同一化してしまったこの時代に、いま一番必要だと思っている、というお話でした。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が、何かしらの参考になっていたら嬉しいです。
2025/12/11 20:25
