以前ご紹介した、凪良ゆうさんの小説『汝、星のごとく』の続編である『星を編む』という小説を最近読み終えました。


社会の「常識」や「普通」みたいなものに、真正面から問い直している作品で、とても引き込まれる作品になっていた。

きっと、30代後半から〜50代ぐらいの年齢の方々にとっては、『汝、星のごとく』よりもこちらの作品のほうが断然刺さる内容になっているかと思います。

今日は、この作品を読み終えての感想と、いま自分が考えていることを素直に書いてみたいなあと思います。

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まず、『星を編む』を読み終えて、一番最初に感じたことをは「時間」という概念を、とても上手に味方につけた作品だなあと思いました。

以前もご紹介したように『汝、星のごとく』は、主人公が17歳〜34歳までを描いた作品であったのに対して、『星を編む』は、そのサイドストーリーとして、名脇役の登場人物たちのその後の話がメインで描かれていて、主人公も最終的には、58歳になるまでのあいだが描かれてあります。

で、この作品を読むと「時間」が解決してくれることって、たくさんあるんだろうなあと改めて強く思わされる。

いや、それは”解決”ではないかもしれない。

「葛藤と時間の関係性」みたいなものも、とても見事に描いてくれているなあと思うんですよね。

その葛藤の先に、何か華やかな解決があるわけでもなく、静かな諦めでもない。もっとその先にあるもの、それがきっと、人としての成熟ということなんだろうなあと。

「葛藤のうちで人は成熟する」というのは思想家・内田樹さんがよく仰っていることですが、まさにそんな感じです。

葛藤は苦しい、だからそこから抜けたくなるし、抜けることがいいことだと無条件に信じる。

そして、一神教や原理主義にたどり着いてしまう。何かわかりやすい客観的な原理原則があれば、自分の迷いや葛藤は、すべてその「教え」通りに従えば良いわけですからね。

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また、この点、最近の政治の話題なんかを見ていてもそう思いますが、「自由」と「平等」のような概念は、一緒に語られがちですが、本来は食い合わせが悪いもの。

どちらも近代社会が目指すべき理念として掲げられているものではあるけれど、誰かの自由は必ずまた他の誰かの「自由」を侵害する。そうすれば必ず平等の話にもつながって、それもまた他の誰かの「自由」を侵害する。

だから、第三のテーゼとしてそこに「博愛」が置かれるわけですよね。自由と平等を架橋するものとして。

内田さんがよく語られている「惻隠の情」の話なんかもまさにそれです。

原理原則や、道徳や倫理などを一旦差し置いてでも、井戸に落ちそうな子どもを助けようとして、何も考えることなく手が伸びること。それが惻隠の情であり、そのような行動を人々に求めるときに、明確な行動基準は存在しない。

でもだからこそ結果として、人は迷い、葛藤をして余計に苦しむわけです。

「あの時、私はあの人を助けられたかもしれない」というような形において。自由と平等、そして友愛を望むからこそ、ひとは葛藤する。

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僕は、その葛藤を経由した成熟の道がとても大事だなと漠然と思ってきたけれど、そのときに必ず必要なものは、本作の中で描かれていたように「長い長い時間」なのだと思いました。

今回この『星を編む』という小説を読んで、それをとても強く感じられた。

でもその長い長い時間をかけてみても、決してその葛藤が直接的に解決するわけではない。白は白、黒は黒となるわけでもない。なんなら、もっともっと逆に複雑になるかもしれない。

ただし、間違いなく、ひとはその中において成熟はする。そして、他者に対して優しくもなれる。

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『汝、星のごとく』を読み終えた後、ネット上に公開されていた著者・凪良ゆうさんのインタビュー記事を読んで初めて僕は知ったのだけれど、凪良ゆうさんは、小学生の頃に児童養護施設に入所し、15歳で働き始めたそうです。

幼い頃から、家族や共同体のことを、本当にずっと考えて問い続けてきた方なんだろうなあと思います。

『星を編む』の中でも、後半部分で主人公が一般的ではない形の「家族」を形成し、そのことを振り返りながら、以下のように語られるシーンがある。

少し本書から引用してみたいと思います。

血は水よりも濃く、つなげていくことの意味は大きい。その一方で、わたしたちのこの連帯をなんと呼べばいいのだろう。ぼんやりと、ゆるやかに、けれど確実につながっているわたしたちの「これ』を。よく言われるのは『疑似家族』だろう。けれどわたしたち自身のものを『疑似』と名づける、どんな権利が他人にあるのだろうか。


これは本当にそう思います。

フィクションである「物語」ならではの「普通ではない家族像」だなあとは思いつつ、でも読み進める中で、どこか非常に強い納得感もある。

それは「成るようにして成った」という感覚であって、決してフィクションとしての無理強い感がないから、本当に不思議です。

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そして僕は、この自分たちにとっての「実態感のある家族」のような感覚が本当に大事だなと思います。成るように成った、と自らが腹落ちして思えるかどうか。

でも今、多くの人々は、自分が幼い頃に思い描いていたような「絵に描いた家族」になれなくて、もがき苦しんでいるようにも思う。

これは確か、心理学者・河合隼雄さんが言っていたことだと記憶しているけれど「どこの家族も壊れている。まともな家族なんてどこにもいない。」

でもそれは、各人の頭の中にあるイデアのような「家族」像にすぎないんですよね。むしろ、その疑似じゃないほうの「家族」像のほうが幻想だったりする。

だとしたら、大事なことは、ひとつひとつ丁寧に目の前のことに取り組んで、お互いにケアをし合って、成るように成った、と感じるようなところを目指すしかないような気がしています。

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そして、また話は少し脱線してしまいますが、最近読んだ内田樹さんと池田清彦さんの対談本『国家は葛藤する』という本の中に、ちょっと意外な「理想の政治体制」の話が書かれてありました。

これが本当に素晴らしい話だなあと思ったので、ここでも少しご紹介してみたいと思います。

「さしあたりの最適解」を日めくりカレンダーをめくるように一日一日使い延ばしてゆく。僕はそれでいいと思うんです。これまで起きた悲惨な戦争とか過酷な粛清というのは、全部「一気に最適な政治体制を作ろう」という焦りから生まれたものですから。
(中略)
うまくゆかなくても、その「うまくゆかなさ」を受忍限度内に収めることができれば、以て瞑すべしですよ。


これは政治体制の話ではあるけれど、僕はこの部分を読みながら、家族やそれに類似した共同体においても、まったく一緒じゃないかと思った。

理想的な家族や共同体のようなものをつくろうとして、「一気に最適な体制を作ろう」すれば、独裁政権や社会主義革命がそうだったように、必ず失敗をする。

そうではなく、日めくりカレンダーをめくるように、毎日「さしあたりの最適解」を選択していくこと。

でもそうやって長い長い時間をかけて作り出したものを、あとから振り返ったときにはきっと、自らの強い確信を持てるような形において「成るように成った」と思えるはずなんですよね。

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これはきっと、養老孟司さんの「手入れの思想」にも近いと思います。

養老さんがよく語るのは、日本人は海外の人々も感動するような理想的な田園風景をつくろうとして里山風景をつくろうとしたわけではなく、

どうすればより良いお米をつくることができるかどうかということを、徹底した結果、そこに自然と豊かな田園風景が生まれてきたのだ、と。

そこには、最初から明確な設計図があったわけではなく、ひたすらにただ目の前のことに手入れをしてきたということだけなんですよね。

そうしたら、気づけばいつの間にか世界が絶賛するような田園風景になっていた。

大事なのはこの「手入れの思想」であって、その手入れという感覚が、たぶん今風に言えば、「ケア」ということなのだと思います。

だからケア論というのはそもそも、原理主義的、一神教的に当てはめて用いようとしてみても仕方ない。むしろ、それが一番失敗してしまう形になる。常に、その場に合わせて、臨機応変に対応していく以外にはないわけです。

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そして、僕の場合はもちろん、これをオンラインコミュニティにも当てはめて考えていきたい。

何か理想的なコミュニティをつくろうとして、そのための完璧な仕組みを最初からつくろうとするのではなく、手入れをするように日々淡々と、目の前のヒト・モノ・コトに対して丁寧に「ケア」をしながら、毎日を取り組んでいくほかない。

そして、いつの日か遠くから振り返れば、きっとそこに自分たちが「あー、欲していたものはこういうことだったのかもしれないな。今も変わらずに問題だらけではあるけれども。」と笑って思えるような「何か」が立ちあらわれてくるはずで。

そして、そこからまた、日めくりカレンダーをめくるような形において、日々を積み重ねていきたいなあと思う。

そのときにはきっと、世間や社会からは「オンライン上の”疑似”共同体」と揶揄的に呼ばれているような状態であったとしても、これが自分たちが本当に求めていた共同体だと思えていたら、それがきっと一番理想的なんだろうなと思います。

他者がなんと呼ぼうが「自分が大事にしたい共同体はこれだ」と思えているはずですから。

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何はともあれ、『星を編む』は本当に素晴らしい作品なので、『汝、星のごとく』とセットで、ぜひ読んでみて欲しいなあと思います。

いま一番オススメしたい小説のひとつです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。