先日、福澤諭吉の「人間の条件」という言葉を紹介しながら、人間だけにあるもの、それは「欲」だという話を書きました。
AIには「欲」は存在しない。でも人間には、欲が存在する。
その「欲」も取り扱い方を間違うと、身の破滅を招くから、取り扱い注意の代物ではある。だけれども、それがあるからこそ、人は人であり、他者との関わり合いなんかも生まれてくるのだ、と。
そして、僕らに問われているのは、その欲をどうやって「愛おしさ」に架橋していくのか。それが大切なのだと。
今日はそのお話の続きのような内容です。
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この点、「欲」で思い出したのは、過去に何度もこのブログでもご紹介してきた中村天風の言葉です。
中村天風は、欲を一切否定しません。むしろ力強く肯定します。
人間の三大欲求をはじめ「欲望はオリンピックの聖火のように燃やし続けよ」と言い切っている人物です。
で、そんなことを思い出したので、最近また『信念の奇跡』という本を読み返しました。
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この本は値段が1万円以上するのですが、でも十分にそれ以上の価値がある素晴らしい本です。
この本の中で中村天風は、「よく考えてごらん。喜びのないところに、本当の生きがいのある人生がありますか。喜ばないで生きてるときのほうが生きがいがあるという人は、よっぽど心のひねくれてる人だよ。私は自分が喜んでるときが一番生きがいがあるんだ。」と語っています。
これなんかを読むと、まさに天風も「煩悩即菩提」を実践したひとのひとりなんだろうなあと思わされます。
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ただ、もちろん天風も「欲望をそのまま垂れ流せばいい」とは言っていません。そこは大きな誤解がないようにしたいところです。
天風自身も、不治の病に侵されながらも、インドでメンターと出会い、そこからみるみるうちに身体が回復し、国内に戻ってきてビジネスでも成功をしたひとです。
そして、当時は毎晩、芸者や太鼓持ちを呼んでばんばん騒ぎながら、金を湯水のように使っていたそうです。
べつに誰にも迷惑かけてないで、自分で儲けた金で遊んで、まわりの人はみんな喜んでいた。でも天風の心の底には、なぜか割り切れないものがあったと本書の中では書かれてありました。
既成の道徳や倫理から考えても、どうも私のやってることは良くないことのように感じられて、これでいいのかしらん、と。
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で、そのときにたまたま、これまで自分が学んできた哲学や生き方を人に対して話す機会があったそう。
そうすると、ものすごく満たされる感覚があったらしいのです。
で、そこでパッと悟ったそうです。
「俺はこの欲望を断ち切るなんてことはできねえけれども、とにかく、こういうことをやってると、俺の心が欲望から離れてることだけは確かだな」と。
これはとっても面白い視点ですよね。欲望がなくなるわけではなく、欲望から離れられることを悟った。
「欲望が消えてるんじゃないんですよ。欲望はポッポッポッポッと燃えてるんだが、その欲望に縛られていない自分に気がついたんです。」とも書かれてありました。
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その体験を踏まえて、天風は本書の中で欲望には低級な欲望と、高級な欲望があり、霊性満足の行為、すなわち「人の心に喜びを与え、人の心に幸福を与える言葉やおこないを義務としないで、自分の人生の楽しみとすることが大事なんだ」と語ります。
ここで唐突に霊性満足と「霊性」という言葉が出てくるから、少しうさん臭く感じてしまうかもしれないけれど、要は「人の心に喜びを与えて、人の心に幸福を与える言葉やおこないこそが、自分の人生の楽しみになることが大事である」と純粋に語っているんですよね。
これは実際に、本当にそのとおりだなあと僕も思います。
そこから天風は、天風会をはじめ、講演活動に明け暮れるようになるわけですが、まさに現代でいうところのコミュニティ活動をはじめたということだと思います。
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ただし、「ソレができなくて困っているんだ!」と嘆く人もいると思います。
実際、天風も本書の中で以下のように語っています。
こう言うと、「なんだか知らねえけど、それじゃ自分を他人の犠牲にするような損な生活じゃねえか」と考える人がいるかもしれない。そう考えたら、大変な寸法違いだぜ。そう考えるのは、あまりにも自己本位で考えてるからだ。自己を中心として考えると、人に喜びを与え、人に幸福を与えることが他人の犠牲になってるような気になるんだ。
とはいえ、じゃあその自己本位を現代の社会でどうやったら乗り越えられるのか、という堂々巡り。
だとしたら、そのような場を自分でつくればいいと僕は思うんですよね、新たなコミュニティとして。
僕は、この霊性満足をお互いに満たせる場を、Wasei Salonで実現したいと日々願っています。
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また、話は少しそれますが、この話と呼応するように最近発売された内田樹さんの新刊『知性について』という本の中で、「知性」とは何か、についてズバリ書かれてありました。
内田さんは常に自分自身は「個人ではなく、集団的に発動する知性や能力を高めるためにはどうすればいいかということを優先的に考えている」と語り、その話を踏まえて内田さんは「知性というのは、集団的に発現するものととらえている」と書かれています。
そして、「知性的な人」というのがいるとすれば、それはその人がいるせいで、周りの人たちの知性が活性化して、人々が次々と新しい視点から新しいアイディアを思いつくようになるとも書かれてありました。
僕もこの点に関して、本当に同意です。
つまり、知性的な人がいるのではなく、知性的な集団やコミュニティがあって、その場にいる人々の言葉遣いや立ち振舞いが相互作用して、知性的なひとたちのコミュニケーションが自然と創発されていくようなイメージだと思います。
言い換えると、ひとりでは知性的な活動は不可能で、相互のコミュニケーションがその本質であるはずなんですよね。
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で、さきほどの天風の話も踏まえて、まさにこの状態をいかにして作り出していくかが、いま大事だと思うんですよね。
言い換えると、そんな知性の働きがしっかりとグルグルと循環している場を、みんなでつくりだすこと。
誰かの知性が、また他の誰かの知性を刺激し、それがまた別の誰かに伝播してプラスサムゲームのようにして、ドンドンと増幅していくこと。
そのような場においては、誰もが天風の語るような「霊性満足」を感じられるはずです。お互いにそうすることによって、一番の喜びを互いに実感し合うことができるはずなんですから。
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また、そのような場からは、誰も奪おうとはしない。というか具体的に何か奪えるようなものがあるわけでもない。
そこにあるのは、知性の働きが活性化するという働きだけ。
そして、お互いがお互いに心に喜びを与えて、人の心に幸福を与える言葉やおこないだけですからね。
客観的にみると、何も存在しないように見えて、その環境はその場にいるひとたちにとっては大変心地よいものであるはずであって、心地よいからこそ、むしろより一層色を付けて場に返そうとするはずなんです。
なぜなら、そうやって返すことそれ自体が、自分にとっての「欲」を本当の意味で満たすことにつながるから。
このようにすれば、人間の「欲」を一切否定せず、なおかつ誰もが搾取がされない状態がその場において顕現していく。
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この「霊性満足」と「知性のはたらき」それらが自然と促されて、常に循環している場所。それが僕の思う理想的なコミュニティだし、それがあれば表のオープンな世界での言葉遣いや立ち振舞なんかも大きく変わってくる。
だって、自分の中での常識や普通だって、変化してくるわけですからね。
実際、僕自身も、7年もWasei Salonを実行していると、メンバーに対する言動、つまり言葉使いと振る舞いが自己の標準となり、そのスタンスで日々新たに出会う人たちに対しても、自然と関われるようになりました。
むしろ、そうしないと気持ち悪い感覚さえ生まれてくる。
これはきっと僕だけではなく、長くこのサロンに関わってくれている方々であれば、きっとそうなっているはずなんですよね。
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でもそうすることで、こちらから先に働きかけ、他者に与えるわけですから、相手からも好意的に受け取ってもらいやすくなる。
たとえ心無いひとに裏切られようとも、自分にはまた舞い戻る場所、つまりWasei Salonがあると思うから、決して過度にはへこまない。
実際に戻ってくれば、心から満たされるコミュニケーションが待っていて自然と回復することもできています。これは本当にありがたいことです。
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恒常的に続いているクローズドの空間の価値はここにあると思っています。
敬意と配慮と親切心、そして礼儀を持ちながら、目の前のひとの心に対して喜びを与え、人の心に幸福を与える言葉やおこないを自分の人生の楽しみにまで昇華させてしまうこと。
そして、こればかりは本当に、人間にしかできないことだと思います。
AI時代だからこそ、これからもこの感覚を大切にしていきたい。
きっと多くの人が、もうAIに乱暴に頼めばいいから人間に媚びる必要はない、となって、目の前の人間に対して傍若無人に振る舞うという道を選び始める。
でもきっと、それがいちばんの落とし穴なんです。真の意味での欲を満たすということから、一番遠のいてしまうアプローチです。
もちろん、AIを使うことを否定するわけでもなく、AIに思いっきり助けてもらいながら、今日語ってきたような事柄を、淡々と実行すれば良いと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。