最近、懐疑的な意見のほうがむしろ主流派になってきている「言語化」という概念。
それだけここ数年、「言語化」という言葉がありとあらゆる書籍やネット上で推されすぎてきたという反動もあるのでしょう。
「言葉では言いあらわせないことがある。そちらの感覚を大事にしたい」というアンチ言語化的なスタンスに対しては、僕もすごく共感します。実際に、そう思う場面は日々たくさんある。
ただ、このアンチ言語化の感覚がいつも僕がいう「裏」の感覚なんですよね。
そして、とはいえ今まで通りメインストリームに乗っかって、ビジネス書文脈における「言語化」という話に、それでも振り切ろうとする態度が、現代においては「表」に振り切ろうとする態度だと思います。
でも、そうじゃなくて、この言語化論争においてもやっぱり、僕は「裏の裏」が大切だと思っています。今日はそんなお話になります。
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まず、ここで大事だと思うのは、「言葉では言い表せないことがある」という事実を、心底まで腹落ちさせたうえで、もう一度「言語化とは何か」を考えてみる、という姿勢だと思います。
この点については、文学紹介者・頭木弘樹さんの新刊『痛いところで見えるもの』で書かれている、小説家は言葉に絶望してからが始まり、という安部公房の話が非常にわかりやすいなと思います。
頭木さんは本書の中で「痛みの言語化は無理」とまずお互いが、痛い人も痛くない人もしっかり認識することが肝心だと語ります。それが最初の土台なんだ、と。
でも、それはもちろん「無理だから、もう言語化は一切あきらめる」ということではないとも同時に書かれています。
そのうえで以下の小説家・安部公房の言葉を、本書の中で引用していました。
「けっして、気取りなどから言っているわけではなく、まず言語表現にたいする不信と絶望を前提にしなければ、作品に自己の全存在を賭けるなどという無謀な決意も、生れてくるわけがないのである。」
頭木さんは、この文章について「これは本当に“気取り”などから言っているわけではないし、とても切実な言葉だ」と書かれています。
そして、痛みに限らず、じつはほとんどのことは言葉では表現できない、それをなんとか表現しようと「自己の全存在を賭ける」のが、文学者だろうと締めくくられていました。
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僕はこの部分を読んだ時に、本当に深く感銘を受けましたし、これこそ「理想を忘れない現実主義」のひとつのあり方だよなとも思いました。
言葉で実現できることなんて、本当の表層のことだけなんだと絶望してからが、むしろ言葉、つまり言語化の本領発揮ということなんだと思うんですよね。
それゆえに、言語化ブームに対して安直な「裏」をとって、主流派に中指を立てるだけで満足するだけでは、どこかもったいないなと思うのです。
その「裏の裏」をしっかりと探求しにいきたいと僕は思う。
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現代社会の構造において、一定以上に役に立つからこそ「言語化」という行為や概念自体も、これほどまでにバズワード化していることも事実ではあるわけですから。
世間のバズワードを眺めて、その流行自体に嫌気が差し「坊主憎けりゃ袈裟まで悪い」とすべてを否定してしまうのは、あまりにもったいない。
それこそ、大事な何かを見失う原因にもつながってしまう。
もちろん、自分は自分の正しさを主張してもいい。ただ同時に、「相手には相手の論理があるんだろうな」と想像してみることもできるはずですし、このふたつは、まったく矛盾しないはずなのです。
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で、この話をサロン内に書いていたときに、いただいたコメントが「螺旋階段のようなものであり、終わりがない営み」というイメージです。
これはとっても共感しますし、本当にそうで、螺旋階段のように上昇していこうとする浮力が大事なんだと思います。
そして、そのときに僕が思い出したのは、宮沢賢治の「永遠の未完成、これ完成なり」という言葉。
さらに、僕が「裏の裏」という言葉に込めている思いとしては「世の中のトレンドの逆の逆」みたいなことも同時に言いたいんだとハッとしました。
これに気づかせてもらえたことは、本当に大きな大きな発見だった。
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社会や世の中自体も、螺旋階段上に発展していることは間違いないはずです。
わかりやすいところだと戦争→反戦→戦争→反戦というようなイメージで、いつだって行き過ぎたらその揺り戻しがあるなかで、螺旋階段上に社会は発展をしていく。
そんな社会や世の中のなかで、トレンドに対して自覚的になりつつも、トレンドとはまた異なる「自己の螺旋階段」を意識できるか、みたいな話がしたくて、僕は「裏の裏」という表現を使っているんだろうなあと。
いまも、間違いなく、言語化の揺り戻しが来ていて、そっちがまさにトレンドになりつつある。
そのことに対しても同時に自覚的でありたいよね、とも思うわけです。
どうしても、僕も含めて、社会と一緒に、同じ方向へと螺旋階段を登っちゃいがちだなあと思うからです。
でも僕が、「裏の裏」で言いたいことは、世の中の「逆の逆」を取れ、ということなんです。
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この感覚は、投資の格言でもある「人の行く 裏に道あり 花の山」という言葉にも似ている。
これは、単に人と真逆の選択肢を選べば利益が得られるというような天邪鬼な姿勢を示しているのではないと思っています。
そうではなくて、「自分の足で立ち、歩む」ための思想、それを伝えていくれている言葉なんだと僕は感じるんですよね。
言い換えると、世の中と一緒に螺旋階段を登ることの危うさなんかも同時に伝えてくれていると思うのです。
世の中のメインストリームとして流行りすぎた思想対しての逆張りの主張は、それこそ自分の違和感を見事に”言語化”してくれていて、ものすごく真っ当に思えてしまうから。
「言語化一辺倒が気持ち悪い」というその節度さえも、実は上手な言語化であるというジレンマに同時に気が付きたい。
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あと、言語化に関連して最近同時に思うのは、「届かないと意味がない」というジレンマも現代の世の中には存在するよなと思います。
SNS が飽和しきった時代に「届ける」ためには多少なりとも、強い言葉や汚い言葉を使わざるを得ない、という風潮があります。
SNSプラットフォームの仕組み、UGCを意識せざるを得ないからこそ「バズるための言い回し」がどうしても先行してしまう。
これは、ある意味で「テクノロジーの螺旋階段」の問題でもあります。
しかもそのときに多くの場合は「自分のため」ではなく、「仲間を救いたい・家族を守りたい・大切な誰かのために届けたい」といった大義名分が前面に押し出される。
その優しさ自体も、もちろん尊いとは思います。
そして、その優しさのために、より中毒性の高い方向、攻撃性の強い方向へと流れていってしまうわけですよね。
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でも、もしそこで何か違和感が残るとすれば、それは「自分だけが、少しだけ過激になれば、自分たちの想いが実現する」とどこかで勝手に思い込んでしまっている点かもしれない。
自分が少し過激にしたら、他人も当然それを狙ってやってくる。結果的に、無限にインフレしていくことは目に見えているわけです。
いい大人たちが「なんで自分だけは、してもいいと思えるの?」と本当に強く疑問に思う。
これは、カントの定言命法の話とまったく同じ話です。
「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
つまり、世の中の全員がそれを実践したとしても、社会が本当の意味で成り立つと思うことだけを実行せよ、とカントは語るわけですよね。
また、これは以前も書いた「やらない善より、やる偽善」は本当か?という話ともまさに繋がってくる。
結局、全員が「やる偽善」を選択してしまうと、世の中に建前だけがはびこり、結果的に「正直な悪」がすべてを持っていってしまうというあの話です。
つまり、自分たちで自分たちの首を締めていることになる。
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ここまで書いてきたことをまとめると、きっと大事なことは古典的な言い方ではありますが、やっぱり「不易流行」なのでしょうね。
変わらないものと変わるもの、その両者に対する配慮です。
とても変な話ですが「流されずに、ちゃんと流されること。」
そのためにはやっぱり「裏の裏」というスタンスが大事な気がしています。
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みんな「あの頃の自分に届けたい、流行ばかりを追いかけていた頃の自分に届けたい」って考えるから、簡単にしたり、平たくしたり、要約したりしちゃう。
でも、僕が最近よく思うのは、あの頃の自分にはどう頑張っても村上春樹や夏目漱石や谷崎潤一郎の小説を届けることなんてできない。全く興味を持たないからです。
でも、「あの頃の自分が、今の自分のように自発的に気づいてくれる瞬間のために、取っておきたい」とは思うのです。
逆に言えば、今は届かなくてもいい。
あの時の自分が大人になったときに、いつか出会えるようにと願って、そういう祈りとか贈与みたいに、とっておくことならばきっとできるはず。
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そうやって、あの頃の自分にちゃんと残しておいてあげたいなと思う。いつか気づく日のために、です。
そのためにこそ、今の人々の気分に微調整をしながら、最新のテクノロジーも活用して、一体何ができるかも、同時にド真剣に考えたい。
僕にとっての不易流行とは、まさにそんなイメージです。
だからこそ、Wasei Salonという場を淡々と運営しているんですよね。ここがちょうど、不易と流行の交差点として最適な場だと思うから。
ちゃんといちばん大事なものを「文化」として残しておくこと。
そのために自分たちが目一杯楽しんでおくこと。しかもちゃんと流行にも乗りながら、です。
それが本当に大事なことだなあと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
