最近、『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』をオーディオブックで聴きました。


タイトルの通り、ふだん本をほとんど読んでこなかった32歳のみくのしんさんが、かまどさんに伴走されながら、名作を一冊ずつ読んでいくシリーズです。

もともとはオモコロの企画で、ウェブ記事が起点になっているので、その記事を読んだ方も多いはず。


僕は最初、読書のハードルを下げてくれる入門コンテンツなのだろうと思っていました。実際、その役割もちゃんとあります。

だけれども、聴き進めるうちに、だんだん別の感覚が強くなってきた。これはただの読書入門ではないな、と。

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というのも、太宰治の『走れメロス』を読んでいるはずなのに、その横で、もうひとつ別の作品が同時に進んでいるような感覚がありました。

しかも、その別の作品というのは、いわゆる昔ながらの「解説」ではない。「この作品はこう読むべきです」と上から意味を教えるものでもない。

そうではなくて、もっと横にいる感じ。

「ここ、ちょっと引っかかる」「いまの台詞、めっちゃ怖い」「わからないけど、とりあえず先に進みたい」こんなふうに、作品を受け取る途中経過そのものが、ずっと隣で流れている感じ。

ああ、これは副音声なんだ、と思いました。

もちろん、本編を邪魔するための副音声ではない。本編の意味を確定するための副音声でもない。

むしろ、本編の中に入っていくために、一緒に「くぐる」ための副音声なんです。

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この感覚は、いまの時代の批評や考察のあり方を考えるうえで、かなり重要なのではないかと思いました。今日の本題もまさにこのあたりからです。

少し前に僕は、「いまは批評よりも考察が好まれやすい時代なのではないか」という趣旨のブログを書きました。


あの記事を書くときに大きなヒントをもらったのは、三宅香帆さんがPodcastなどで繰り返し話されている、「なぜ考察は好かれて、批評は嫌われるのか」という問題提起だった。

そこで僕は、人々が自由に「星座を見出す」ことを恐れているのではないか、という話を書いたんですよね。

「勝手な解釈をしたら危ない人に見られるかもしれない。作者の意図から外れたら叩かれるかもしれない。主観的に読みすぎたら、お花畑だとか陰謀論だとか言われるかもしれない。」

そんな空気のなかで、人は「自分なりの読み」よりも、「たったひとつの考察的な正解」に寄っていきやすいのだと。

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また、別の記事では、読書の醍醐味は、むしろ「誤読」の側にあるのではないか、ということも書いたことがあります。


もちろん、学校の試験のように、ある程度「正しく読む」ことが求められる場面はある。

でも、本来の読書は書かれていることを忠実に再現する競技ではない。

読みながら、自分の記憶や経験と交わって、少しズレていく。そのズレのなかで、自分の読書が始まる。

その瞬間のほうに、ずっと大きな価値があるのではないかと思ってきたわけです。自分がガラッと変わる可能性が秘めているからです。

で、だからこそ、現代では、「批評」よりも「考察」が好まれやすいのだろうと考えてきたし、同時に、正しく読めないことへの恐れが、読書そのものの入口を狭くしてしまっているとも感じていました。

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でも今回オーディオブックを聴いてみてあらためて思ったのは、その話の続きとして、もうひとつ見えてくる形式があるなと。

それが、まさに副音声。

つまり、いま人々は(特に若い人や読書に馴染みがない人が)、いきなり自由な批評をしたいのでもなければ、ただ正解だけを知りたいわけでもないのかもしれない。

その手前で、まずは「この入り方で大丈夫だよ」と言ってくれる存在を求めているのではないか。

これがすごく大きいんだろうなあと。

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この本の中で、かまどさんはたしかに「先生」役ではあるんです。けれど、学校の先生みたいな意味での先生では決してない。

権威的に正解を教える人ではなく、読書のルールそのものをゆるめてくれる役割。

わからない単語は今は飛ばしていい。意味がなんとなく取れれば進んでいい。勘違いしてもいいとハッキリと言い切ってくれる。

つまり、「ちゃんと読めない自分」を入口で排除しないでくれる存在なんです。

本を読むことに苦手意識がある人ほど、じつは内容以前のところで立ちすくみやすい。

「途中で意味がわからなかったらどうしよう。名作なのに感動できなかったらどうしよう。変な読み方をしてしまったら恥ずかしいんじゃないか。」そういう緊張が、作品の前で自己をためらわせてしまう。

でも、副音声的なものは、その固さをゆるめてくれる役割を果たしているんだろうなあと。

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これは単に、情報を足しているのではないというところがポイントです。

そして、解説するのではなく、伴走をする。

たとえ正解の読み方を知っていても、丁寧に伴走する。相手の視座に寄り添う姿勢。

つまり、解説は、上から意味を渡す感じで、伴走は、横で受け取り方を一緒に辿る感じ。

この違いはかなり大きいと感じます。

言い換えると、誰かがすでに深い知識を持っていることよりも、「あなたもこの入り方で大丈夫」と言ってくれることのほうが、いまはずっと大きな価値がある。

もしかしたら現代人が本当に求めているのは、正解そのものよりも、まず参加していいという許可なのかもしれない。

また、こういう伴走は、AIが形式として似たやりとりを返すことはできても、相手の戸惑いをその場の空気ごと引き受ける「器」としては、やはり人間にしか担えない役割があるように思います。

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しかも面白いのは、そういう副音声的な軽さがあるからこそ、逆説的に、ある瞬間に作品の急所が入ってくること。

『走れメロス』のなかで、「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」といった一文が出てくる。

こういうところが、みくのしんさんの誤読も含めたわちゃわちゃした反応の流れのなかで、急に刺さる形になっているのが、ものすごくおもしろい。

ずっと厳粛に構えて「はい、ここが名文です」と講義や授業のように言われるより、笑いながら近づいていって、ある瞬間に急所に入る。この感じもまた、ものすごく現代的だなあと思う。

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そして、この副音声的な形式は、もう読書だけの話ではないのですよね。

Podcastの流行そうだし、YouTubeもそう。

いま僕らは、本編だけを受け取っているわけではない。

本や映画やニュースや社会現象のまわりに立ち上がる「どう受け取ったか」の音声ごと、まとめて受け取っている。

つまり、Podcastは作品の副音声でもあるし、「社会事象」の副音声でもある。

本編やニュースだけではなく、その横にある副音声に助けられながら、僕らは世界を受け取っている。

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で、きっとそこには、連帯の感覚もあるんだろうなあと。

読書は本来ひとりの営みだけれど、副音声が入ることで「自分だけがわからないわけじゃない」と思える。戸惑いも、笑いも、感動も、全部が場の出来事になる。

孤独な受容が、共同体的な経験へ少し変わる。「共にくぐる」ための副音声。

これはかなり救いのあることだと思いますし、Wasei Salonの読書会を日々開催していても、これを強く実感します。

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ただ、もちろん副音声には、副音声なりの危うさもある。

たとえば、副音声は入口になる一方で、そればかり聴いていると、本編を見た気になってしまう。

本を読んだ気になる。映画を観た気になる。社会を考えた気になる。これは本当に現代的な危うさだと思う。

「100分de名著」に対する通俗的な批判にも、すごくよく似ているなと。

上手な副音声ほど、満足感があっちゃうんですよね。でも、その「わかった気」のなかには、本編の難解さや退屈さ、よくわからなさに耐える時間が、まるごと抜け落ちていることもある。

本編には、本編の重さがある。うまく入れない時間も含めて、原著でしか渡れない彼岸の場所が必ずある。

だから、僕はここで、副音声を全面肯定したいわけではない。副音声だけが豊かで、本編に戻らない世界は、やっぱり危険です。

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良い副音声とは、本編の代わりになるものではない。本編を食ってしまうものでもない。むしろ、「本編に入っていくための勇気」をつくるものだと思う。

そうやって、作品の入口で立ちすくんでいる人に、そっと横から付き添ってくれて、「大丈夫、君ならできる」と本人に挑む勇気を与えてくれるものが、本当の意味での、いい副音声。

人はもう、自分の代わりに星座を描いてくれる権威を、そこまで信じてはいない気がします。

けれど一方で、いきなり自由に星座を見出せるほど、のびのびもしていない。

だから、そのあいだが必要になるということです。

答えを教えてくれる「先生」ではなく、黙って空を見上げていてもいい静かな放っておかれる「環境」でもなく、一緒に夜空を見上げてくれる人が隣にいること。

「あ、あそこに星があるね」
「これはまだ星座かどうかわからないけど、なんだか気になるよね」

と、受け取り方そのものを急かさずに、横で一緒に辿ってくれる存在。

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現代の批評は、作品を正しく解釈することよりも、本編の横で副音声を流しながら、「どう受け取ったか」を一緒に辿ることのほうへと、少しずつ近づいているのかもしれない。

それが今日の僕の一番の主張です。

僕はその変化を、単に浅いとか軽いとか言って切り捨てたくない。

その伴走や、共に夜空を見上げる行為がなければ、本編へ近づくこと自体がむずかしい人も、きっとたくさんいる。

僕は、そういう人たちのためにこそ、副音声のようなもの必要だと思うから。

そして、繰り返しにはなるけれど、ほんとうに良い副音声は、最後に本編へ返してくる。もうあなたはひとりでも夜空を見上げることができる、とそっと肩に手をおいてくれる。

「わかった気」を与えて終わるのではなく、少し怖いけれど、それでも一歩進んで、自分から進んで暗闇に飛び込んでみたくなる気分にさせてくれること。

副音声の価値もきっと、そこで決まるのだろうなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。