本を読むことや、オーディオブックを聴くことについてよく思うのは、みんな書かれているテキストを「正しく読むこと、正しく聞き取ること」に重点を起きすぎなんじゃないなあと。
誤解されることを恐れずに言えば(というか、まさに今からそういう話をするんですが)、聞き逃したり誤読したりすることこそが「自分が読む」という行為の真髄でもあるはずです。
それが、ほかでもなく「この私が読む」ということの意味。
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たとえば、オーディオブックで、ほんとうにによく聞かれる質問が、聴き逃したら物語の内容がわからなくなりませんか?という質問です。
はい、わからなくなる。
で、それの一体何が問題なの?とも同時に思います。
もちろん、過ぎ去ったところを聴き返さなければ、自分で補ってしまうことになるわけで、物語を自分の主観で改変してしまうことにもなるのだけれど、僕はそれでいいと思っています。
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この行為を批判するひとは、そもそも、正しく読むとは一体何を指しているの?とよく思います。
たとえば「和歌を読む」ってどういうことを指すのか。
あの短い文章を、何度か繰り返し読んでみること。それは可能です。でも、どこまでを理解し、著者と何を共有したら正しく読んだということになるのか。
それさえも曖昧な中で「正しく読めている状態」が存在すると、僕ら読者側が勝手に思い込んでいる。
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で、この恐れや脅迫感情が現代における過度な「考察」文化にもつながるわけですよね。
著者の書いたたった一つの正解があるはずで、その正解の奥にある著者の真の意図やメッセージが必ず存在するはずだ、と。
でも僕が思うのは、そうやって考察するから、逆説的に陰謀論に没入しちゃうのだと思います。
この逆説って、今めちゃくちゃ大事な視点だと思う。どうしても、何としてでも客観的に存在する正解を掴もうとする心それ自体が、陰謀のような曲解を受け入れる土壌を自分のなかにつくってしまう。
なぜなら、そのほうが、正解を掴んだと落ち着けるから。でもそれよりも、自分の感性の方を優先できるようになりたいよね、ということです。
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もちろん、今日のこの話も、現代文のテストや、要約をしてひとにわかりやすく伝えるだったら、話は別です。
でも、社会人の僕らは、学生みたいに正誤問題を解くために読むわけじゃありません。もちろん、他者に説明するために読むわけでもない。あくまで趣味で本を読むひとが大半であるはずです。
ただ、そのときも常に念頭に置いておきたいのは、その正解も、美人投票みたいなもの。
問うている主体が、何を正解として設定しているのかを、予測するゲームにすぎない。
この点、裁判は「真実」を明らかにする場所ではなく、「利益衡量」する場所だという話にとても良く似ている。
極端な解釈をしない。真っ当な利益衡量することが正しく読むということ。
本質観取みたいなものでもある。確かにそれがいちばんこの本を多くの人が「読んだ」と言えるであろう解釈にたどり着くこと、それが一般的な「正しく読む」の理解です。
あくまで多数決であり、その美人投票のゲームをしているにすぎない。
そして、そこに当てに行かなければいけないときは素直にソレを当てにいけばいい。じゃないと、その世間に入れなくなるから。受験とはそういうゲーム。
言い換えるとは、受験とはそのセンスこそが問われている。美人投票のセンスがないやつを落とすのが、受験の役割です。
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じゃあ、なぜ読書は誤読が醍醐味でもあるはずなのに、それでも、世間のなかで正しい読みを巡って、こんなにもハレーションが起きるのか?
それは、その誤読を、書き手本人にぶつけるひとたちがいるからだと思います。
だから書き手側も「勝手に読んで、勝手に誤読をし、それを自分にぶつけてこないでくれ」と嫌がるわけで。
「俺はそんなこと書いていないのに、そんな批判をされても困る」と。
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あと、もうひとつは、読者側の「ねばならない」という思い込み。
読んだからには、その本の内容に従って行動をしなければならないという思い込みなんかもそうだと思います。
これは宗教の教典を誤読してはならないという感覚なんかにもよく似ている。確かに、悟りとか最後の審判とか、そういう絶対に到達したい一点があれば、誤読してはいけない。
でもそれは、教典など、そういう教科書の話であって。
逆に言えば、教科書のなかに、夏目漱石とか芥川龍之介、太宰治などの小説が載っていることに、何か誤解を与えてしまう余地もあるんだろうなと思う。
現代文問題を正しく解くこと、それが読むことだと思っている。
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なんにせよ、社会人が読書するときは、読みながら(聴きながら)自分の中の記憶と交わりながら、ズレていくところにこそ、本を読むことの価値があると僕は思う。
「正解よりもあなたの感性のほうを、優先してください。話はそれからだ」ということを僕はここで必死で伝えたい。
生産的な誤読、つまり「自分の読書が始まる瞬間」のほうを何よりも大切にして欲しい。
具体的には、書かれていることを踏み台にして、自分の経験と交差していくこと。そうやって、テキストを鏡にして、自分の輪郭が見えるような状態をつくりだしていくこと。
しかもこの種の誤読は、作者の意図とズレていても成立する。というか、ズレるからこそ成立する。
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あと、そもそも、日本人はずっとそういうコミュニケーションこそしてきた、とも言えるはずなんですよね。
先日もご紹介した、橋本治の小野小町の話。
僕らはどうしても、小野小町が言いたかったことが客観的に存在すると思うわけじゃないですか。
でも、あの橋本治さんの話は、そうじゃないという話なんです。
そして、小野小町本人だって、たったひとつの想いを書いたどうかは究極わからない。
そうやって、解釈可能性が複数ある歌を共有していることで、立ちあらわれるそれぞれの「もののあはれ」があって、そのときにそれぞれに立ち上げている心象風景のほうに価値があるはず。
逆に言えば、もし仮に本当の小野小町の歌った意図がわかったとしても、ぶっちゃけそんなものは、どうだっていい。
それは歴史研究者や専門家だけがわかっていればいい話で、一般の読者には関係がない。
これは建築設計士・黒木さんの「春の小川」理論とまったく同じで、僕ら日本人はそうやって自分のなかの「もののあはれ」を気持ちよく想起させてくれるもの、それをいい作品と呼んできて、ずっと大切にしてきている歴史がある。
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つまり、この話って、書き手の意図が正解なんじゃない。
少なくとも著者の側に正解があるとして読まないこと。
ゆえに、僕も日々ブログを書きながら、まったく異なる解釈をされても、それがご本人の物語の解釈の中でなら、まったく構わないし、むしろ嬉しいぐらいです。
そういう誤読は大歓迎。こちらも、正解なんてあると思って書いていないですから。
「考えるきっかけになったら幸いです」とは、そういうことで。
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あとこれは余談ですが、文学紹介者・頭木弘樹さんが先日Twitter上で、以下の安部公房の言葉をご紹介されていました。
これは本当にそう思います。そういう力を持っている作家との出会いは文字どおり、ものすごく「大変なこと」だなと僕も思います。
安部公房の言葉を借りれば、読書とは「読んでしまう前にはもう戻れない」という、ある種の不可逆な変化なわけです。それは必ずしも心地よい変化だけではないかもしれない。
そして頭木さんは、「1回、そういう経験をすると、その感動がやみつきになんて、いろんな新しい作家の本も読むようになるんですよね。金鉱探しみたいなもので、なかなか大変ですが。」と答えてくれましたが、ほんとうにそうです。
金鉱探しみたいな形で、ものすごく体力仕事でもあり、それを掘り当てたときに必ずしも好転する方向だけに変化するとは限らないわけですが、それでも自分がガラッと変わってしまうこと自体がやみつきになるよなあと思います。
ここにこそ、深い感動があるなと同時に感じます。その試行錯誤のほうが、きっと本物。
つまり、読書とはテキストの忠実な再現ではなく、テキストを媒介にした自分の更新なんですよね。
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余談ついでに、以前書いた若松英輔さんの話、本は私宛の手紙だと思いながら読むという話にもつながると思っています。
そもそも、著者はあなた宛で書いていない。テキストにおいて「宛名」が一番重要だとしたら、その時点でもはや誤読が始まっているとも言える。
「本は、そもそも宛名が書かれていないだろう!」と思われるかも知れないけれど、それでもターゲットにしている読者層はちゃんといる。いるからこそ、著者も本を書く。
とはいえ、読者は自分がターゲットであるかどうかは関係がなく、勝手に読むし、読めばやっぱり何かしら感じるところがある。
あとは、古典を読むとかもまさにそう。まさか小野小町も、2026年の僕らに読まれるなんて思って書いていないはずですよね。
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じゃあ、なぜこれを私宛だと思ったのだろう、そのドキッとした感覚のほうに素直に耳を澄ませてみることのほうが、大事だなと思います。
それを胸に、手を当てて考えたい。書かれている内容を理解すること以上にそっちのほうに価値がある。
大事なものは、いつだってあなたの中にあるし、読書するという体験は、それを呼び出したり引き出したりするための、呼び水や呪文みたいなものなわけだから。
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そして、僕ら読者に大事なことは「いつだって自分は誤読しているのかもしれない」という自覚を持ち続けること。
決して完全には読み切れていないという自分のなかの謙虚さ。それが、著者本人も含めて、他の読者など、他者の意見を受け入れていく土壌にもなっていく。
逆に言えば「自分は正しく読めている」という驕りこそが、いちばんの落とし穴のような気がしています。
今日のお話も、みなさんにとってそうやって、何かしらの考えるきっかけになったら幸いです。
2026/01/25 18:41
