文学紹介者・頭木弘樹さんの新刊『痛いところから見えるもの』を最近読み終えました。
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発売前からとても楽しみにしていた本でしたが、事前の期待どおり、本当に素晴らしい本でした。
この本は、タイトルにもあるように「痛み」にまつわる本に見えますし、実際その通りの側面もあるかと思います。
ただ同時に、僕は最初から最後までずっと「人と人とのコミュニケーション、その『わかり合えなさ』に対し、一体どうやって橋をかけていくのか」という内容でもあったように感じました。
「痛み」に限らずに、ありとあらゆるわかり合えなさから、現代は分断が広がり、「界隈」だけが増殖する、まさにそんな現代社会の処方箋のような一冊だなあと思いながら読みました。
現代を生きるひとであれば、「痛み」の有無は関係なく、何かしらの学びや発見を得られる必読の本だと思います。
今日はこの本の感想を書きつつ、この本を読みながら考えたことも、同時に書いてみたいなあと思います。
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まず、「痛み」について、真摯に向き合い、その本質を明らかにしようとする、その試行錯誤の過程がずっと誠実かつ、優しさにあふれているなあとに僕は素直に感銘を受けました。
具体的には、今まさに「痛み」を感じているひとたちに徹底して寄り添いつつ、痛みを感じない人が感じる、その違和感への配慮も同時に忘れない。
この点、世の中には、どっちかに振り切る話が多いなと思います。ケアか、自己責任論か。でも、この本の場合はそうじゃない。
本書は一貫して、ずっとそんな絶対にわかり合えなさそうな両者のあいだを行ったり来たりしているんですよね。
頭木さんご自身も書かれていましたが、まさに「痛い人と痛くない人のあいだにある本」なんです。
そして、痛みを他者と共有するときの最大の困難、
①痛みの圧倒的な個別性
②痛みの言語化不可能性
そのどちらも見事に証明しながらも「それでも、お互いにわかり合えるためにはどうすればいいのか」を徹底的に探っている本だなと思わされました。
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じゃあ、どうやって僕らは具体的にそんな「痛み」を通してお互いのコミュニケーションをとっていく必要があるのか。
まず、頭木さんは本書の中で以下のように語ります。
大げさに書きすぎと思うかもしれないが、自分が感じている痛みについて「この人は本当に理解してくれている」と思えたときの感動は、これほどに大きく、その後もずっと残りつづける
そして、村上春樹さんの小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の以下の一部分を引用もしています。
人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。
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これらはきっと「痛み」を体験したことがあるひと、そして少しでもそのことについて真剣に考えたことがある人なら、誰もがとても納得感のあるお話でもあるはずです。
だから「そうやってお互いにわかり合って理解し合うことができたら、一体どれだけ幸せだろう!」と僕らは思ってしまうし、自らが強い「痛み」を感じたときにも、ソレを他者や世間に対して願ってやまないわけですよね。
でも、決してそれだけではないし、そうは問屋が卸さない。
なぜなら、痛みにはどこまでいっても、各人の個別性がつきまとうから、です。
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頭木さんは、痛みに対して安易に「わかる!」と言われて、実際には全然わかっていないときのもどかしさの話も同時に書かれています。
そして、そんなときこそ、僕らは深い断絶を感じてしまうのだ、と。
いっそのこと「ぜんぜんわからない」と言われたほうがましなくらいだ、とも書かれていました。
そう、つまり、痛みには「経験の有無」という圧倒的な「壁」がそこにはあるわけです。
また、さらに厄介なことは、その客観的な痛みの強度も違えば、それを感じる本人の痛みの感受性だって十人十色なわけですよね。
痛みに最初から強い人もいれば、比較的弱い人もいる。
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だとすれば、本当に絶望的なまでに、そこには個別性が横たわっていて、絶対にわかりあえないとも言えるわけです。
結果として、ありきたりな「型」にはめられてしまったりもするわけですよね。
型にはめるから、相手に対して安易に「わかるよ!」と言ってしまいがちだし、今自分はありがちな型にはめられてしまったと感じて、僕らは深い絶望を感じてしまう。
まず、頭木さんはこの「絶望」に対して、ちゃんとぶつかってくれます。
そして、理解し合えていると思えているのは、ただの幻想なんだともバッサリと言い切ってくれるわけです。
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「とはいえ、わかり合えているひとも多いじゃないか!テレビなどのメディアでも、そんなひとたちは、当事者としてたくさん出演しているぞ!」と反論したくなるわけです。
でも、それは痛みを抱えるひとが「孤独だからなんだ」と言い切ってくれる。僕は、ここを読んでいる時に、本当に強い衝撃が走りました。
少し長くなりますが、本書から直接引用してみたいと思います。
たとえば、私のような難病患者は、「難病になって、さんざんつらい思いをしたけれども、そのおかげでいろいろな人とも出会い、精神的にも成長し、結果的にはよかったです。今の自分があるのは病気のおかげだと前向きにとらえています」というような、不幸克服物語、おわりよければすべてよし物語を、周囲から求められる。
しかし、そんなことは実際にはほとんどない。まったくないとは言わないが、「海で溺れかけたときに、アワビやサザエをついでにとってくることができてよかったです」というくらい、なかなかないことだ。
しかし、そういう物語に自分をあてはめて難病体験を語る患者はとても多い。人のことばかりは言えない。私自身、かつては新聞の取材を受けたときなどに、そういう物語を記者の人が求めているのを感じて、それに合わせて語ったこともある。
なぜそんなことをしてしまうのか?それは孤独だからだ。話を聞いてほしいからだ。
そして、こういう物語にはまっていれば、人から好かれる。「良き難病患者」と見なしてもらえる、名誉白人ならぬ「名誉健常者」としてあつかってもらえる。そのために「代価を払う」のだ。
これは、難病の当事者としてご自身が発信されている立場として、ものすごく書きにくいことだと思いつつ、正直に書いてくれていることが、とても真摯なあり方だなと思ってしまいました。
そして、強い痛みを感じたことがない僕らのような一般読者であっても、確かに身に覚えがあるような話でもありますよね。
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でも、こんなとき、多くのひとは「金」を理由に、当事者たちを批判をするわけです。
24時間テレビへの批判なんかは、とてもわかりやすい。でも、実際は金なんかじゃない。逆に、金だけなら一体どれだけ楽なことか、と僕は思います。
そうじゃなくて、圧倒的に孤独なんだ、個別性の痛みの中のいるとき、ひとはその深い孤独に耐えられない。
だからこそ、完全にズレているとわかりながらも、完璧にわかってもらえたような顔をしてしまうし、相手が求める型に対して、自ら率先してはまりにいってしまう。
繰り返しますが、その根源にあるのは、圧倒的なまでの深い孤独。
これは本当に根深い問題だなと思います。
これが僕らが、「痛み」はわかり合えるものという幻想にしがみついてしまう、いちばんの原因でもあるわけですよね。
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さて、困りました。
痛みの個別性、その深い孤独が僕らに痛みをわかり合えると誤解させてしまう原因でもあるわけですからね。
ただ、頭木さんの優しさの真骨頂はここからだなと思いながら思います。
具体的には、絶対に他者の痛みはわからないけれど、それでもわかろうとすること、そこに小さな光、そんな希望を見出してくれるんですよね。
「経験していないという壁」は、どうしたって越えられない。だから、どうやって越えたらいいのかと考えることは無意味だと思う。
では、絶望なのか?痛みを話すことも、聞くことも無駄なのか?
そうは思わない。
そのうえで、「いくら想像しても、経験していない自分にはわからないことがある」という前提に立つことが、まず理解のスタートラインだと思うとも書かれていて、これは本当にすばらしい助言だなと思います。
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そして、さらに、以下のように続けます。
つまり、「わからないことがある」と思えれば、もうかなり「わかる」に近づいているのだ。矛盾した言い方のようだが、たしかにそうなのだ。
完全に「わかる」ことは無理でも、そうやって少しずつ「わかる」に近づいていくことはできる。到達はないけれども、無限に近づいていくことはできる。
近づいたことを感じられたとき、痛い人にも痛くない人にも、感動があるはずだ。
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さらに、「痛みは言語化は、根本的に不可能」ということも同時に語ってくれています。
冒頭でも書いたように、痛みの個別性だけではなく、その痛みはどこまで言っても言語化(客観的な数値化や情報化)できないということです。
どうしても僕らは「痛みも、頑張れば他者に伝わる言葉にできる!私たちはその『言語化』を通してお互いに理解し合える。そして見事に救われる。だから希望を持ちましょう!」という結論にしてしまいがち。
痛みに限らず、推し活などの「感動」や「喜び」もまた、そうですよね。だから言語化という言葉が今、ここまで流行ってしまっている。
でも、その希望は痛みと同様に、深い「孤独」にこそ立脚しているんだろうなと僕は思います。
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つまり、僕らはポジでもネガでも、孤独が怖い。
だからこそ、言語化の先にキラキラとした幻想的な希望を抱いてしまう。そしてSNSを見ていると、なんだかそれが可能にも思えてくる。
なぜなら、お互いに共感し理解し合っている(ように見える)ひとたちが、お互いの気持ちを上手に言語化して、感情をやり取りをしているようにも見えるから。
でもそれも、結局のところ、深い孤独を味わうぐらいだったら言語化したつもりになって「わかる!わかる!」って女子高生のようにピョンピョンはねていたほうが安心できるからなわけで、それもまた幻想なわけです。
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そして、ここでもしっかりと「痛み」の言語化不可能性に対して、深く絶望してくれるのが、頭木さんの魅力だなと思います。
小説家・安部公房の言葉などを巧みに引用しながら、「痛みの言語化は無理」と断言し、「無理と言ってしまっては、絶望だが、私はこの絶望こそが出発点だと思っている。むしろ、それこそが土台なんだ」とも語ってくれています。
それが、本当の意味でスタート地点に立つということだと語ってくれる。
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このように、本当の意味で僕らが本来立つべき出発点に、読者を無理なく誘ってくれる。
言い換えると、本書を読むまえに、僕らが「痛み」にまつわるコミュニケーションに抱くような淡い希望はすべてことごとく棄却されるわけです。
そういう意味では、とことん現実を突きつけてきて、とことん絶望にたたき落としてくるような本でもある。
でも同時に、まったく想像もしなかったような「新たな希望」も与えてくれるのです。
それは、読む前には期待さえもしなかったような希望でもあるのだけれど「でも、それこそが本当に大事なことだ」と深い納得感も同時に得られる。
本書を読み終えたときには、この希望に素直にのっかりたいなと思えるようになっているから、本当に不思議です。
それはきっと、痛みがあるひととない人、そのあいだをずっと丁寧に行ったり来たりを繰り返してくれている本だからなのだと思います。
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「完璧にわかり合うこと」を目指すのではなく、「わかり合おうと努力をし続けること」そのものに価値を見出す。
「あなたのことがわからない。だから、もっと知りたい、もっと教えて。」それが本当の愛の言葉であるというあの内田樹さんの話にもつながるし、
福田恆存が繰り返し言及をしている、オスカー・ワイルドの小説の中に出てくる言葉「あら、大変。理解というのは結婚にとって最大の障害よ」という話にも見事につながります。
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僕はこれこそが「本当の優しさ」だなと思う。
「痛みを言葉にして理解し合えれば、お互いに共有可能なものとなる。それで分断は解決し、万事OKだ」といった安直な希望を提示するのではなく、むしろ徹底的に痛みのわかりあえなさ、その「絶望」に向き合ってくれている。
でも、それこそが本当に痛みを分け合うということになる。
この一冊を読み終えると、それが本当に深く腹落ちしました。
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究極、他者の痛みはわからない、そして自分の痛みも同様に、決して他者には伝わらない。
でも、だからこそ僕らは、お互いのそんな絶望的な痛みの体験を通じて、互いに手を差し伸べ合っていくことができるはずだし、そこにこそ深い「愛の言葉」を紡いでいくことができるんだろうなあとも思います。
これも、また別の意味でのネガティブな「他者とつながりたい欲、その結果として救われたい欲」という我執であり、そんな煩悩があるがゆえに、見事に菩提に通じる道だなと思わされます。
まさに「煩悩即菩提」であり、そのお互いの”働きかけ”こそが、お互いの「抜苦与楽」にもつながっていく。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。