昭和生まれのひとたちは、幼いころに両親や祖父母が忙しなく一年の季節行事をこなしていく風景が、鮮明に記憶に残っているかと思います。

毎年毎年、本当に同じことの繰り返し。

その存在意義や根拠などをいちいち考える暇さえ与えないくらい、昔の人は季節行事に追われて生きていました。

だからこそ、合理的な考え方で自由を希求する現代人からは、そんな季節行事が嫌われてしまうのも当然です。

そして、そこに追い討ちをかけるようにコロナがやってきて「不要不急」という烙印までおされてしまい、祭りを中心に多くの季節行事がドンドン姿を消していきました。

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しかし、このような忙しない季節行事というのは、人々を束縛することで、より一層人々を自由にしていたのかもしれません。

言い換えれば、季節行事に縛り付けられることで、本当の意味での「持続可能性」がそこには担保されていた。

なぜなら、その「型」に従っているあいだは私利私欲など余計な自分ごとを考えなくて済むから、です。

より大きな共同体とつながっている感覚がきっとそこには存在していたはず。

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さて、話は少し逸れますが、最近NHKオンデマンドで『京都人の密かな愉しみ』というのドラマを観ています。


「何か言っているようで何も言っていない」京都人同士の会話の型にのっかって、対話してみたイギリス人女性が、「なんだろう、形だけの会話なのに、この心地よさは…」と感心するシーンがあります。

彼女は、京都人の型通りの行動様式を皮肉めいた形で批判し続けるキャラではありつつも、実際に自らが実践してみることで、そこに心地よさを感じてしまいます。

もちろん、このドラマはフィクションですから、この発言をそのまま間に受けることはできないけれど、「型」にはこのように人々を拘束することで、より一層自由にする側面って間違いなくあるなあと思います。

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たとえば、これからやってくる「年末年始」なんかは非常にわかりやすいかもしれません。

「年末年始に、何でも好きなことしていいよ」と言われたら、多くの日本人は逆に困ってしまうのではないでしょうか。

「年越しそばを食べて、初詣に行き、おせち料理を食べる」この一連の流れを型通り行うことで、年末年始を心から自由に満喫できたと思うはずです。

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しかし、いまの世間の風潮はこういった「型」をすべて取っ払って、「仕事でも暮らしでも、自由に振る舞わせろ!」と主張することが主流となっている。

でも、昔の人はちゃんとわかっていたのだと思います。そうやって、自由に振る舞えるようになってもろくなことがないと。

つまり、日本人の年中行事というのは、「茶道」や「剣道」などと同じように、「日本人道」のようなものの大きな「型」そのものであり、自分を「通り道」にするためのひとつの儀式だったわけです。

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とはいえ、京都に住んでいるわけでもない僕らが、いまさら日本人の季節行事に追われるような生活を再現することはなかなか難しいでしょう。

まったく現実的ではありません。

だからこそ、自分自身がより一層自由になるための「型」とは何かを、いま一度問い続けてみる。

理性が導き出した合理的な選択肢だけに頼るのではなく、もっともっと大きな存在の「通り道」として自己が作用するための「型(ルーティン)」を獲得していくように。

そのヒントが、今でも地域に残る季節行事の中には見え隠れしているのかもしれません。まさに過去から私たちに向けられた贈与そのものです。

その贈り物を発見するかどうかは、現代を生きる僕らの手に委ねられている。

ハロウィンやクリスマスなど、商業優先の都市型の季節行事だけではなく、もっと自然の時間軸の流れに沿った季節行事にも目を向けてみたい。

そんなことを考える今日このごろです。