言い換えれば、人間にとっての「学び」というのはいつ起動するのか。

それはきっと、「そうすることで、あなたは私に何を教えようとしているのか」という問いを、自ら自発的に立てることができるようになった瞬間だと思います。

そこからはもう、教えられたことだけをただ受け取る受動的な学びではなく、自ら積極的に改善していく能動的な学びのスパイラルへと変化していく。

すなわち「学びの自己増殖」とも言えるような現象です。

そこでふと気がついたのですが、これって旧約聖書に出てくる一神教の存在と、罪の意識そのものだなあと。

ユダヤ人が歴史上、常に迫害を受けながらも、世界中の至るところで優秀な存在として活躍し続けている理由もまさに彼らの宗教観に隠れているのではないか。

今日は一風変わったそんなお話です。

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この点、一神教の信者とは、この世の超越的な力を「神」という存在に擬人化して絶対視し、「その存在が私に何を教え与えようとしているのか」を常日頃から考えていく人々。

どれだけ自らが苦境に立たされようとも、神そのものの存在は一切批判せず、「自分の行いが悪いのだ」という罪の意識を常に持ちながら、自分の身の回りで起こる出来事が神の一挙手一投足だと捉えて、その意味を必死で探ろうします。

そのように世界を捉えている人間は必ず、自らの行動の改善を繰り返し、常に善行を積もうとするでしょう。

尽くしても尽くしてもまだ足りない、もっともっと頑張らなければいけないと。

一神教を信仰してきた民族(人類)が、いまの世界で幅を利かせているのも決して偶然ではなく、ある種の必然なのだと思います。

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これと全く同様の論理で、優秀な生徒や弟子というのも、基本的には「先生や師匠の言っていることを理解できない自分が悪い」と考える。

「先生は、そうすることによって私に何を伝えたいのか」という問いを素直に立てることができる人間が優秀な生徒となります。「1を聞いて10を知る」という言葉も、それを見事に言い表していますよね。

一方で、目に見える効果をいつまでも与えてくれない指導者を安易に批判し、自分の理解できる範疇で都合の良いようにいつも解釈をしてしまう人間は、自然と脱落していく。

なぜなら、そうした瞬間に「成長」や「学び」の扉は閉されてしまうから。

自分の努力不足を棚に上げて、また自分にとって都合の良いことを言ってくれている別のことにチャレンジしようとしてしまう。

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ただ、この一神教と罪の意識も行き過ぎてしまうと、神という超越的な存在に対してだけでなく、宗教組織(対人関係)も同時に権威化してしまい、そこから多数の規則(ルール)が生まれて、その結果、業界内の階級も固定化されてしまう。

現代社会では、宗教に限らず、さまざまな教育機関や大企業、伝統芸能やスポーツの業界などなど、すべての業界において同様のジレンマに陥ってしまっているように僕には思えます。

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一方で日本には、この真逆の発想も存在しているから、おもしろい。

それが、親鸞の「悪人正機」のような考え方や、柳宗悦の「民藝運動」のような考え方です。

世界の極東において、これ以上の逃げ場が存在しない場所において、一神教や罪の意識を思いっきりひっくり返してしまう感覚。

詳しくは下記の記事に書いてあるので、あわせて読んでみてください。

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どちらにせよ、この宗教における絶対性の中に自ら身を投じた人々、そのスパイラルの中に飛び込んだ人たちの類稀なる「強さ」というのは、このような理由から生まれてくるのではないでしょうか。

そんなことを、改めて考えてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。