今朝こんなツイートをしてみました。


戦国時代に、織田信長が領地や権力という恩賞の代わりに用いたのが「茶器」でした。

その仕組みや内容については、以下の記事にわかりやすくまとめられています。

参照:    会社は何を「茶器」にするかで決まる。 - 拝徳

現代において、お金や権力(影響力や承認欲求、所属欲求)を本質的に代替できる可能性を秘めているものがきっとNFTということなのでしょう。

今回の特殊性や新規性は、中央集権のためではなく、非中央集権のためにそれを用いることができるということです。

でも、どうしてもその話を真正面から語ってしまうと、そこに「期待値」が先に生まれてしまう。

その期待値ゆえに、怪しさ満載の有象無象の輩が集まってきてしまい、すぐに荒らされてしまうということが起きてしまっている。

それは以前、以下の記事にも書いた通りです。

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だからこそ、そうならないためのルールやマナーをつくりあげていこうというのが、2017年ぐらいから仮想通貨市場の中で一貫して取り組まれていることだと思います。

でも、金銭的な欲望が絡むとまずうまくいかない。特に海外の市場が絡んでくると、グローバル市場で共通する尺度やものさしが「金銭的価値」のみになってしまうので、なかなかうまくいっていないというのが現状なのだと思います。

ゆえに、これから本当につくりあげるべきはきっと、思想や価値観など、その美学のほう。

つまり「茶器」に対しての「茶道」という思想体系のほうです。

ルールやマナーではなく、誤解を恐れずに言えば、特定の同じ集団内における相互監視し合う状況(基準)と言ってもいいのかもしれません。

「相互監視」というと一見ネガティブに聞こえてしまいますが、それはお互いにどんな行動を求め合っているのかによって全く意味合いが変わってくる。

ルールやマナーだと、すぐに報奨や罰則など外側に対してどんな影響を与えるのかという話になってしまうけれど、何を「美」とするのかという議論は、むしろ自己の内側へと向かっていく。

そんな思想面の発展を生み出すことができれば、本当にNFTが戦国時代の「茶器」と同様にうまく機能し始める可能性は十分に秘めていると思うのです。

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だからこそ、いま研究対象とするべきは、きっとそんな初期のころの茶道なのではないかと思うのです。

原始仏教ならぬ、原始茶道であり、千利休が完成させた茶の湯文化そのもの。そして、その時代の武士の礎になっていたものが、室町時代までに大成していた禅などの文化の数々。

現代の茶道には全く詳しくないですし、習ったこともないからあまり適当なことは言えないのですが、きっといまの茶道を習うのはむしろ逆効果となってしまうことも多いはず。原始仏教を理解したかったら、現代のお寺に行くのはあまり得策ではないのと一緒です。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、普段とは異なる視点から考えるきっかけとなったら幸いです。