昨日書いた、「頼りになる親戚」の必要性について、また別の角度から考えてみたい。


今日ご紹介したいのは、ここ最近何度か続けて紹介している内田樹さんと三砂ちづるさんの往復書簡『気はやさしくて力持ち』の中に書かれてあった、子どもを成熟に導くためには、「説教」と「親切」、この2つが同時に必要だというお話です。

この本の中では、「世間はきびしい」と「世間はやさしい」という二つの矛盾する命題を同時に子どもに教えなければならない、という話が出てきます。

その理由について内田さんは『唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)』という落語のあらすじをご紹介しながら説明をしていて、この落語の内容を理解していると、この話はより深く理解できると思うので、気になる方は、ぜひ実際に調べてみてください。

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で、僕はこれって本当にそのとおりだなあと思います。

世間は厳しいだけでもダメ、やさしいだけでもダメ。両方に当てられて、いい意味で本人が混乱すること。

そして、この話がまさに、「頼りになる親戚」の有用性、そんな「ナナメの関係性」の価値を見事に言い表してくれているし、市場の外としての「家族的ネットワーク」を構築することの意味も教えてくれているなあと思います。

もちろん、子どもに限らず、人間全般において言えることだし、成熟を求める場合において、必ず必要な状況だと思います。

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これは、最近アニメ化もされて再び話題になっている『チ。』の「迷って、迷いの中に倫理がある。」という話にも通じる話。


現代社会、特に市場の中では「迷うな、悩むな、とにかく行動しろ!」といった言葉が盛んに叫ばれます。

もちろん、ただ迷い続けるだけでは、薬物中毒とほとんど変わらないような状態になることも事実であって、だからすぐに行動を促すことも、一面では圧倒的に正しい。

しかし、人生というのはそれだけではない。

若い人たちが直感的に感じる迷いや葛藤は、大変に価値のあるもので、いわゆる「おじさんたちの正論」よりずっと深い価値を秘めているなと僕は感じます。その価値だけは決して捨て去らないで欲しいなあとも思います。

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ただ、迷うことは、それゆえに苦しさも伴う。

だから余計に、声の大きい人、何か成果や結果を出しているひとが断定する発言にすがりたくもなるわけです。

そうやって、すがりたいひとが多いということを彼らは熟知しているから、より一層断定をしてくる。

これは逆に言えば、すがるひとたちがいるからこそ、そのひとたちに断定する余白を与えているとも言えるわけです。

で、断定すればするほど、そのひとの断定にすがるひとたちが集まってきて、成果が出るのだから、ここには明らかなポジショントークをするメリットが存在しています。

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そして、根本的に、世の中からそうやって他人の意見にすがりたいというひとはいなくならない。だとしたら、やっぱり「別世」としてつくるしかない。

これを僕は、コミュニティ内で構築できたらいいなあと思うんですよね。

行動と悩み、説教と親切、そのような間で真剣に迷えること、葛藤しながら成熟に迎える場所が今必要だなと思います。

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で、それを生み出すためには、市場の外としての「家族的ネットワーク」が必要なんだろうなあと思うのです。

それはナナメの関係であり、「頼れる親戚」のような存在がいるコミュニティの価値もここにある。

表の世界で、「迷うな、行動しろ!」と「説教」に当てられて猪突猛進状態になったり、過度に萎縮しているときに、まったく別の価値観としての「親切」に当てられる体験をすることができること。

もちろん、また逆も然りだと思います。表の世界で親切に当てられて、茹でガエル状態になったときに、また別の価値観において、ピシャっと説教されること。

どの方向性からの文脈であっても、「これだ!」と思って万能感を得られるような価値観を盲信して、それがことごとく崩れ去る瞬間、その葛藤する体験を、何度も何度も自らの身体知として繰り返してみて欲しいなと。

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これは、核家族や従来型の会社のような組織構造では不可能なんですよね。

母性と父性の組み合わせだけではやっぱりダメで、叔父や叔母のナナメの”無責任な言動”も大切になる。

具体的には、「世間は厳しい」という両親の説教のすぐ後に、それを打ち消すように「世間には親切な人もいる」という叔父の対抗的命題に出会うこと。

このような相矛盾する価値観に当てられて葛藤しないと、本当の意味で子どもは成熟することができない。

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また、一方で、叱ったり親切にしたりする大人側の立場に立ってみてもそうですよね。

コミュニティや共同体に対しての深い信頼を置くことができるから、目の前の相手を本気で説教することができる。逆もまた然りで、コミュニティへの深い信頼があるから、徹底して親切にして甘やかすことができる。

他の共同体の成員が、自分とは違う立場でしっかりとまた包摂してくれるはずだと思えるから。そんなふうにコミュニティへの信頼があれば、しっかりと目の前の相手のことを思いながら、振り切ることができる。

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で、今の世の中が、頭打ちをしている理由があるとすれば、きっとこの家族的ネットワークの欠如、そこに問題があるんだろうなと。

これは、「日本人の甘えの構造」なんかにも起因すると思っています。

「どっちが正解であり、模範解答はなに?」と、すぐにそればかりを追い求める卑屈さというかズルさのあらわれでもあったりする。

その結果、説教ばかりを追い求める、親切ばかりを追い求める。そうやって、葛藤や成熟を蔑ろにしてしまったこと。

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でも、本当はそうじゃないんですよね。仏教の覚りに導くときに、菩薩と般若が同時に存在するように、どっちも同程度に存在し、導かれる側の人間自身に迷い、葛藤をしてもらうこと。

これは余談ですが、先日、釈徹宗さんが「縁側ラジオ」にゲストで出演されていた放送回を聞いていたら、平野啓一郎さんの分人主義みたいな話の流れになったときに釈徹宗さんは「自分の中の幼児性を、成熟させる必要がある。」みたいなことを語っていて、なんだかとてもハッとさせられました。

聴きながら、このクソ坊主(めちゃくちゃいい意味で)と思ったし、こういうことを平然と語るのが、仏教に関わる人間の役目だよなあとも思います。

『バガボンド』の沢庵和尚とか、『葬送のフリーレン』のハイターとかが「クソ坊主」や「生臭坊主」と呼ばれていて、彼らは「完全に矛盾してるじゃねえか!」って突っ込まれるような役回りなんだけれど、むしろそれこそが彼らの本当の役目なんだよななあと、この年になってやっと理解できたような気がします。

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で、ここでくれぐれも誤解しないで欲しいのは、今日の話は、学校の先生や学級員のような優等生的に(つまりリベラルエリートのようにして)何か両方の立場をわかったふりをして、バランスを取ろうとするような姿勢ではないということです。

それは、どっちも受け入れているようで、本質的にはどっちも受け入れていない状態だと僕は思っています。

客観的には、なんだか似ているように見えても、本質的にはそれは一番似て非なるもの。

言い方を変えれば(これはとても変な言葉に聞こえてしまうかもしれないけれど)その優等生的な態度は、「中道」という真ん中に振り切った状態であり、態度なんですよね。

もしくは、自分の立場は明確に定めながら、相手に共感して見せる態度やテクニックに過ぎない。だから、ポリコレ的な発言というのは嫌われる。

そうじゃなくて、両方に同程度に真剣に「共苦」する態度というか、両方の姿勢に同程度に共鳴する姿勢が大事ってことなんだと思うのです。

ひとつのことだけを盲信しないけれど、でも両方にちゃんと同程度に盲信しているというような矛盾するスタンス。

つまり、単にバランスを取るのではなく、両者を全身で受け止め、その間で真剣に「共苦」し、迷う態度が重要である、という話です。

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今日語ってきたように、矛盾に迷い、葛藤すること、そこに「人間らしさ」が宿る。

葛藤のない知識や知見は、もうAIがすべて担ってくれるようにもなるわけですから。

逆に言えば、これまでどちらか片方に振り切った価値観が価値を持ったのは、AIがなかったから。それが単純に会社の発展や、資本主義に資する行為だったから。

でも、そろそろそのような時代も終焉してくことは間違いない。

そして、これからはこの「葛藤」の間から立ちあらわれる人間としての「成熟」のほうが、深い価値を持つ時代になっていくことも、きっと間違いないと思います。

だって、そのための「器」になれるのは人間だけなんだから。

また、その葛藤や成熟を通したところにこそ、人間本来の「優しさ」なんかも立ちあらわれる。

相手を余人を持って代えがたい存在として尊重するような「敬意」なんかも、その先に立ちあらわれてくる。

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このような態度を経由することで、弁証法的に「第3の道」を探ることができる。つまり、どちらもしっかりと保存をした形における、本当の意味での、第3の道。

もし、何か本当に正解のようなものがあるとすれば、それこそが本当の「正解」であり、本当の成熟だと僕は思います。

Wasei Salonもそんな成熟を各人が追求できる場所にしていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。