日頃から語っている通り、僕は散歩が大好きで、時間があれば都内の街を散歩しています。
そうすると、最近のこの時期にわかりやすい上京組みたいなひとたちが明らかに街から減ったなあと思います。街で浮いているのは、インバウンドのひとたちだけ。
最初から、それぞれの街に馴染めている。というか、その土地にいそうな人だなあという身なりの人間がかなり多い。
じゃあ、どうして未だに地方からの上京組が多い中で、そんなことになっているのか。
それは、ネットで散々予習をしてくるからだと思うんですよね。これは逆に言えば、今はネットの中がその「街の入口」になっている。
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この点、渋谷、原宿、新宿、池袋なんかは非常にわかりやすいですが、現場以上の「現場」がネット上にある。
観念としてのそれぞれの街の特徴が、インターネット上で既に形成されている。それゆえ最近は、街に行くだけだと理解が及ばないことも多いなと感じます。
これは、冒頭からちょっと余談なのですが、その町ごとの文化が反映されたネットの世界、それをギャラリーというか、美術館や博物館形式で見せて欲しいなと思ってしまうほど。
雑誌とかでさえも、もはやもうこれは構築できないものになっている。渋谷や新宿の街の半分は、もうバーチャルの世界で構成されている。
直接現場へ行ってみて、わざわざその土地に観に行っても全くわからないことが起きているなと思います。
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つまり、リアルの空間や実際の街自体が、「最後の最後」みたいになってきた。
これは見方を変えれば、インターネット上の中で、ぐ横に危険な入口があって、いつもその危険と隣り合わせだということ。
僕らの大学生の頃は突然自分とは文脈が違うところに連れて行かれるということが、まだかろうじてあり得た時代です。
ケータイのキャリアメールぐらいのつながりでは、直接呼び出すぐらいまでが精一杯で、そこに連れて行かれて、明らかにいつもとは違う雰囲気にビビりながらも、それでも乗り越えるかどうかが問われていた。
本当に金銭的に追い詰められているとか、あまりにも友達がいなくて孤立しているとか、そういう切羽詰まったひとしか、その分厚い壁は乗り越えなかったわけです。
でも、今は、ここがめちゃくちゃシームレスになってしまっているなと感じます。
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ものすごく気軽に交わってくるし、インターネット上だから「まあいっか」ともなっている。でも今、そこがいちばん漬け込まれている。
わざわざカオスな場所に呼び出す必要もないわけですよね。ネット上でアプローチして、個々人の牙城がドンドン崩される。
テキスト、動画、音声でいくらでも先に洗脳できてしまえて、単純接触効果みたなものも巧みに利用されてしまっているなあと感じます。
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で、最後の最後、比喩的な意味でのハンコを押すところだけが現場、みたいなアプローチになっている。
界隈みたいな言葉が流行る理由もここにあると思います。これは、路地裏とかでもない。
で、最近おもしろいなあと思うのは、〇〇系みたいなものが、全部SNSでも伝わるような概念になってきていること。
昔は渋谷系や原宿系など、いつも街に明確に紐づいていたのに。
改めて言うまでもないかもしれないけれど、今はストリートが完全にインターネットの世界に移っていて、現場というのは、その継続性を担保するものだったり、同じ思想の者同士が集う場所、そんなアーティストのライブ会場みたいな状態。
特定のカルチャーやを信仰することを心に誓った者同士やファン同士が集う場所になっているということなのだと思います。
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で、そのようなビジネスを仕掛けているひとたちも、それがハッキリと分かっているからこそ、そのためにテキストや動画、音声配信やオンラインサロンなんかも巧みに用いて、常識や世間の空気をつくって、そのあとに現場に巧妙に誘導する動線をつくっている。
デジタルの世界であれば、そこに盛り上がりがあるように見せつけられるから。
人気(ひとけ)もカンタンに演出できてしまう。たとえば具体的には、数百のRTといいねがついていても、インプレッションは1万を切るという場合もザラにある状態だったりしますよね。
その誘導や、見せるためのランキングなども、いくらでもハックできてしまう時代です。
当然、その数字に騙されるひとたちが多いからこそ、ここが狙われている。でも、現代ほど、数字が当てにならない時代もなかなかないなと思います。
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「これからは、AIに頼ればいい」となるけれど、基礎知識や予備知識がないとこのAI自体も当てにならない。
なぜなら、そうなることがわかっているから、先回りしてもうAIのアルゴリズムをハックしされて、先に埋め込まれてしまっているから。
ハルシネーションまではいかないけれど、仕組まれたものであることへの自覚は間違いなく必要だと思います。
新しいことだけしか学んでいないと、本当にこのあたりの感覚がドンドンとズレていくし、本当に上手くズラされてしまっているなというひとを、リアル・ネット問わずたくさん見かけるようになってきた。
古いことや歴史を学ぶ意味や価値の重要性が、日に日に増してきているなあと思います。
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このように、東京砂漠の形が変わったことに、いま気が付きたい。
現状、40代以上の親の世代には全くわからない、理解できない世界観になってきているなと思います。親世代は、「とにかく危ない土地に近づくな」と語るだけで、その理由は、自分たちの世代がそうだったから。
でもその危機感は、今は完全にインターネットの世界のほうに流れている。そちらは完全に無防備であり、無知な状態のまま触れさせている。なんなら親自身が、その餌食になっていたりもするわけです。
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で、このようなときに必要なのは、市場の外、「家族的ネットワーク」の存在だと思うんですよね。
お金と影響力とは一定の距離を置いた、数字の外の世界。
昔の「頼れる親戚」、みたいな存在がとても大事だなと思います。
オンライン上で孤立しないための市場の外、家族的ネットワークとしてのホームが、ものすごく大事になってきているなあと思います。
そうやって、インターネット上の孤立を狙われたときに、しっかりと帰れる場所、相談できる場所が必須になってきているなあと思います。
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昭和の文豪たちの小説を読んでいると、親戚を頼るというシーンが頻繁に出てきます。
あれらも、やっぱりそうしないとそもそも危なかったわけですし、一方でそうしないと何も始まらなかったから、ということだったのだと思います。
でも今は、上京や都会に出るときに親戚なんてほとんど機能していないと思うんです。
形式的には親戚がいても、定期的に交流しているわけでもないし、価値観が近いかどうか、家族として守ってくれるかどうかと言えば、かなり怪しい状態だと思います。
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だからこそ、Wasei Salonは、そんな擬似的な家族的ネットワークを構築できる場所として活用してほしいなあと思います。
これから進学や就職で、上京するひとたちにも、ぜひ活用して欲しい。
本当にありがたいことに、酸いも甘いも体験してきた各年代ごとの大人たちが、男女ともにバランス良く揃っている。
ネットワークビジネスのために入ってきたというような人も、今のところ一人もいません。7年間続けてきて、過去に一度も強制退会をさせたこともないと言うと、いつも驚かれるのですが、本当に一人もいなかった。
でも、いつでも、そういうひとが来たら弾く気は満々です。
本当に僕は警備員のように毎日、目を光らせているつもり。徹底して、そこは健やかに保ちたいと思っているし、ダメなことにはダメだと言いたい。
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とはいえ、決して上から目線でアドバイスもしないですし、他のメンバーからもアドバイスされないことも、とても大事だと思っています。
「こうやって立ち振る舞ってください」とかは、決して言わないですし、宛先が明確な正論も存在しない。そうしたほうが、今は共にいられると思っているからです。
そうじゃなくて、問い続ける姿勢、私にとっては何が正しいのかを考えられる心的態度を得られる場所であること。
そうやって、親戚を頼ってみんなで見守る。人間のブロックチェーンみたいなことが起きて改ざんがされない「見守り」の昨日がここで成立するといいなと、いつも思っています。
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10年前とは比べものにならないくらい「市場の外の家族的ネットワーク」が機能しているコミュニティをつくりだすことが、本当に大事になってきているなあと思います。
付き合っている人間の平均に回帰するのが、人間の特徴であり、特に空気に流されやすい日本人はなおのこと。
界隈の「空気」や「当たり前」の基準がそれぞれのコミュニティごとにまったく異なる時代に突入していて、「頼れる親戚」のような見守り力が、以前にも増してより重要になってきているなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/03/15 20:06