年末恒例の「ベストバイ」企画。読む方も書く方も、どちらも楽しい企画の代名詞だと思います。
じゃあそれが一体なぜかと言えば、村上春樹がよく語る「カキフライ理論」そのものだからなんだろうなあと思っています。
この点、『翻訳夜話』という書籍の中で、村上春樹は「カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じ」という変な話を語っています。
ちなみに、この本自体も、本当にめちゃくちゃおもしろい…!なぜこの本を自分には関係がないジャンルの本として今まで放置してきたのかと後悔するレベルです。
で、この本を読みながら、「ベストバイについて書くことは、自分について書くことと同じなんだ」と思ったんですよね。
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では、具体的に、村上春樹が語るカキフライ理論とは、一体どのような内容なのか。
過去に何度か断片的にご紹介はしてきたけれど、改めてここでも本書から引用しながらご紹介してみたいと思います。
「原稿用紙3枚で自分のことを書け」と言われたら、村上春樹さんならどうしますか?という観客からの質問に対しての回答、その一部からの引用です。
原稿用紙三枚で自分のことなんか書けるわけないですよ。プロだって書けない。ただ、そういうとき、僕はいつも言うんだけど、「カキフライについて書きなさい」と。自分について書きなさいと言われたとき、自分について書くと煮つまっちゃうんですよ。煮つまって、そのままフリーズしかねない。だから、そういうときはカキフライについて書くんですよ。好きなものなら何でもいいんだけどね、コロッケでもメンチカツでも何でもいいんだけど…… つまり、僕が言いたいのは、カキフライについて書くことは、自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。いちばん必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くには大事なことだと思うんですよね。
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これは、文章を書く習慣があるひとにとっては、非常に納得感のある話だと思います。
で、好きなことだけではなく、きっと誰かが嫌いなことや怒りをあらわにする瞬間も、このカキフライ理論で、ある程度は説明がつくような気がしています。
年末年始の人が集まる空間あるあるだと思うのだけれども、その場にいる誰もそんな話題を持ち出していないのに、突然その話題を自ら持ち出してきて、勝手に怒り出すひとって、よくいますよね。
そして他のひとの意見に対して一切聞く耳を持たない場合、その事象についての良し悪しを語っているというより、そのひと自身のことについて深く語っている場合が多いなと思うのです。
そのひとが日々漠然と感じている恐怖やコンプレックス、その裏返しが、その事象への怒りという形で見事に発露しているというような。
だから、口を挟まずに、ただ黙って話を聴きながら「このひとは今一体どんな自分の話をしているんだろう?」って思いながら聞いてみると、新たな気付きと共に、まあまあちゃんと聞き流せるし、それまで気づいていなかったそのひとの新たな一面が見えてきておもしろい。
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で、似たような話で「作家に飽きるまで、トコトン付き合ってみる」って最近すごく大事だなと思います。
飽きるまで付き合うときに、初めてわかることがある。
AIでどこまでもディグれるようになった今、「ディグりすぎない勇気」は、2026年も引き続き大事なテーマではあるとは思いつつ、本当に紙一重ですが、「付き合い続ける勇気」もとても大事だと思う。
年末年始、僕は「男はつらいよ」シリーズと並行しながら、小津安二郎の映画もかなり集中的に観てみました。
『東京物語』や『晩春』『秋刀魚の味』など、小津安二郎の代表作を一気見してみたんですよね。
そうすると、本当に笑ってしまうぐらいに、小津はずっと同じテーマばかり、同じように描いている。
で、このように「同じ表現者を深堀りする、全部観る」みたいな行為って意外とみんなやらない。でも一番わかりやすくて理解も深まる気がしています。
だからこそ浮気をせずに、読者や視聴者としても、繰り返し執拗に描かれていることに食らいついてみることって、本当に大事だなと思うのです。
自分の中での印象の残り方もガラッと変わるし、その体験自体がまさに一生物になる。
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で、こういうことをしていると、よく「飽きませんか?」って聞かれるのだけれども、本当にその通りで、飽きます。めちゃくちゃ飽きる。「またその話か…」って正直思う。
ただ、その飽きるという体験自体が、ものすごく大事だなと思っている自分も同時に存在しています。
この点、一回や二回で感動するのは、そりゃ当然なんです。歴史に名を残している作家たちなんですから。
でも、どれだけ楽しんでいたとしても、次第にこちら側が「もういいよ、わかったよ…!」と感じて呆れてしまうタイミングがやってくる。
でも、そう感じたときほど、そのひとの真の執念や本物のメッセージが込められているタイミングでもあるはず。そこまで付き合ってみることが、本当に大事だなと思うんですよね。
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そこまで作者に付き合って初めて、自らの「学び」にまで昇華される。
言い換えると 数回程度で「わかった」気になるのは、情報の表面的になぞっているだけ。
最初は感動していたはずなのに、次第に呆れて、それでもなお執拗に繰り返される「型」に直面させられたときに、初めて作者の「これだけは譲れないという業(ごう)」みたいなものに触れる瞬間がフワッとやってくる。
それは効率を重視するAI的な学習とは対極にある、「身体的な納得感」に近いプロセスだと感じています。
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また、そんな執拗なまでの繰り返しを通して、人間は相手のことを憎んだり、逆に愛したりもする。
その人間らしい業みたいなものをめぐって、人間同士が手を取り合ったり、石を投げ合ったりするわけですよね。
どちらに転んでも、その体験それ自体がものすごく尊いなと思うし、同時に体験していて純粋に楽しいなとも思う。AIには不可能で、人間だけにできることでもあると思います。
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あと最近読んだAIにまつわる東畑開人のインタビューの中で語られていた話も、今日の話に関連するように感じます。
東畑さんは、インタビューの中で以下のような話を語っていました。
たとえば、AIに詳しいテック業界の人から『カウンセリングはもうAIでいいんじゃないの』と言われることがあります。そういうときに『僕に対してそう言いたくなるくらい、君は人間を好きじゃないか』と返したりします
これは本当にそのとおりで、ものすごく納得感のあるお話。
呪いと愛は表裏一体どころか、完全に同一のもの。
だからこそ僕らは、まだ今のAIを憎めない。AIを本気で憎めるようになったときにこそ、AIが人間に代替できるときであるはずで、でもそんなときはきっと一生訪れない。
そう考えると、本気で憎むことができる対象である人間という存在は、なんて愛おしい存在なんだとも同時に僕は思ってしまいます。
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さて、話は村上春樹に戻りますが、上記でご紹介した『翻訳夜話』の中で、カキフライ理論のほかにもうひとつ、深く刺さった話があります。
それが、村上春樹が翻訳する際に大事なものとして「センス」と同時に、もうひとつ大切にしているものがあるというお話。
それが、自らの「かけがえのなさ」を実感することだと語るのです。
こればかりは、本書を実際に手にとってみて該当箇所を実際に読んでみて欲しいのだけれど、少しだけ引用してご紹介させてもらうと、
村上 たとえば僕がカーヴァーの翻訳をやっている。僕はそのときカーヴァーにとってかけがえのない翻訳者だと感じるわけです。考えてみたらこれはすごく不思議なんですよね。だって翻訳者こそいくらでもかけがえがあるみたいな気がしますよね。でもそのときはそうじゃないんだよね。なぜだろうと、それについて最近考えてみたんだけど、結局、厳然たるテキストがあって、読者がいて、間に仲介者である僕がいるという、その三位一体みたいな世界があるんですよ。僕以外にカーヴァーを訳せる人がいっぱいいるし、あるいは僕以外にフィッツジェラルドを訳せる人もいる。しかし僕が訳すようには訳せないはずだと、そう確信する瞬間があるんです。かけがえがないというふうに、自分では感じちゃうんですよね。一種の幻想なんだけど。
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僕自身も、本当にうまく言えなくて申し訳ないのですが、まさにこれだ!って思いました。
この三位一体の中で得られる自己の”かけがえのなさ”こそが、AI時代を生きるうえで非常に重要な要素なんじゃないか。
「霊的成長は、つなげておいたから」のあの話なんかにも、見事につながるなと思います。
そして、それは往々にして翻訳作業のほうなんです。決して、創作活動のほうではない。
ここも非常に重要な視点だなと感じています。世間とは真逆の視点。
村上春樹ご自身も、先程の文章に続けて、小説を自ら書くことと対比して以下のように続けています。
村上 僕がぱたっと死んじゃって、小説が途中で終わってしまった。それは悔しいと思いますよ。でももしそうなったとしても、誰に対しても責任はないですよね。結局は自分一人のことだから。でも翻訳はとても小さな世界なんだけど、自分が何かの一翼を担っているという感触がきちっとあるんですね。誰かと何かと、確実に結びついているという。そしてその結びつき方はときとして「かけがえがない」ものであるわけです。少なくとも僕にとっては。
創作よりも、翻訳のほうが、というか、その翻訳しようとする時に生まれる三位一体の感覚のなかに自らを位置づける、そんな”かけがえのなさ”のほうが、本当は大事だったのだと人々が気づくタイミングが、きっとそろそろやってくる。
いや、もちろん翻訳こそ、AIで代替できるシーンも多々あるのだけれど、それゆえに必然的に、これこそが人間の役割だったと判別できるシーンもやってくる。
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2026年さらに、人間と人間の間にAIが入ってくることは間違いありません。
それを最近では「コネクティブAI」とも呼ぶそうです。AIが人と人の「間」に入り、関係性をなめらかにつなぎ直す、という思想らしい。
でもそれゆえに、灯台下暗しで「いちばんAIが埋めてくれそうな穴」にこそ、実は“人間の役割”が残っていた、という逆説が必ず起きる気がしています。
それが、創作ではなく、翻訳。
まるでカキフライを油であげるときのように、油の中にくぐらせるという行為そのものに、人間的価値が宿っていた、と。
そんな広義の「翻訳」こそ、人間の役割だったという遡行的な発見をするはずなのです。
今年の年末に向けて、それがより明確化してくるはずだから、今から淡々と準備をしていきたいなと僕は思います。
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以前、別の書籍の中で村上春樹は以下のような話も書いていました。
僕はただその人のボイスを、より他者と共鳴しやすいボイスに変えているだけです。そうすることによって、その人の伝えたいリアリティは、よりリアルになります。そういうのはいわば、小説家が日常的にやっている作業なんです。
これは今のようなAI時代だからこそ、本当にとても大切な観点だなあと思います。ますますその意味合いが濃くなっている。
今日は、うまく書けた自身はまったくないのですが、なんだかそんなことがものすごく大切だと漠然と考えてしまう年末年始でした。
いつもこのブログを読んでくださっている方にとっても、少しでも何かしらの参考となっていたら幸いです。
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