昨年末から「男はつらいよ」シリーズを観始めて、今26作目まで観終えて、丁度折り返し地点に到達しました。(ちなみに26作目は函館の隣町、江差が舞台)
もし「自己ロマンの投影とソレへの陶酔」が恋の定義だとしたら、今間違いなく僕は寅さんの妹役である倍賞千恵子さんに恋しているタイミングだなあと思います。
映画は、物語。二次元の、つまり若いころの倍賞千恵子さんに恋していると思われるかもしれない。
それは確かにそうなんですが、でもあくまで実際に存在している生身の人間に恋している感覚があります。
御年84歳の実在する女性に恋をしている。これは本当に不思議だなあと思います。
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きっと、今『ハウルの動く城』を観たら、またまったく違う映画に観えてしまうはず。
そして、奇しくもあの映画も、ソフィーは老婆と若い女性を行ったり来たりして突如若返ってしまう映画なわけですよね。
あの描写自体がフェミニズムの文脈のおいて、批判されがちなポイントでもあるのだけれど、改めて宮﨑駿監督らしいすごい演出だなと思います。
まさに、あのソフィーに恋するハウルみたいな感覚が今です。
きっと、そのお声が、本当に美しいからなんだろうなあと思います。倍賞千恵子さんの声は本当に、若い時だろうが、老いたあとだろうが、どちらの風貌であっても素晴らしい。
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で、この魅力は一体何なんだろう?とさらに考えたくなって、ご本人が書かれた『倍賞千恵子の現場』という本を最近読み終えました。
そうすると、以下の部分がなんだかすごく印象に残りました
彼女の意見というよりも、彼女を見守る渥美清(寅さん)の意見ではあるのだけれども、本当に言いえて妙だなと感じたので、少しご紹介してみます。
「妹のさくらちゃんは、恋人と、姉さんと、それとおふくろと、それと永遠にいつもわがまま言っても大きく自分を迎え入れて抱きとめてくれる観音様みたいなものというかな。それと、やはりどこかかわいい心配な妹と、そういう全体の要素を全部持ってんじゃないかね」
このようなセリフを受けて「日本人男性は、女性に母親役を求め過ぎている!女性搾取だ!」みたいな話って、本当によく聞く批判です。
実際そうとも言えるし、でもどこか的外れだなといつも思ってもいました。そしてこれを読んで、なんだかとてもハッとしたんですよね。
女性、つまり母性というよりも、どこかそこに「観音様」を観ているのだろうなあと思います。
これは同じ「母性」であったとしても、まったく異なる性質だと思う。もちろん、それが「絶対他力」の思想なんかにも見事につながる。(ちなみに観音様は男性でも女性でもない)
阿弥陀の本願が「絶対他力」を説くように、自力ではどうしようもない人間の業(ごう)を、ただ静かに「お兄ちゃん、おかえり」と受け止めるような存在。
それが「男はつらいよ」の中のさくらであり、倍賞千恵子さんの声の持つ、独特の響き、そのパワーだと感じます。
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で、倍賞千恵子さんといえば、映画「PLAN 75」でも主役を演じられていました。
過去に何度もこのブログの中でも言及したことがある問題作です。
この映画は、75歳以上は希望者の尊厳死が許されている世界であって、倍賞千恵子さんが演じる主人公も、年齢を理由に様々な仕事を断られ、最後は深夜の工事現場の交通整理で働くことになってしまう。
その辛さゆえに、尊厳死の制度を自ら申請してしまうという映画です。
この映画でも、声が非常に印象的で、行政担当者(河合優実)との電話での最後のやり取りのシーンがとても印象的に描かれてありました。
ちなみに、この映画から河合優実さんが一躍有名になっていったなあと思います。
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で、この「PLAN 75」も寅さんの妹・さくらが主人公の映画だったと読み取ることができるんだろうなと思ったんですよね。
寅さんが亡き後、ひとりになったさくらの行き着いた先がここだった、というような。
もし、現代にさくらのような女性が本当に実在するとすれば、あの境遇にいる可能性があるとも考えられて、そうやってあの映画を観ると、まったく別の映画に思えてくるから不思議です。
既に2回も観た映画ではあるけれど、寅さんマラソン完走したあとにもう一度観返してみたい。まったく違う映画になっていて、なおかつ号泣してしまいそうで、本当にこわいなと感じます。
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で、これはもうすでにどこかで語られているのかもしれないけれど、調べて真実を知るよりも自分のなかでそういう”物語”を勝手に信じたい、そんな意味でなんだかものすごくハッとしたのは、
山田洋次監督は「PLAN 75」を倍賞千恵子の遺作にしたくなくて、新作「TOKYOタクシー」をわざわざ撮ったのではないかということ。
さくらを演じる彼女の遺作が、あの映画になってしまうなんてあまりにも不憫に思えたのではないか。
確かに人生波乱万丈だったかもしれないけれど、もっともっと違うラストだってあったはずだ、と。
そのエスコート役が木村拓哉なのは至極当然というか、木村拓哉以外にありえない。
実際、横浜の元町をふたりで腕をくんで歩くシーン、あれはバージン・ロードみたいなもので、人生最後のお見送りということだったのかもしれないなあと思いました。
もちろん、これからも倍賞千恵子さんにはお元気で様々な役柄を演じていって欲しいけれど、少なくとも絶対に「PLAN75」を最後の映画にしないという気概、その気概で山田洋次監督が自らメガホンを取ったと思ったら、美しすぎるし、愛に溢れすぎているし、本当に泣けてくるなあと思いました。
ものすごく身勝手な陰謀論ですが、僕は勝手にこの物語を信じたい。
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さて、ここで話を寅さんに戻しまして。
いま寅さんを観るのは、自分じゃなきゃいけないという感覚が、なぜかものすごく自分の中にあります。
昨日のブログにも書いた、村上春樹さんのかけがえのなさの実感、そんな三位一体みたいな感覚。
これって本当に不思議ですよね。寅さんを観るのは、別に自分じゃなくても良いわけですから。
これは宛名が書かれていないけれど、紛れもなく自分宛ての手紙である、ラブレターであるという強い実感があるんですよね。
一昨年、無我夢中で村上春樹を読んでいる時も、似たようなことを感じた。
「読みたい、観たい」よりも「読まねば、ちゃんと観なければ」という感覚です。
自分が全うするべき何か、その義務や責務の履行のためには、いま必死でこれを履修をしなければいけないという感じです。
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なおかつ、自分では止めてはいけないバトンリレーだ、という自覚も強いです。
つまり、次につなげたい、翻訳したいという気持ちがとても強い。
反対給付義務を自然と授けられている実感があり、受け取ってしまったという負い目がそこにはある。
でもそれは、非常に心地よいわけです。
これを一生をかけて返済していけるなら、どれだけ幸せなことだろうかと思える健やかな負い目が間違いなく今の自分の中にはある。
そして実際に、毎日映画を観ながら気づいたことをこうやって淡々と翻訳するようにして、サロンに書いていて、ブログに書いて、それをVoicyに発信するという一連の作業を行っている。
僕がこうやって行っていることも、広義の「翻訳」作業なんだろうなと思います。
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この点、100分de名著のプロデューサーである秋満吉彦さんが、批評家・若松英輔さんから言われて印象に残っているというお話で以下のような言葉がありました。
「本は自分に届いた手紙だと思って読んだらいいんですよ。自分がもらったラブレターだったら、すごく真剣に読むでしょう。数行の短い文章だったとしても、この一言に実は深い意味があるんじゃないかって、必死で考えるじゃないですか」
これって、本当に大切な姿勢だなあと思っていて、受け取り方の節度の話にも見事に通じるなと思うのです。
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で、これを受けて思うのは、それでもなぜ僕らは、自分宛てのラブレターだと思えないのか。
言い換えると、他人宛の手紙のようにして受け流してしまうのか。
それは結局のところ、自分自身への自己評価の低さなんだろうなと思います。
つまり自分はラブレターが届くに値する人間だという確かな実感が持てない。でも問われているのは、いつだって自分自身なんです。
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じゃあその自覚、自分自身の評価はいかにして高められるのか。
それがきっと問題になると思うのですが、その結論というか帰結が「良い翻訳者である」という自覚なんだろうなと思います。
つまり、村上春樹の語る「かけがえのなさ」の実感という言葉に見事にあらわれているんじゃないかと思ったのです。
そう思えた時に、初めてそこに厳然たるテキスト、そして読者、その間に仲介者である自分がいるという三位一体が立ちあらわれてくる、というような。
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この時には、必ずしもルールに則った翻訳である必要はないと思います。
「邪道」であってもいい。
そのときに大事なものは、むしろ敬意なのでしょうね。三位一体に対するそれぞれへの敬意。当然、そこには自分自身への敬意も含まれます。
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そうやって実際に「テキスト」全体を読みに行くこと。要約には頼らない。
そうやって敬意を持って、自分が受け取ったものを、他者に対して必死に伝えようとするとき、それが翻訳行為そのものだと思ったのです。
ゆえに、僕はこれからも翻訳作業を行っていきたいなと改めて思いました。特に昭和を、そして平成を、すこやかに令和に向けて翻訳していきたい。
それだけ日本には、いまも翻訳を待っている素晴らしい作品が、各所にたくさん眠っているわけだから。
有形無形を問わず、素晴らしい作品の数々を、これからも丁寧に翻訳し、掘り起こしていきたいなと強く思います。
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最後にまとめると、自らを三位一体の中に位置づけて、丁寧に縦の系譜を継ぎながら、敬意を持って翻訳をしていく作業、それが大事。
これがきっと、これからの人間のお仕事です。
そして逆説的ではあるけれど、そこにこそオリジナリティの溢れる「創作」精神が宿っていくのだと思うのです。
そして、そんな三位一体を説く「教会」がもともと、それぞれの町、それぞれのコミュニティごとに存在していたように、それぞれのコミュニティに、それぞれの文化を翻訳するひとがいることが本当に大事だなと思う。
つまりその対象読者というのは、きっとコミュニティごとに存在する。
だから僕はWasei Salonのメンバーの、みなさんにもぜひ翻訳者になってみて欲しいなと願います。
それぞれに興味がある文化を、お互いに丁寧に敬意を持って届け合っていくように。コミュニティメンバーに向けて翻訳作業をしてみて欲しい。エバンジェリストの役割を、自分らしく果たしてみて欲しい。
そのときにきっと、自己のかけがえのなさも強く実感できて、そんな時に初めて、幸福感が訪れるはずです。
自らが、自らの手で救われる実感みたいなものを得られるのだと思う。
最後は少しスピリチュアルっぽい話になってしまいましたが、個人的には最後までものすごく現実的な話をしたつもりです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
