今日もmixi2の話です。

考えれば考えほど「mixi2に感じているこの漠然としたおもしろさや、独特のあたたかさって何なのだろう?」と感じてしまいます。

僕自身は、こういう「言葉にならない感覚、でも何か従来とは明らかに異なる。そしてこちら側に次の時代を切り開いていくカギがありそう」みたいなものが大好物で、そういうものを見つけると、一体何なのかを延々と深堀りしたくなる性分です。

で、最近はその答えが知りたくて、いやらしいぐらいにみんなのmixi2のフォロー欄を積極的に見に行ってしまうのだけれど、本当に全然インフルエンサーをフォローしていなくて、ビックリします。

いわゆるなインフルエンサーがいても「お互いに相互認知しているから、一応フォローしています」という感じ。

そして、その人達の発信を過度にRTしたりするわけではない。

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もっとそうじゃなくて、本当にこのひとたちはつながっているんだろうなあと思い合える関係性を大事にしている感じが、ダイレクトに伝わってくる。

しかもそれは、単純なソーシャルグラフ、つまり「フォロー・フォロワー」という関係で、いつでも断ち切れるものとしてではなくて、もう少し深さを伴った関係性の人同士でしか、フォローし合っていない感じに見えます。

この時期だからじゃないけれど、なんだか「新しい年賀状」みたいだなあとも思わされる。

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で、そんなことを漠然と考えているときに、Wasei Salonメンバーのあつこさんが、

「mixi2はスマホ写真でいいな。見栄えよりも、今の気分をタイムリーにおきたいと思える気軽さ。」


とつぶやかれていて、これは、本当にわかるなあと思いました。

そして、あつこさんのこういう何気ないつぶやきに、僕自身はいつもヒントをいただいている感じがします。本当にありがたい限り。

「炭鉱のカナリア」じゃないですが、素晴らしい直感力。いつもフワッと大事なことを示唆してくれるなあと。

この視点は、「mixi2」とは何かって考えるときに、とても大事な視点だなと思っていて、じゃあその重要性って何なんだ?と思ったときに、きっとこれは、「家族に近い」ということなのだと思いました。

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それはどういう意味なのか?

この点、家族に写真を共有するときに、わざわざ写真を編集したりはしない。

言い換えると、よそ行きの形にしない。それはある種、距離をつくる行為であって、相手を遠ざける意味も持ってしまう。

それよりも、今の素直な気持ちを共有したいと願う気持ちのほうが先行するのが、家族や親族の距離感だと思います。

で、このあたりまで考えたときに「あっ、これは開かれた大きな家族のための『みてね』なんだ!」と思いました。

つまり、mixi2は、初期のmixiでもなく、2010年代のTwitterでもなく、mixiという会社がその間に大成功させていたアプリ「みてね」の、開かれたファミリー版だということなんだと思いました。

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そして、満を持してこのタイミングで投入された感じもする。

言い換えれば、mixiで元祖SNSをつくり、『みてね』で血のつながった家族の新しいつながりをSNSでつくり出し、ついにその両方の知見が統合されて、“開かれた大きな家族”のためのアプリになったのだと思います。

それぞれのコミュニティが、ゆるやかにつながる感じ。

僕自身も自分の兄弟に招待されて、実際に「みてね」に参加してみたことがあるのですが、あのアプリは本当にすごい。

これまでまったく関係がなかった親族同士が、「こども」の写真を通じて見事につながっていく感じ。アクティブ率も相当高い。

そして、そもそも婚姻というのは、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』などを引き合いに出さなくても、そうやって家族と家族を、ダイナミックに架橋して、つなげていくものだと思います。

まさに「誤配」そのもの。むしろ、家族全員が均等にメッシュ状に広がろうとしたら、家族というのは崩壊する。


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もちろん家族という言葉が重たければ、ファミリーでも共同体でも、なんでもいい。

ただ、コミュニティって、インフルエンサーを中心にそこに勝手にできてくるものだと思います。人々が集えば自然と立ちあらわれる。

でも、ファミリーは、決して能動的ではないとしても、その場に集うものひとりひとりが何かしらの想いをもって集い合うものだと思います。

僕は、いわゆるなコミュニティよりも、そんな家族(ファミリー)や親戚関係をつくりたい。人間関係の根本として、従来的な血のつながりだけではない新しい“イエ”の概念においてつながりたいのだろうなあと。

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ちょうど、Wasei Salonのアドベントカレンダーの投稿の中で、なつみさんが河合隼雄さんの『家族関係を考える』を紹介してくれていたけれど、まさにそんな話です。

「家族ってなんだろう?『イエ』ってなんだろう?」と考える者同士が、その形式部分(血や家系図)によってつながるわけではなく、本当に大事にしたいものを持ち寄り、新たな可能性を立ち上げていく。

そのときに、ものすごくうまく機能するようにしてつくられたものがきっと、mixi2。

つまり構造としては、元祖SNSとしてのmixiと、血の繋がりのある家族をインターネット上でつなげた「みてね」の弁証法になっている。

どちらも否定されずに、保存された形において、アウフヘーベンされている。

そして、それ以外のひとには、あえて「つまらない」と思わせる仕組みも本当にすばらしい。つなげすぎないことは、言わずもがなです。

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「みてね」をより開かれた形で展開されたものがmixi2なんだと思ったら、一気にまた使い方も明確になってくるなあと思いました。

2024年の年末は、AIの登場によって、お互いの存在が「役割分担」によってつながっていた関係性がいよいよ崩壊する間近です。

それでも、ひととひとがつながりつづけるためには、ファミリー感を生み出すしかない。

つまり、合理的に賢く次の時代の行く末を考えて、ハックするじゃないんですよね、もう。

むしろ、ファミリーの一員が盛大に転びそうなぐらいがちょうどいい。そのほうかちょうど「不便益」みたいなものがそこに生まれて、一緒に盛り上げていこう、となるわけだから。

「みんなで支えよう、それぞれのあり方で支えよう、だって僕らはファミリーじゃないか」という形においてつながれる。

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たとえば、昨日始まったばかりの濱田さんのクラファンとか、三浦さんのフラフラした感じとかはまさにそう。


濱田さんが本気で挑戦してくれていて、その成功確率が本当に五分五分だからみんなで盛り上げようって思えるし、ある種、三浦さんみたいなひとが、フーテンの寅さん役となって、縦横無尽にフラフラしてくれることで、家族がつながっていく。

この関係性なんだと思うんですよね。

そこに、「コミュニケーション代(しろ)」が生まれるということ。

AIによってすべての知識が民主化される中で、僕らが価値を実感するものはそれしか残らない。

当然、ここに人格を持ったAIも、新しい家族としてつれてくるひともいるはずで。多分僕はそっちの誤配の役割を担うんだとも思っています。

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色々と書いてきましたが、これはあくまで僕の見えている世界、僕の考察であって、もっと言うと、僕がそういう風に使っていきたいということ。

僕がみなさんとそういう関係性を構築したいという欲望がまずあって、そんな欲望を持つ僕には今のmixi2はそのためのツールに見えているという話。

で、もしここに共感してくれる方々がいれば、一緒にそんな世界観をつくっていきませんか?という話でもある。つまり、盛大なお誘いであり、突拍子もない提案なんです。

これまでのWasei Salonは、どちらかと言えば、大きな囲炉裏的な空間でした。(暖炉や焚き火でもOK)

そして、そのたしかなつながりは間違いなく生まれていて、ひとつのコミュニティとしての安定期に入ったことも間違いない。

それは先週開催された東京の忘年会、昨日開催された関西の忘年会、そのどちらも通じてとても強く実感しました。

本当にみなさんには感謝感謝で、どれだけ感謝してもしきれない。

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次は、ここで得られた「なんだかいい」という実感、それを小さな現実、でも確かな現実として、似たようなコミュニティ、でも決して遠すぎないコミュニティと分かち合ってファミリーとしての価値を深めていきたい。

ここで、大きく外に広げようとした瞬間に崩壊してしまうから、それぐらいまだまだ脆いもの。現代にはあまりに早すぎる価値観でもあることも重々承知しています。

でも、方向性としてはこちらであることはきっと間違いない。

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静かに優しく穏やかに、他のコミュニティともそのつながりを称え合う関係性を構築していきたい。

mixi2は、そんなふうに他のお互いに惹かれ合うコミュニティ同士が井戸端会議をするような場所であり、縁側や井戸のまわりみたいなものだと思うから。

当然、僕らは常に開かれている空間なので、ドンドン新たに入ってきて欲しいなあと思いますし、これからもこのような新しい『イエ』や『ファミリー』の可能性をみなさんと一緒に丁寧に模索していきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のこのお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。