毎年の12月の1ヶ月だけは、今年1年の世の中のトレンドを意図的に振り返ってみることに重きを置いています。

この時期に配信される「日経トレンディ」のPodcastも聴くのも、毎年の恒例です。

ちなみにこの雑誌「日経トレンディ」の年末特大号は、Audibleでオーディオブック化されていて、こちらも非常にオススメ。

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そんな中、日経トレンディでも大々的に取り上げられていた今年のトップトレンドのひとつである「平成女児売れ」です。

平成時代に流行った女子向けの物理的なシールや、当時の子供向けのおもちゃが若い子たちのあいだで流行っているという話で「バーチャルだけではなく、物理も大切にする価値観」みたいな文脈で紹介されていました。

でも、僕はこれを聞いていて、「バーチャルに対するアンチ」ではなく、むしろバーチャル・コミュニケーションこそ物理の被写体を余計に求めるようになった、その結果なんだろうなあと思いました。

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ちょうどこの前、京都のスタバにいたとき、まさにこのトレンドのど真ん中にいるような20代の女子たちが、バンバンシールを貼った物理手帳を、自らのスマホのカメラで様々な角度から写真に撮っていて、それを見て「ああ、なるほどなあ」と感じました。

つまり、「懐かしさ」や「わかりやすい記号」として、SNS上で映えるもの、共通認識が既に得られているものが求めていて、その結果、平成時代の子供向けのシールやおもちゃが再評価されているという形。

ちょうど、SNSが出てきた当初「体験価値」がやたら叫ばれるようになったのもまったく同じロジックだったかと思います。

「ネットから離れるために旅に出よう」と言われていたけれど、結果的にはSNSに投稿するための旅だったというあのオチと、まったく一緒です。

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逆に言えば、そんな体験価値(旅行とか街遊びとか)が2025年現在では急激にインフレを起こしていて、ハードルが上がってしまったから。

だからこそ、より安価でかつ共有しやすいおもちゃに逃げたとも言えるし、それが共感を呼び、ヒットに繋がったとも言えそうです。

特に京都のような街では、すべてがインバウンド観光客向けの価格になってしまっているので、若い子たちが気軽に街遊びもできず、このようなおもちゃに流れるのも必然。

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さらに、新書『Z家族』のなかでも論じられているように、顔出しが当たり前ではないZ世代にとっては、物理手帳やシールはバーチャル・コミュニケーションをする際に、本当に丁度良い商材だったんだろうな、と思います。

実際この考察が当たっているかどうかわからないけれど、こうやって原因と結果を考えてみることって、すごくおもしろいなと思う。

逆振りという分析されがちだけれど、むしろ思いっきり順張りした結果としての逆張りに見える現象って、確実にある。

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で、もうひとつ、日経トレンディの特大号で知って驚いたのが、今年爆発的なヒットを飛ばした「洗面ボウルクリーナー」という商品です。

売り文句は、洗剤とスポンジが一体化して、手を濡らすことなく洗面ボウルをサッと掃除できるというアイテム。

今もメーカー希望小売価格では手に入らず、プレ値でしか購入できない状態。

とはいえ、知らないひとは知らないと思います。僕もまったく知らなかった。

その爆売れの理由に「ズボラ欲が刺さった」と解説に書かれてありました。

たしかにそうなんだろうなと思いつつ、でもこの「ズボラ」という言葉も、かなり相対的なものだよな、と感じます。特定の界隈から眺めたときに、そう見えるだけで。

つまり、家事やお掃除大好き界隈から見ればズボラに見えるけれど、当人からすれば「そこまで優先度を上げられないだけ」の話でもある。

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じゃあ、なぜ洗面台の掃除が片手間になっているのか。

僕はそこにあるのは、「ズボラ欲」よりもむしろ「ながら欲求」なのではないかと感じます。

現代の人々がズボラになったというより、ズボラじゃなくなったからこそ、逆説的に「ズボラ欲」が立ち上がってきている。(とても変な話だけど)

つまり、掃除をサボりたい(怠惰)のではなく「自分が価値を感じる別の活動(仕事、趣味、推し活など)」に、より真剣にリソースを割きたい。

だからこそ、従来の家事労働への優先度が相対的に落ちて「結果としてズボラ扱いされる」だけなのかもしれません。

自分が本気で取り組みたい活動のコスパとタイパを上げるために、日常のルーティンはズボラな選択肢を積極的に採用する。

その帰結として「手を一切濡らさず使える専用掃除用具」であれば、お金を払ってでも欲しくなる。

これも一見すると「怠惰への逆張り」だけど、よくよく見ると努力しすぎている社会への順張りの結果として生じた現象だとも言えるのではないでしょうか。

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これらと同じような構造が、いま至るところで起きている気がします。

たとえば、「自分の機嫌は自分で取る」というスローガンなんかもまさにそう。

お互いに「ご機嫌でいること」を過度に求め合う風潮で、この言説に対しては僕はどうしても毎回納得がいかない。

もちろん、レイジベイトのように怒りコンテンツや不機嫌さでアテンションを獲得しようとする反作用として、このスローガンがが生まれてきたという側面はあると思います。

昭和ストロング世代に対してのアンチテーゼであり、そういうSNSのアテンション・エコノミーに対するアンチテーゼでもある。

だから「自分の機嫌は自分で取る」というのは丁寧な暮らし文脈における用語のようにも語られる。

でも、これこそが自己責任論を加速させているものの最たるものでもあると僕は感じています。

それは以前から何度もブログに書いたことがあります。


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しかも、厄介なことに「自分の機嫌は自分で取る」というのは資本主義社会にとっては、ものすごく都合がいいわけです。

だって、消費者が「自分の機嫌は自分で取らなきゃ!」と焦ってくれればくれるほど、自分の機嫌を取るための自分のための消費をたくさんしてくれるからです。

言い換えると、相互扶助(ケア)はお金を生みませんが、自己ケア(ご褒美消費・癒やしグッズ・ソロ活)はGDPにガンガン貢献してくれます。

そして、孤独であるほど、人は自分の機嫌を満たすために消費せざるを得ない。

ご機嫌であるためにという言い訳のもと、ご褒美消費をバンバンしてくれる。

特に女性たちを中心に、子どもや高齢者などアンコントローラブルな存在に囲まれている人にとっては、自分の機嫌を外部要因に乱される機会が多いぶん、「自分の機嫌は自分で取る」という言葉はぴったり刺さってしまう。

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逆に言えば、その流れを後押しするために「機嫌が悪い人は嫌われる」「不機嫌な人からは距離を置くべき」という意見だけが過剰に拡散されていく構造でもある。

そうすれば、空気に流されやすい人たちは、「あ、機嫌が悪いことは人から嫌われることなんだ」と思い込み、ますます「自分の機嫌を取るためのご褒美消費」にお金をかけるようになる。

もちろん、他者をケアすることは、本来とても手間も時間もかかるし、面倒くさい。

実際に「うざったい」と感じる場面があるのも事実ですし、全部を引き受けようとすれば、それはそれで共倒れにもなる。

でも、それでもなお、すべてを「自分の機嫌は自分で取る」という言葉に回収してしまうことは、結果的に自分で自分の首を締めているようにも思うのです。

やっぱり本当に大事なことは、『嫌われる勇気』の中に出てくる「自己受容、他者信頼、他者貢献」その循環。

その時に、得られる自らの共同体に対しての「貢献感」こそが幸福の源であるという話は、本当にごもっともだなと思います。


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このように、現代においては、本当は「忌み嫌われているもの」のほうにこそ価値が宿っている、というケースも少なくありません。

なぜなら、「それでもなお残っている」ということは、そこに何らかの意味や価値があったからこそ、淘汰されずに残ってきた、とも考えられるからです。

いまの視座や価値観から一方的に眺めれば、どうしても「汚い部分」だけが切り取られて、そこにばかり光が当たってしまう。

しかも、その光の当て方は、本当に恣意的にコントロールできてしまう。時代の為政者たち、時代の構造にとって「都合の良いように」いくらでも改変されていく。

誰かが明確な悪意を持って操作しているというよりも、「時代の構造の帰結」として、最終的には一番都合の良い方向へと自然におさまっていく。

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でも、もしそれが本当に忌み嫌われるだけの対象、つまりすべてが汚い部分であれば、すぐに捨て去れられて、淘汰されていて当然なはずなのです。

でも淘汰されず残っているということは、良薬口に苦し的な話であって、苦い部分だけに光を当てて、喉元過ぎれば苦さを忘れた先にある、良薬の部分。

そのことに対しての敬意、忍耐や節度を常に持ち合わせておきたい。少なくとも、世間や社会と一緒になって「空気」に流されて短絡的に否定しないっていうことだと思う。

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日本人には、良くも悪くも一神教のような神様がそれぞれの中に存在しないのだから。

世間の「空気」こそが、唯一の正義にもなりやすい。

でもむしろ、そんな忌み嫌われているもののほうにも何かしらの価値があったんじゃないかと、世間の当たり前を安心安全の空間の中で一度、好奇心をもって眺めてみることができる空間があることが、いま本当に大事なことだなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。