Wasei Salon内で開催されるオンラインイベントは、基本的にすべて対話型形式となっています。

対話型とは、登壇者が決まっていてプレゼンしたりトークしたりするような完全に話す側と聞く側がわかれているタイプのイベントではなく、全員に話す機会が順不同に巡ってくるタイプのイベントです。

フラットな組織のブレスト型の打ち合わせなんかを想像してもらうと一番わかりやすいかと思います。

では、なぜこのようなイベント形式に辿り着いたのか。

今日はそんなお話を少しだけ書いてみようと思います。

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この点、まず従来型のトークイベントとオンラインの相性は最悪だと思っています。

というか、ただの「ライブ配信(生放送)」になってしまう。

「自分が話さなくてもいい」とわかった瞬間に、参加者は「視聴者」になり下がってしまう。

そして、自分の「ホーム」で視聴者になった瞬間に、人間の思考は完全に停止します。それはテレビを見ているときの態度とほぼ同じです。

一方で対話型にして、イベント内に数分でも自分が話すターンが必ずやってくるとわかっていれば、参加者は常に発話者の態度で臨み、考え続けることができる。

そして、この目の前で繰り広げられている対話にしっかりと耳を傾けながら、「何を話そうか」と自ら考えている時間が、イベントを終えた時の満足感につながってくる。

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この点、多くのひとが「得られた情報の多寡」でそのイベントの良し悪しを判断しようとしてしまいますが、イベントの満足感は決して「得られた情報の有益性(希少性)」ではないはずです。

それよりも、私の目の前で繰り広げられている対話を受けて、私の内側から立ちあらわれてくる微かな片鱗に触れられた瞬間に、人間は充足感を覚える。

書籍でも映画でもトークイベントでも、それが多くの人にとっておもしろいと感じさせる名作は、受け手に自分ごととして考えてもらうための仕掛け(問いかけ)が絶妙に含まれているからですよね。

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そして、実はこのような「考える」と「対話する」の組み合わせた空間って、現代の社会にはどこにもないのです。

学校では正解が求められ、

会社では忠誠が求められ、

友人や家族には共感が求められる。

自分が特定のテーマや問いについて、1時間半どっぷりと浸りながら、自己の内側を深掘りする中で、立ちあらわれてきた考えを他者に伝えたり聞いたりする空間なんて本当にどこにもない。

でも、何度もこのブログに書いてきたように、この「井戸掘り」する作業が生きるうえでとっても大切な作業なんですよね。

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建前(肩書き)でも本音(自我)でもない、苦手なひとがいることを承知の上であえてこういう書き方をしますが、つまり「魂」をぶつけ合っている感覚です。

私の話を聞いてくれているひとが、いま目の前に存在し、しみじみと感心されている感覚。

自分自身も相手の話を聞くことで、他者にそのような人間として「存在を立証するための存在」となっていることへの安心感。

そうやってお互いの魂と魂の存在を認識し合う時間だからこそ、真の充足感は生まれてくる。

この感覚は僕も日々強く実感しているところですし、サロンに参加してくださっているメンバーのみなさんのイベント後の感想などを見ていても、本当に強くそう感じるところです。

他人の意見ばかり後追いしていても、いつまで経っても私の充足感は訪れません。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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