先日、サロン内にもシェアしましたが、いま話題のChatGPTの「Deep Research」で、自分自身のことについて網羅的に調べてみてもらうと、本当に驚きます。

他人の検索結果を眺めるだけでなく、自己の検索結果を実際に見たときのほうが背筋が凍る感覚があるので、これはぜひとも一度、ご自身のお名前の検索で行ってみて欲しいなあと思います。

現状は、ChatGPTの3万円のプランに加入していないと使えない機能ではありますが、ここまで精密に調べ上げてくるのだと、本当に驚かされる。

そして、今後はこのような機能が日々使われることを大前提にして、インターネット上のコンテンツをつくっていく必要があるんだろうし、もはやコンテンツの読み手は人間じゃなくて、AIになりつつあるんだろうなあとも強く感じます。

「AIに読んでもらうためにコンテンツをつくるって、どんなディストピアだよ」とは思いますが、とはいえ、誰もがこの網羅的な調査が読まれている前提で、リアルの世界で人に出会う世界線になっていくんだろうなあと思います。

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で、僕がこの状況を受けて、さらに一番ディストピアだなと思うのは、「だからインターネット上に情報を残さない」という決断が、全くもって許されないところ。

というのも、きっとこれからはディープリサーチのような網羅的な検索をしてみても、何も情報が「出てこない」ということが、何よりも疑われる世界線になってくるわけですからね。

つまり、過去の素行の悪さとか、ひどい炎上案件があることよりも何よりも、AIの網羅的調査に対して、何もヒットしない人が一番怪しまれる。

もちろんそれが、そのまま個々人の信用スコアなんかにも跳ね返ってくるわけですよね。

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これはたとえば、クレジットの信用スコアで一番融資を受けづらいのは、過去のブラックリスト入りの記録ではなくて、一度もお金を借りて、返したという記録がない人というあの話にも、とてもよく似ています。

今後、就活とか何かしらのセレクションの場面や、はじめまして同士の間柄においては、人間が介在せずとも、下調べ段階においてAIのだけの判断で弾かれてしまう。そんな世界線が生まれてくるはずで、そうすると、面接さえも進めないとなりそうです。

そして、その理由を知りたくても「AIがそのように判断したから」という一点張りになっていくはずです。

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昨今は、このように、現代は「AIがそう判断したので、理由はよくわからないのですが、我慢して受け入れてください」という世界線が至るところで着実に到来しつつあるなあと思います。

何か理由があるわけでもなく「あなたが”あなた”だから差別される」という状態が、SFの世界だけではなく、本当に広く現実の世界線になりつつあるなあと感じます。

言い換えると、表の世界においては、AIが半自動的に判断をし、より一層、格差社会や身分社会が促進されていく。

AIが自動的に人をふるいにかけることで、格差や身分の固定化が進み、結果として「管理」がよりスムーズに機能する。そのため、監視はむしろ「合理的」な選択として推し進められてしまう。

そして、これに抗う手段はますます少なくなっていくはずです。

ゆえに、僕らはより一層、AIに監視されるようになっていくわけです。きっと、この構造から逃れられるひとは誰一人としていない。

これからの時代を生きるうえでは、この変化には粛々と対応していくほかないわけですよね。

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で、このような監視社会と身分固定化の流れを考えたとき、ふと江戸時代が思い浮かびました。

なぜなら、江戸もまた格差社会であり、身分が固定化されていたからです。

格差社会と身分社会が激しく、なおかつそれが固定化されていたことは、今と江戸時代はかなり似ている。

最近話題の蔦屋重三郎も、そのような江戸のしがらみと対峙したひとりだったんだろうなあと思います。

今日の本題はこのあたりからになります。

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この点、以前読んだ『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』という本のなかで、そのために、蔦屋重三郎は「編集」という手段を用いて、そして江戸とは異なる「別世」をつくったという話が語られてあって、これに僕は強い衝撃を受けました。

著者の田中優子さんは、本書の中で以下のように書かれていました。

彼らは思想においてではなく、日常生活において「別世」を作ってしまったのだ。
政権や常識に反対表明しつつ対抗言語を掲げること、つまり「声を上げ続けること」は、現代ではとても大事なことだ。そうしないと、別の価値観があり得ることに気づいてもらえないからである。江戸では、どうしたか。編集したのである。
境界を定め、地図を作り、集め、結合し、相似したものを見つけ、比喩し象徴し見立て、競わせ、装飾し、強調し、俳諧(諧謔)化し、哄笑し、気がついたら政権の思惑とは全く違う世界が、悪所にはできていた。


ちなみにここでいう悪所というのは吉原のことです。

で、「メディアづくり」や編集という作業は、そういう側面が間違いなくあるなあと思います。

そしてこうやって考えてくると、江戸時代の話ではあるけれど、実はものすごくインターネット的なことをやっていたんだなあとも思わされます。

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で、さらにおもしろいなと思うのは、対抗言論、つまり声を上げて政治を変えようとしなかった、というのも蔦屋重三郎の非常におもしろいところなんですよね。

実際にそれを行ったのが、江戸時代のあとの明治維新だと著者の田中さんは本書で書かれていました。

でも、明治維新は、その揺り戻しも大きかったわけですよね。具体的には、前代未聞の天皇制中央集権国家を作り上げ、立てつづけに戦争と侵略をおこなった。その間に実施した言論・芸術弾圧は江戸幕府の比ではない。

こういう革命なら、もうごめんである。江戸っ子たちも江戸の幕臣や武士たちも、そういうことはしなかったのだ、と田中さんは書いています。

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で、現代のインターネット上のトレンドとして存在している、政治に対するドラスティックな改革をのぞむ声なんかも、対抗言論として、確かに大事な政治運動だと思う。

でも、それが実際に実現してしまった暁には、きっと大きな代償をもとめるものになることも間違いないと思います。

そうではなく、別世を生きる。そのための別世を編集して、自分たちの手で作り出す。こちらのほうが大事だなと僕は思うんですよね。

これからAIが支配する階級社会や身分社会になっていくのであれば、なおのこと。

以前書いた、養老孟司さんの真っ赤な嘘の世界にも通じる話です。日本における、現代のマンガの世界なんかもまさにそうなんだろうなあと思います。


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この本の著者の田中さんは、写楽の話などを例に出しながら、江戸時代はアバターがうごめいていた世界だと語ります。

写楽については、突如現れて一〇ヶ月で消えたことから、「誰だ?」という人々の好奇心を呼び、諸説が展開していたらしいのです。

しかしこの「作者が誰かわからないと落ち着かない」という心理は、江戸時代にはなかったのだと。

なぜなら、現実の身分社会を生きる者たちが、別世に生きる別の自分をもっていることは、当たり前のことだったから。そして、分かっていてもあえて言わない。分からなくとも気にしなかったのだそうです。

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十年ぐらい前までは、インターネットという場が現代のひとつのそんな「別世」だったはず。

でも今は、インターネットの世界の側のほうこそ、表の格差社会や身分社会が表面化をし、しかもそれをAIが取り仕切ってしまっている。

監視するコスト自体も著しく低くなるわけですよね。AIが半自動的にすべてを判断してくれるわけだから。

どれだけ匿名で活動していても、必ずネット上をくまなく探されて本人が特定される。そんな『マトリックス』のセンチネルみたいなものが、オープンのインターネット上の世界を飛び回っている。

だとすれば、データやアルゴリズムが導き出す価値観に支配や左右されない場を、どうつくっていくのかを同時に考えたいなと僕なんかは思います。

そんなオープンの空間とは全く異なる価値観で駆動する「別世」の可能性を、クローズドのコミュニティの編集作業という形で探ってみたい。

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知っていても言及しせず、そのことによって社会的信用や、相手の価値を判断しない。

そんなことよりも人間的にもっともっと大事なものがあるという認識をお互いに持ち合ったクローズドのメディア型コミュニティみたいなものは、今ものすごく求められているなと思います。

以前も書いた「Wasei Salonは、普段は立ち止まらないところで立ち止まってみる営み」というのは、逆に言えば「本来立ち止まるべきところを、何食わぬ顔して通り過ぎる営み」とも言えるわけですから。

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言論における批評みたいなものが全く機能しない現代においては、このようなコミュニティ活動、別世における批評的な行動を行うしかないと僕は思っています。

もちろん、あくまでそれは「別世である」という認識も同時に大事で、実社会の中での生きる糧になっていくことも非常に重要です。

なかなかに伝わらない話だと思うけれど、今あらためて大事な観点だなと思ったので、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんいとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。