僕たちは日々、大小さまざまな葛藤を抱えながら生きているわけですが、多くの人は葛藤を「避けるべき苦しみ」だと捉えがちだなあと思います。

自分の中にできるだけ葛藤ない状態で生きることが望ましいとされていて、計画通りに物事が進むことが良いことのように思われている。そんな印象を強く受けます。

特に若い人たちほど、そのように思いがち。実際、僕自身も20代のころはそのように考えて、どうやって世の中をハックして、葛藤など一切なく最短距離を突っ走ろうかと毎日のように考えていたような気がします。

そして、その浅はかな状態で作り出した事業計画書のような人生計画が、人生そのものだと捉えて、なるべく透明性が高く、実現可能性も高く、先行きが明快なことが正しい人生の歩み方だと思っていました。

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だけども、いつも語っていることではあるのですが、「物語」というのは、そんな平穏無事で平和な日常からは生まれてこない。

むしろ葛藤こそが、自らの人生という物語を豊かにしてくれて、想像もつかなかった人生へと深めてくれる源泉なのではないかと思っています。

僕らはそうやって、葛藤の中にこそ問いを立て、成長し、他者と出会う契機を見出していくはずなんですよね、本当は。

そのことを再認識してみたなあと、最近はあらためて強く思います。

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たとえば、この点に関連して、数年前に読んだ仏教関連の本の中に書かれてあって、今でも忘れられない一節がありまして。

それが一体どんな内容だったかと言えば、

「世の中には、霧がかかってモヤのようになり、それゆえにその先が見えにくい『わからなさ』もあれば、一方で突き抜けた青空のように透明で、それゆえに底が知れない『わからなさ』もある」というようなお話でした。

この視点は、僕たちの葛藤に対する捉え方を考えるうえで、非常に重要な視点を与えてくれているなあと思うのです。

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多くの人は「わからなさ=霧・モヤ」のイメージを持つため、葛藤が生まれると途端に不安に感じてしまう。

そうやって、先の見えない状況に直面すると、足止めをされて、先が見えない状態に恐れを抱き、時にはそんな不安から逃げ出そうとしてしまうわけですよね。

しかし、もう一つの「青空のような透き通ったわからなさ」があることを意識すれば、葛藤に対する見方も大きく変わってくると思うのです。

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だから、葛藤を考えるときにも、この「青空のようなわからなさ」のほうを大事にしてみたい。

それぐらい葛藤の中には、単に混乱を生むものではなく、むしろ深い透明な広がりを感じさせるものがあるなあと僕は思うのです。

そして、そこから個人の物語が始まっていき、そのひとの「人となり」を形成していくはずなのです。

これは以前も確かこのブログでご紹介したことがあるけれど、『昔話の深層    ユング心理学とグリム童話』という本の中で、河合隼雄さんは以下のようなことを書かれていました。

両者の葛藤のなかに身をおいて正面からとり組んでゆくと、その人なりの第三の道がひらけてくるものである。 ここで「その人なりの」という表現をしたとき、これはまさに「人となり」という言葉につながるものである。つまり、両者の葛藤にもまれることにより、そこには他人の真似ることのできないその人の個性ができあがってゆくのである。


こちらも、非常に納得感のあるお話ですよね。

だからこそ僕は、お互いの葛藤を受け入れ合いながら、それぞれの「人となり」を尊重しつつも、共に青空を眺められるような、そうやって問い続けられる空間が大事だなあ思うし、つくっていきたいなあとも思う。

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じゃあ、そもそも葛藤とは一体何なのか。

それを突き詰めていくと、僕たちがどのように世界を認識しているのか、根本的な対立に行き着くと思うので、合わせてこの場で考えてみたいなと思います。

で、これは基本的には「独断論」と「相対主義」の対立なんだと思います。

今夜、Wasei Salonの中で読書会が開催される西研さんの『哲学は対話する: プラトン、フッサールの〈共通了解をつくる方法〉』にも、この話が詳しく書かれてありました。

この点、まず相対主義のスタンスは「唯一の真理など存在せず、認識は主観や文化によって異なる」と主張するわけです。

一方で独断論は「客観世界は存在し、真なる認識はありうる」と考えるような立場。絶対の正義や絶対の真理が存在し、自分はソレに従っているんだから正しいんだという考え方。

20世紀のポストモダンの哲学においては、言語や社会関係を重視する流れの中で相対主義が優勢となったわけですが、しかし相対主義には同時に重大な弱点があると、本書の中では書かれてありました。

それは一体何かと言えば、「私たちは何を共有し、どう生きていけばよいのか?」という問いに対して、答えを出せなくなってしまうことだと書かれてありました。

先日もご紹介した、橘玲さんの話で言えば、すべてを相対化してしまうと「社会が液状化してしまう」というあの話です。


だからこそみんな、葛藤の中で苦しんでしまう。

どれも正しそうに思えるし、何が正しいかもわからないし、一方で、独断論で突き進む人たちが様々な経済的な成果もあげていて、なんなら、ロシアやアメリカや大統領にまでなってしまうわけですから。

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で、ここで、少し話が逸れるのですが、最近読んでいた社会学者・大澤真幸さんの本が、今日の話を考えるうえでも参考になるなあと思いました。

大澤さんは『逆説の古典』という書籍の中で、ロールズの『正義論』の解説を書かれていて、ロールズのあの「無知のヴェール」の話について触れていました。

ちなみに、無知のヴェールとは「人が自分の社会的地位や能力を知らない状態で、正義を考えるべきだ」というような立場です。

でも、この考え方には明快な批判もあり、共同体主義者からは「人は自分がどこに所属しているかを知っていなければ、何が自分にとって望ましいのかを判断できない」といわれてしまうわけです。

実際、僕自身もその通りだよなあと思っていたのですが、この点について、大澤真幸さんは興味深いコメントを残していました。僕は、初めて有効な反駁を見た気がします。

具体的には、人は特定の共同体に所属していたとしても、その共同体を超えて普遍的な正義を求める。本来、人間とは、自分の共同体だけでなく、その外の人々の苦しみにも心を痛める存在であるのだ、と。

つまり、共同体は、自分たちの内輪の論理だけで動くものでは決してない。むしろ、その外部の世界と、どのように関わるかが重要であるということです。

僕は、この話がなんだかとても腑に落ちた。

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でも、だからこそ逆説的なんですが、このことに気づくためには、一度コミュニティに所属するということも、同時に大切になるわけですよね。

コミュニティ内で対話を重ねることで、それは公共的な場面での知恵にもつながっていく。共同体内で深く探求することで、内側の論理だけでなく、外部への視座を広げていくことにも通じていく。

閉じることで、開かれていく。開かれるためには閉じるタイミングも必要であるのだと。

この往復のプロセスこそが、葛藤を乗り越えるカギでもあり、よりよい未来を築いていくための指針となるのではないかと、僕は思うのです。

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最後は少し複雑な話になってしまって、まったくうまく伝えられている自信はないのですが、きっとこれも僕自身のわからなさであり、葛藤そのものなんだろうなあと思います。

伝えたい感覚は明確にあっても、まったくうまく言葉にすることができない。

でも、このあたりの矛盾や葛藤についても引き続き考えていきたいなと思うし、諦めずに伝えようと努力してみたいなとも思います。

そして、Wasei Salonという場も、そのような葛藤、うまく言葉にはできないけれど、自分の中にある感覚を、素直に書き綴ってみよう、下手でもいいから、ってそれぞれに思える共同体でありたいなあと思う。

まさに、開くために閉じる。閉じながらも開いていく。そんな葛藤や矛盾を含んだ共同体として、です。

なにはともあれ、今日のブログで、少なくとも青空のような透き通った「わからなさ」から生まれる葛藤があることぐらいは、ぜひ伝わっていたら嬉しいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。