グローバル経済や、テックを中心に新しい産業にドンドンと移り変わるなかで「社員を解雇せず、リストラを恥だと思っていた日本企業は、間違っていた」というのは、ここ数年本当によく語られる話です。

企業の新陳代謝を優先せずに、日本は経済効率を犠牲にしてまでも「雇用を優先した、だからデフレ化して、失われた30年に突入したのだと。

でも「誰の首も切らない、辞めさせない」それが間違っている訳じゃないと僕は思います。

むしろ、それはそれでひとつの倫理観だし、尊いことだと僕は思う。

じゃあ、一体何が問題だったのかと言えば、問題は、その倫理を“市場”の中で貫こうとしたこと。

それを市場経済の中で行ってしまうとグローバル経済、テクノロジーやITなど進化の激しい業界においては、ことごとく負け戦になってしまったということだと思います。

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で、これは別の視点から眺めると、会社が、コミュニティ機能までを担っていたと言えるはず。それが日本企業の強みでもあり、弱みでもあったということですよね。

高度経済成長期のように、ルールが単純明白なタイミングでは家族型経営は強かった。でも、ドラスティックな変化が起き続けるタイミングにおいては「誰の首も切らない」という決断は、あきらかに競争優位性が下がってしまうことにつながってしまった。

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この点、最近、読み終えた齋藤ジンさんの『世界秩序が変わるとき 新自由主義からのゲームチェンジ』という本にも似たようなことが書かれてありました。

ちなみにこの本は「ソロスを大儲けさせた伝説のコンサル初の著書」という帯文が非常に目立ち、いまどこの書店にいっても平積みされている書籍です。

この本の中でも、だいぶ皮肉めいた言い方で「失われた30年は、既存雇用を守るためには大成功。それが経済成長を犠牲にしたことが問題だったのだ」と語られていました。

これは本当にそのとおりだなあと思います。このあたりの問題意識を、再度しっかりと認識したい、そしてこれから世界はどう変化するのかを見通したいと思ったら、この本はとても参考になるかと思います。

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で、だとしたら真の問題は、日本人が何を大事にしたい国民なのかをしっかりと把握することなんだろうなと思います。

そして、その倫理を守る空間を、グローバル経済で産業がドンドンと移り変わっていく形で、「会社」や「企業」とは異なる形態でつくらないといけないと思うのです。

さもないと、グローバル社会で、変化が激しい時代には、アメリカのような解雇をものともしない、なんなら解雇や労働者の流動性こそが国家の新陳代謝を促し、経済の成長発展に期すると思っている国に、これからもひたすらに負け続けてしまう。

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ただ、このあたりで新たに生まれてくる疑問は、なぜ30年もかかったのか、です、

問いの語り口を変えると、なぜそれでも30年もの長きの間、日本の企業は生き残ってこれたのか、だと思います。

それはきっと、なんやかんやで「労働力」としての人間は、それでも必要だったから、なのではないでしょうか。

良くも悪くも、その「目先の労働力の必要性」が存在した。手を動かしている人間、そんなある種の「社内の儀式のためのにぎわい要員」というニーズで、ギリギリまでお茶を濁して曖昧にすることができてしまった。

「社員は目先の労働力として大切なんだ!」ということも、ある程度の説得力を持って、言えてしまっていたのだと思うのですよね。それがたとえブルシット・ジョブだったとしても、です。

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でももはや、それももう無理なわけですよね。

なぜなら、24時間働いてくれる人間以上に優秀なAIの登場してしまったから。しかも、AIは人間よりも、ずっと安価で雇えてしまう。

でも、これって逆に完全なチャンスだとも思うのです。

人間が、労働力としても不要となることが決定したわけだから。儀式のにぎわいを生み出すための労働力、そのロジックに正当性がなくなるというわけでもある。

ここまでくると、否応なしに本当に限られた人員まで削らなければいけない。

これは人体に喩えると、余分な贅肉でさえも寒さの中では、ある程度は必要みたいな話だったけれど、室内暮らし、温室暮らしが当たり前になった人間には、もうその論理は通用しない。

それよりも、体脂肪率を極限まで下げて、バキバキに鍛え上げたほうが合理的だろうという話になる。

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で、僕の最近の一貫した主張は、だから「コミュニティ」側のほうをつくろうということなんです。

そうすると、コミュニティ側で「首を切る」という概念が存しない「居場所」をつくりだせば、逆説的に、企業の新陳代謝が捗るし、経済成長と新産業に注力できるから。

つまり、居場所としての価値を会社から切り離すことができる。そうすれば、いくらでもドラスティックに会社を改革することができる。

だって、もはや誰もそこに(つまり企業や会社のほうに)、自己のアイデンティティはおいていないわけだから。経済原理に従って、粛々と合理的な判断が可能となる。

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日本の失われた30年の真の問題点は「雇用を守る」と「居場所を守る」を峻別せずに、両方適当にお茶を濁そうとしてきたことであり、これまではここが一緒くたに語られてしまったことが一番の敗因だと僕は思う。

だとしたら、居場所のほうを守るための、コミュニティ側の復活が必要不可欠。

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で、現代の問題点は、その居場所意識だったり、自らのアイデンティティの拠りどころだったりを、すべて「推し活」に全振りしすぎていることだと思います。

逆に言えば、このような社会的な背景があるから「推し活」がここまで幅を利かせている一番の原因でもあると、僕は思います。

昔は、「推し活」は一部のオタクたちのものだった。自分には居場所がないと思っていたマイノリティのひとたちのものだったというわけです。

でも今は、みんなが当時のオタクや引きこもりと同様に「自分の居場所がない」と思うから、推し活という、小さな「セカイ」に入り込んでいるとも言えそうです。

国民の大部分が、引きこもり型のマイノリティになったとも見ることができる。

地域コミュニティや大企業、学校も未だに存在はしているけれど、その魂は抜かれて、完全に形骸化してしまった。

その幻想はただの幻想であって、この先の未来はない幻想であることもバレてしまった。

言い方を変えれば、その形式的価値、肩書的価値だけが存在し、もうそれぞれの自己のアイデンティティを付託するための器としての役割、そんな居場所にはまったくなっていないということ。

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そして、全員が必然的に、水が高いところから低いところに流れるように、推し活になびいてしまった。でもそれは良くないと思います。

そうすると結局、搾取構造になる。ビジネスだから、依存しているやつから絞れるだけ絞り取れと、なる。そこにひずみが生まれてしまう。

それはキャバクラとかホストと変わらない搾取構造。

そして、もちろん、舞台に立っている演者が、いちばんの搾取対象者でもあるわけです。日本はいつもそうやって舞台上の人間を、巫女やシャーマンみたいにしてしまう。

日本はいつも、舞台の上の演者を生贄として捧げてしまう、生贄文化。

そうじゃなくて、全員がお互いに依存体質を脱却しようと、自立を支援し合うこと。大事なのは、その勇気づけと励まし合う機能をもった共同体の存在だと思います。

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そして何よりも、自分が他者の「役に立っている」と実感できることが大事だと思います。

「助けられているようで、助けられているのが良い支援。」という抱樸・奥田さんの言葉がまさに物語っている。


何よりもそんな「自己効力感」が本来は必要。

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この点、たまたま僕らは、消費社会全盛期を生きてきたから、「お金」という何にでも形を変えられるもの、他人の生産物をいくらでも自由に購入できることが、幸せで恵まれた生き方だと思っている。

いつだって、カネさえ払えば、欲しいものが欲しい分だけ手に入る状態を幸せなことだと誤解してしまっている。

でも本当は、そんな無限に消費できる状態よりも、細々とでもいいから、何かを自らの手で生産し、それを他者に提供し、喜ばれることのほうが圧倒的に充実感は大きいはず。

そして、その立場、具体的には「生産者と消費者という関係性がお互いに頻繁にスイッチし、風通し良く健やかに循環していること」が、一番大事だと思います。

「助けられているようで、助けているのが良い支援」というのはまさにそういう意味合いだと僕は捉えています。

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この両者のスイッチが、お互いに無理のない形で続いていることが大事。

逆に言うと、地域コミュニティや商店街的なつながり、宗教や中間共同体というのは、常にこのスイッチが存在していたし、それが前提となっていたはず。

というか、宗教はそのために存在していたと言っても過言ではない。

でも、今の日本で宗教の復活は、無理筋です。

だとしたら、やっぱりコミュニティなんだろうなあと。

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ビジネスとしての搾取構造に引き込まない、引き込まれないためのコミュニティの価値。

それが生まれれば、逆説的に、自然と日本のビジネスも復活し、加速をしていく。

そのための受け皿を作ろう。地域コミュニティでもなく、大企業の終身雇用でもなく、カルト宗教や政治の新党などにも回収されない、自立を促すコミュニティ。

そんなことが今とても大事なことだと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。