キングコング西野さんが、約10年前に僕が書いたブログ記事をご自身のVoicyの中でご紹介してくれました。
ここで言及してくださっている記事は【有料課金モデルで高めるべきは、コンテンツの「クオリティ」ではなく受け手側との「距離感」】という記事になります。
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西野さんは、このブログが公開された当時も、ご自身のSNSやブログの中でこの話を何度も取り上げてくださって、当時出版されていた西野さんの書籍『魔法のコンパス』という書籍の中でも丁寧にご紹介してくれていました。それだけでも本当にありがたかったです。
今回も、Voicyのタイトルを見て、すぐに「あっ、あの話だ!」と思って聴き始めたら、10年経っても、いまだにちゃんと引用元が「隠居系男子」であるということを紹介してくれいて、それが本当にすごいなと思いました。
この10年のあいだで生まれてきた「プロセス・エコノミー」という概念もそうだし、「一対Nではなく、一対一をN回繰り返すほうがいい」という話もそうだし、その後、西野さんはご自身の活動や事業の中で、書き手の僕以上にこのやり方を実践・踏襲されていて、もう西野さんご本人の言葉として語ってくれてもいいはずなのに、それでも未だにたった1本のブログ記事を大事にしてくれている。
その敬意の払い方がハンパないなと。
改めて、西野さんの成功要因って、こういう誰もが軽視しがちなところを実直に行うところあるんだろうあなと思わされましたし、ちゃんと見習いたいなとも思いました。
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で、今日は、せっかくこのタイミングで西野さんが改めてご紹介してくださったので、僕のほうからもこの内容について改めて、このブログの中でもご紹介したい。
そして、このブログ記事を書いてから10年経過した今、さらに思うこと。
今の僕の問題意識や、これからは何がより一層重要になると思っているのかを書いてみたいと思います。
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まず、10年前に僕が書いた記事の内容を簡単にご紹介すると、有料noteやオンラインサロンが勃興してくると、作り手は「無料のものより高品質なコンテンツを届けなければ」と考えがちになるけれど、僕はこれを「作り手側のエゴ」ではないかと思ったんです。
そもそも、無料コンテンツで常に全力を出しているクリエイターたちが、有料会員のためだけに、さらに特別なものをゼロから作り続けるのは持続可能でもありません。
そして何より、ファンは本当に「もっとすごい限定コンテンツ」だけを願っているのか。
「自分が誰かのファンだったら」と想像したとき、その人が無理をして作った超高品質なコンテンツよりも、普段は見せない素顔に触れたり、直接コミュニケーションが取れたりする機会のほうが、嬉しかったりするのではないかと思ったのです。
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で、この考え方を最も分かりやすく体現しているのが、音楽アーティストのライブだと思います。
最高額のS席でも、一番安い立見席でも、演奏されるセットリストという「コンテンツ」は同じです。価格の違いは、アーティストとの「物理的な距離感」のほう。
さらに高額な特典として「終演後の楽屋招待」があれば、ファンは自分たちだけのために歌われるシークレットライブよりも、その「特別な距離感」を圧倒的に喜ぶはずなんです。
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とはいえ、もちろん、これはアウトプットの質を疎かにしていいという意味ではありません。そこはくれぐれも誤解しないで欲しいポイントです。
クオリティの追求は、作り手としての大前提。
当時僕が強調したかったのは、有料課金という仕組みの中でデザインすべきは「クオリティの質の高低差」ではなく、「距離感の調整」のほうなのではないか、ということです。
人によって、心地よい距離感は異なる。
だからこそ、作り手は様々な距離感のタッチポイントを用意し、ファンが自分に合った関わり方(課金ポイント)を選べるようにしておくべきだというお話でした。
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この10年前の仮説は、今でも決して間違っていなかったなと思っています。
現代では、「クリエイターエコノミー」という言葉も当たり前のように定着し、個人が自身の活動をファンから直接課金しながら収益化する手段も、驚くほど多様化しました。
だから、この考え方は数年前よりもさらに重要性を増しているように感じます。
実際、僕自身もオンラインサロンとしてのWasei Salon、Voicyのプレミアム配信、さらにより深いコミュニケーションを実現するための1on1セッションの「トリートメント」など、その距離感をそれぞれに変えながら、直接提供しているイメージです。
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で、このあたりから2025年現在の僕が考えていることにもつながってくるのですが、この10年で新たに見えてきた課題は、「距離感」の概念がそのままダイレクト「生々しさ」に直結するということ。
それは、言わずもがなYouTubeや、リアリティ・ショーの登場が大きかったと思います。
人はその「生々しさ」に対して、良くも悪くもアディクトしてしまう。それが数字でもデータでも完全に取れてしまっているのが、今のネット社会です。
当時は存在しなかった新たなSNSプラットフォームの登場が、それを見事に物語っているかと思います。
どの新興プラットフォームもコンテンツのクオリティを高めるためのものではなく、その距離感を変えることで他の既存のSNSプラットフォームに割り込んだものばかり。
具体的にはTikTokの登場や、BeRealの登場などは非常にわかりやすい。
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これは、先日の最所さんとのプレミアム配信『リアリティショーの光と闇』の中でも、かなり熱っぽくお話しましたが、今はこの部分をハックして、いくらでもファンやフォロワーをアディクトさせることができてしまう。
そして、直接課金を促し、生々しければ生々しいほどに、カンタンに荒稼ぎできてしまう。
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だとすれば、現代の真の問題は、かつてのように「どうやって今ある仕組みの中で距離感を縮めるか」ではなく、「いかにして健やかな距離感を保つか」という点だと思います。
その健やかさに対する矜持の保ち方のほうが、圧倒的に重要になってきている。
他人行儀なところから距離感を詰めつつも、決して依存させないことが大事になってきているなと思います。
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この点、先日もご紹介した「『触れるなかれ、なお近寄れ』が日本文化の核心である」という松岡正剛さんの視点は、本当に大事な視点だと思います。
松岡さんは「限りなく近くに寄って、そこに限りの余勢を残していくこと、これが和歌から技芸文化におよび、造仏から作庭におよぶ日本の技芸というものなのだ。」と『面影日本』という本の中に書かれていました。
僕も、まさにこれが日本文化の核心だと思う。
言い換えると、新しい技術が出てきたときに、ここをちゃんと設計しないと自滅するということでもあるんでしょうね。
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「邪道」はなぜ邪道だとして嫌われるのかと言えば、その理由は単純明快で、対象に対して直接触れてしまうから、です。
ベタベタと触ってしまう。触るだけなら良いけれど、その柔らかくて脆い核心部分をその手で壊してしまう。
「それをやったら、おしまいよ」ということを、普通に土足で踏み込んでしまう。だからこそ邪道と呼ばれるわけです。
逆に言うと、王道や保守の細かなルールや複雑な仕組みというのは、その本質部分を壊さないために張り巡らされたある種の結界でもあるわけです。
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だとすれば「限りなく近づきつつも、一番大事なところは触れさせない」ということがめちゃくちゃ大事になってくる。
ここが「嘘も方便」として機能するかどうか、つまり距離感を詰めるときに許されるやり方なのか否かの分かれ道でもあるということですよね。
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たとえば、今、大河ドラマで蔦屋重三郎の物語が放送されているから、すごくわかりやすいと思うのですが、当時の江戸の吉原とかも、それが徹底して考え抜かれていたことはよく分かる。
もっとわかりやすく言い換えると、あえて一度「道」における「王道」からは外れて、「邪道」を通る。でも、一方で邪道にもとどまらない。
触れさせすぎることはダメで、その矜持に品性や品格が立ちあらわれてくる。
江戸の吉原や、京都の祇園の文化のすごさは、そこにあったのだと思います。
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手が切れそうになるほど、すぐれた芸事や技芸は、観ている側の自他の境界線を曖昧にしてしまう。
観る側や受け取る側の節度も同時に求められる。それを高めるから「本当に到達したかった本質や真理」に、お互いがより近づけるという状況も生まれてくる。
映画『国宝』の中でも、主人公がまつろわぬ民として、全国を放浪している際に、距離感を誤った宴会客の男性と揉めるシーンがある。アレとかは、本当にこのジレンマを見事に表しているなと感じます。
だとすれば、同時に必要なのは、受け取り方、その節度の話。
お互いの敬意と配慮と親切心、親しき仲にも礼儀あり。そこが同時に成立していることが必須であると僕は思います。
親密さを育みながらも、そこに互いのリスペクトという名の「文化的な障壁」を同時に築くこと。これが、これからの作り手がファンやフォロワーと共に目指すべき姿なのだと思います。
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さもないと、何でもかんでも「ことなかれ主義」的になってしまう。今のテレビや新聞のようにコンプライアンスだらけになる。
一方で、その反対側に振り切って、迷惑系YouTuberや、何もかも垂れ流そう距離感をゼロにしようというような、あけすけな態度が生まれてくる。現代の歌舞伎町なんかがとてもわかりやすい。
どっちも大事なものを完全に見失っているような状態です。
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あと最後に、漠然とですが「友だち」とは何かも、今の僕は気になります。
僕は10年前の記事の最後に、この距離感を詰めるとは「お客さん」から「友だち」になることを目指すことにつながると書いたのですが、なんだか自分が自分の言葉にハッとさせられました。
最近、河合隼雄さんの『大人の友情』を読んだから、なおのこと、この部分は考えてしまう。
友だちは、踏み込まないこと、踏み込みすぎないことが、友だちとしてものすごく大事な要素になる。
とはいえ、同時に土足で踏み込むこと、踏み込みすぎてくれることに、友だちに信頼感を感じるときもある。
ここにもまた、僕らが明確に大切にするべき「アンビバレントな何か」が存在しているなと思います。
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何はともあれ、わかりやすい正解はない。
形式的に、どっちかに振り切ればいいというわけでは決してない。
本当に大事なことは、到達したい場所にしっかりと到達することを目指すための「距離感」。
現代は、猫も杓子も、カネに目をくらんで、ベタベタと触ることが正解となってしまっている。
そして、そのための課金できるプラットフォームや、そのための距離感を、それこそ0.01ミリ単位で調整できるサービスが世の中には溢れている。
そして、それを使って自らを「商品化」すれば、いともカンタンに大金が稼げてしまう。
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でも、そんな時代だからこそ、いま大事な視点はむしろ、こちら側ある。
「触れるなかれ、なお近寄れ」、嘘も方便的に本当に到達したい本質へと両者を導くこと。
これもまた、10年後ぐらい先に、答え合わせになるかと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/07/10 16:05