最近、Substackをさわりながら、ずっと考えていることがあります。
Substackでは単に「いい記事を書く」だけでは、きっと足りないのだろうなあと。
もちろん、いい記事を書くことは大前提。
ただ、きっとそれだけでは足りなくて、その人が誰の記事を読んでいるのか、誰をおすすめしているのか、そういうものまで全部ひっくるめて、その人の文章が読まれていく場所になっていくのだと思います。
今日は改めてそんなお話をこのブログでも書いてみたいなと思います。
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この点、Substackには、購読しているニュースレターやおすすめしている書き手が、けっこうはっきり見える仕組みがある。
そして、ここの部分のアルゴリズムが、なぜか非常に強い。(ここポイント)
つまり、その人の文章だけではなくて、その人の「読んでいるもの」もまた、そのひとのコンテンツそのものなんです。
これって、考えてみるとなかなかにおもしろい設計なんですよね。
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なぜかというと、購読欄というのは、ある意味でその人の「本棚」みたいなものだから、です。
どんな本を並べているかで、その人の輪郭がうっすら見えてしまうように、どんな書き手を読んでいるかで、その人がどんな文脈を大切にしているのかが、ハッキリと見えてしまう。
あるいは、それは交友録のようでもあり、その人自身の思想地図のようでもある。
「この人は、こういう人たちの言葉を読んでいる人なんだなあ」「こういう界隈の中で、自分の言葉を育てている人なんだなあ」と、文章を読みながら、同時にうっすらと見えてくる感じがあります。そしてSubstackは、それを一番重視している印象を強く受けます。
でも、それも当然で、どれだけ信頼に値する美しい文章を書いているひとであっても、人様を搾取するようなコンテンツに日常的に触れていたり、購読していたりしたら、その瞬間に大抵の場合、ガクッと相手への信頼が堕ちるわけですから、当然と言えば当然です。
そのひとが表向きにどんな美文を書いているかよりも、そのひとの本棚にこそ、そのひとの人格が宿ると見抜いたうえでの設計です。
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そして、Substackの「おすすめ」は、それよりもさらに強い意味を持っているはずです。
つまり、おすすめは、ただの紹介の導線じゃないんですよね。Substackにおけるおすすめは、明らかに「自分側のコンテンツ」なんです。
他者をオススメしているんじゃなくて、自分が生み出したコンテンツと同類のはず。
で、この仕組み自体は、たぶん、いいものです。
特にAI時代には、文章単体の出来栄えはどんどん均質化していくはず。読みやすい文章、わかりやすい文章、そういうものは、これからいくらでも量産されていく。
だからこそ、その文章がどんな文脈から生まれているのか。どんな関係性の中でその言葉が育まれてきたのか、という前提がますます大事になってくる気がします。
これは昔からずっと言われていることですが、コンテンツは単体ではなく「群れ」でこそ価値を持ちはじめる。
その「群れ」の形成の仕方こそが重要。
Substackは、そんな古くて新しいコンテンツ論が、また再び復興してきているように感じるのです。
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ただし、ここには同時に大きな危うさもあるよなあと感じていて。
「この人を読んでいるなら仲間であり、読んでいないなら敵」という判定が容易に行われてしまい、おすすめしているなら同じ陣営だけれど、触れていないなら信頼できない相手だとなってしまいがち。
そんなふうに、本来は自由であるはずの本棚が、いつの間にか所属証明になってしまう危うさがある。
つまり、おすすめが紹介ではなくて、忠誠のサインのようになっていくわけですよね。
そして人間は、もともと必ず群れる生き物なんです。これはもう、どうしようもないことなんだと思います。群れること自体が悪いわけではない。
むしろ、群れることのなかにこそ、人間の豊かさがあるとも言える。
でも、群れというのは、丁寧な手入れを怠ると、すぐに党派的になっていく。
気がつけばヘルメットをかぶり、ゲバ棒を持ち、同じスローガンを叫び始めている。もちろんこれは比喩としてですが、ネットではこれとよく似たことが、わりと普通に起きているなあと感じます。
最初はただ同じものが好きだったり、違和感を感じたりするだけだったのに、それがいつの間にか、敵と味方を分ける分水嶺になっていく。
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ただ、ここまではまだ外側から見られているときの話なんですよね。
他者からのまなざしによって、本棚が「踏み絵」に変わってしまう、という非常にわかりやすい話。
でも、本当に怖いのは、たぶんその先にあって。
外から見られているうちに、いつの間にか、自分のほうがその見られ方を無意識に操作し始めることなんですよね。
「この人を購読しておかないと、外されてしまうかもしれない…」とか「この人をおすすめしておかないと、評価が下がるかもしれない…」とかそんな不安や恐れから、自分の本棚を他人のまなざしに合わせて、少しずつ意図的に編集し始めてしまう。
そして気づいたときには、自分が本当は何を読みたかったのか、誰をオススメしたかったのかが、自分でもよくわからなくなってしまう。
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そうなってくると、その群れはいつしか『イン・ザ・メガチャーチ』の「チャーチ」のようなものになっていきます。
ここで言いたいのは、もちろん特定の宗教を批判したいわけじゃなくて、インターネット上の群れが、しばしばそうやって疑似宗教的なふるまいを始めてしまうということです。
「この群れに入れば、あなたの不安や孤独はなくなりますよ」までならまだしも、「この陣営に属せば、あなたの発信は伸びますよ、そして何より稼げますよ」と、やさしい顔をして近づいてくる。
それはどこか、『モモ』に出てくる灰色の男たちのようでもある。あるいは、「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造のようでもある。
「あなたの心とお財布のスキマを、この界隈が埋めてあげますよ」と。
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最初は、自分の不安や孤独をほんの少しだけ埋めてもらうつもりだったはずです。
もしくは、ちょっとだけ副業で稼げればいいつもりだった。
けれども気づけば、自分の言葉が、その群れの言葉に完全に染め上げられてしまっている状態になる。自分で考えているつもりが、いつの間にか、その陣営の正義を代弁するエバンジェリストになってしまっている。
そんな主婦やサラリーマンたちを、僕は何人も観てきました。使っている語彙も、敵の設定の仕方なんかも、どこかで見たことのあるものになっている。
で、今のインターネットで真に起きている本当の戦いは、たぶんこの「布教合戦」なんだと思うんですよね。
いかに自分たちの陣営の言葉を、他人の口(他人のアカウント)から語らせるか。
いかに自分たちの思想を、自分たちの正義を、他人のタイムライン上でそれが自分の信念であるかのようにして流してもらうか。
そういうゲームに、ネット全体がうっすら染まりつつあるなあと感じます。
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そして、今のXをはじめとしたSNSは、この布教合戦をかなり増幅しやすい場所になっているように感じます。
人間はもともと群れをなす生き物だから、この欲望には逆らえない。Xはそれを完全に理解し、逆手に取っているわけです。
そうやって、本人にそのつもりがなくても、いつの間にかネットデモの隊列のようなものに、無意識のうちに並ばされてしまう。
それがまさにエコーチェンバー現象ですし、これは、なかなか怖いことだなあと思うんですよね。
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では、人間は群れないほうがいいのかと言われると、たぶんそうじゃない。
そうやって一匹狼を貫こうとするひともいるけれど、それはそれで、僕は強い違和感がある。
このあたりは非常にややこしくて、めんどうくさくてホントごめんなさい、って思います。
ただ、ここでも考えたいことは、やっぱり裏の裏。
人間は、どうしたって群れる生き物なんです。誰かと同じものを読みたいし、誰かと同じ問いを抱えていたいし、誰かと「そうだよね」と言い合いたい生き物であることは致し方ない。
それは人間の弱さでもあるけれど、同時に生きることの豊かさそのものでもあるわけです。
だから大事なのは、群れないことじゃなくて、どのように群れるか、なんですよね。
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ここで思い出すのが、以前ブログにも書いた、河合隼雄さんの『大人の友情』に出てくる「茶呑み友だち」という言葉です。
茶呑み友だち。この言葉が僕は本当に好きで。
それは、激しい関係じゃない。一緒に怒るわけでもないし、一緒に叫ぶわけでもなく、ただただ、お茶を飲むだけ。
ときどき会って、お互いの近況を話す。無理に同意はしないし、相手の人生に踏み込みすぎない。
でも、その人が何を大切にしているのかは、ちゃんと理解して、そこに敬意を払い、お互いの安寧を素直に願い合える関係性。
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一方で、激しい連帯は、もっとわかりやすいんですよね。
一緒に戦うし、一緒に稼ごうとする。それはそれで美しい瞬間もあるし、若いころにはそういう血気盛んな関係性にこそ救われることもある。
でも、人生のすべてをその激しさの中で生きるのは、やっぱりちょっとしんどいわけです。一方で、茶呑み友だち的な連帯は、もっと静か。
でもそれは、決して弱いというわけじゃない。むしろ、深さがあり、激しさではなく、抑制によってこそ、互いの信頼関係が深まっていく関係性だと思います。
この「群れずに、群れたい」の感覚を僕に教えてくれたのが、Wasei Salonメンバーでもある木津さんで、先日木津さんのお住まいの金沢にお邪魔してきて、改めてこの感覚を味わいました。
まさに茶呑み友だち的に交流できました。
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もちろん、今日の話はかなりの理想論だということは、この文章を書きながら強く自覚はしています。
Substackだって、悪用しようと思えばいくらでも悪用できる。購読欄やオススメ欄は、必ず踏み絵になる。
「この群れに入れば読まれるようになるし、この文脈に属しているように見せれば、あなたも得をする」と言える構造をつくって、そこに勧誘することは容易だし、Substackを伸ばしたくなったら、どうしたってそこをハックするのが一番ですからね。
そういう発想は必ず出てくる。というか、たぶんもう出てきてしまっている。
正直なところを言えば、Substackもまた、いつもと同じ道をたどるのかもしれない、という予感もあります。
古き良きTwitterが、同様にハックされて今のXになったように、です。
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それでも、まだそうなる前の時間が残されているのなら、その時間のあいだは、少しだけ丁寧に手入れをしてみてもいいのかもしれない、と思うのです。
群れないことを目指すんじゃなくて、群れ方のほうを手入れする。
無意識に隊列を組まないように、チャーチをつくらないように、踏み絵を踏ませないように、ひとつひとつの所作を自分の中で大切にしてみる。FOMOに煽られずに、一息ついてみることの重要性です。
群れを大切にすることと、群れに魂を明け渡すことは、完全に似て非なるもの。
このあたりの境目を、何度でも繰り返し自分のなかで確認し直していくしかないのだろうなあと思います。
そんなことを、最近Substackを触りながら、ぼんやりと考えています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/05/26 14:12
Substackでも、群れずに、群れたい。
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