最近、自分の中でずっと「勇気」という言葉が残り続けています。
先日も、東畑開人さんと鏡リュウジさんの対話本『昼間のスターゲイザー 占いと心理学の対話』を読んでいて、東畑さんの「勇気は、出すものではなく、もらうもの」という言葉に強く心を動かされました。
そのとき僕は、勇気というものは、自分の内側から気合いでひねり出すものではないのだと思ったんですよね。
誰かの言葉や、物語や、共同体の中で誰かが小さく踏み出す姿に触れることで、不意に手渡されるもの。自分ひとりではどうしても動けなかった身体が、誰かの身振りに触れたあとで、ほんの少しだけ動き出す。
そういう意味で、勇気とは、出すものというより、もらうものなのではないか。そんなことを、以前のブログにも書きました。
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でも、そのあともずっと、自分の中で「勇気」という言葉が残り続けていた。
そんなときに、たまたま『100分de名著』のウィトゲンシュタインの回を観ていて、「勇気」という言葉が流れてきました。
思想に値札をつけることができるだろう。ある思想の値段は高く、ある思想の値段は安い。さて思想の代金は何によって支払われるのか。勇気によって、と私は思っている。
番組内の朗読で、これを聞いた瞬間にかなり衝撃を受けたんですよね。
なぜなら、自分の中で「勇気はもらうもの」という感覚がようやく少し言葉になり始めていたところに、今度は「思想の代金は、勇気で支払われる」という言葉が、突然飛び込んできたからです。
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では、勇気は、もらうものなのか。それとも、支払うものなのか。
一見すると、少し反対のことを言っているようにも見えるから問題となる。
でも、よくよく考えてみると、これはまったく矛盾していないのかもしれない。むしろ、順番の話なのではないか、と。
人はまず、誰かから勇気をもらう。物語から、他者から、共同体から、先人の身振りから、勇気のようなものを受け取る。
でも、受け取った勇気は、ただ自分の中に飾っておくためにあるわけではないんですよね。
いつかどこかで、その勇気を使って、何かを引き受けなければならない場面がやってくる。そして、その引き受ける場面において、勇気は支払われる。
つまり、勇気は、もらうものでもあり、それを使って支払うものでもある。そして、他者からもらった相続した勇気で、思想の代金を支払っていくのではないか、と。
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それにしても、なぜウィトゲンシュタインはここで「勇気」と言ったのか。
そこが、僕にはとてもおもしろく感じられました。
僕の勝手なイメージとしてウィトゲンシュタインは、もっと理知的で、厳格な癇癪持ちのような人間。
だからこそ、彼が「思想の代金は勇気によって支払われる」と語っていることに、妙に胸を打たれたのだと思います。
いちばん勇気というふフワッとした単語を毛嫌いしそうで、縁遠いひとに思えたから。
また、普通なら、思想の代金は「知性」によって支払われると言いたくなる。でも、ウィトゲンシュタインは、そこで「勇気」と言うんですよね。
思想を受け取るために必要なのは、頭の良さだけではない。むしろ、その思想に自分自身を変えられてしまうことを引き受ける勇気なのだ、と。
そこに、なんとも言えない味わい深さを感じました。
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つまり、思想というものは、「わかる」だけなら、実はそこまで高くないのかもしれません。
たとえば、「人を雑に扱ってはいけない」という思想がある。あるいは、「他者に敬意を持つべきだ」という思想がある。
「わからないものを、わからないまま尊重する必要がある」という思想なんかもある。
これらは、言葉として理解するだけなら、そんなに難しいことではないんですよね。誰でも「それは、そうだよね。大事なことだと思う」と言えてしまう。
でも、それを本当に受け取ろうとすると、途端に難しくなる。
なぜなら、その思想を本当に受け取った瞬間に、自分が普段どれだけ人を乱雑に扱っているのかを見なければならなくなるから。
そんな目を背けたい現実が、一気に自分の前に立ち上がってきてしまう。
その瞬間に、その思想は急に高くなるんですよね。
つまり、思想の値段とは、その思想の難解さではないということです。本当に高い思想とは、それを受け取ったときに、自分の生き方や態度や見方が変わってしまうような思想のことなのだと思います。
そして、その変化を引き受けるために必要になるものが、勇気なのではないか。
『自省録』を書いたマルクス・アウレリウスの言葉「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ。」なんて、まさにこのことを皮肉めいた形で、彼が彼自身に問いかけていることでもあるわけです。
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だから、ここで言われている勇気は、目立つことを言う勇気ではない。
炎上覚悟で本音を言う勇気でもない。大勢に逆らって、強い主張をする勇気でもない。
もちろん、そういう勇気もあるのだとは思います。でも、ウィトゲンシュタインがここで言っている勇気は、もっと静かなもののように感じるんですよね。
自分がこれまで正しいと思っていた見方が、もしかしたら間違っていたかもしれないと認める勇気。自分が当たり前だと思っていた世界の見方を、少しだけ手放してみる勇気。
その思想によって、自分の生活や言葉遣いや人との関わり方が変わってしまうことを受け入れる勇気。
たぶん、それは、とても地味な勇気なんです。
外から見ても、ほとんどわからないかもしれない。でも本人にとっては、ものすごく怖いこと。なぜなら、それは自分がこれまで築いてきた世界の見方を、一度揺らすことだから。
まさに、先日の「体力がない」と言い訳し続ける話と同様で、自分の中の何かを一度ぶっ壊してみる作業にほかならないわけです。
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そう考えると、現代においてこの言葉は、ますます重みを増しているようにも感じます。
今は、思想を知ること自体は、ほんとうに簡単になりました。AIに聞けば、ウィトゲンシュタインの思想だって一瞬で、誰にでもわかりやすいレベルに落とし込んで要約してくれる。
だから、思想を「知る」ことのハードルは、昔に比べて圧倒的に下がっている。
でも、思想を知ることと、その思想に自らが変えられてしまうことはまったく違うんですよね。
知識として所有するだけなら、代金はほとんどかからない。引用するだけなら、安く済むし、わかったふりをするだけなら、もっと安い。
誰かの暮らしや生活に接地する生の思想に対して「自分も同じことを考えていました」と後出しジャンケンのように言うことは、ほんとうに容易い。
そしてその一言で、相手にマウントを取ることすらできてしまう、自分が実際に生活や暮らしの中で実行しているか否かは関わらず、です。
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そして、この「わかったふり」の中には、安っぽい共感も含まれるのだと思います。
「わかります」「共感しました」「本当にその通りですね」そんなふうに語ること自体は、とても簡単です。
でも、だからこそ、思想に対する本当の共感は、最終的には実行でしか示せないところがあるのではないか、と思うんですよね。
生活の中で何かが変わったときに初めて、「私はその思想に、本当の意味で共感した」と言えるのではないか。
逆に言えば、実行する気もないままに示される安っぽい共感に対して、どこか常にイライラしてしまうのは、その人が思想の「代金」を支払う気がないように見えるからなのかもしれません。
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「わかります」と言いながら、何も引き受ける気がない。「共感しました」と言いながら、その思想によって自分の態度を変える気はさらさらない。
そういう共感は、思想の前に立っているように見えて、実は何も身銭を切ることなく他者の生活に根付いている思想を、消費しているだけなのかもしれないなあ、と。
もちろん、すべての思想に対して、実行で共感を示せと言いたいわけではありません。人にはそれぞれ事情もあるし、距離の取り方もある。
ただ、少なくとも「引き受ける」ということには、必ず勇気が必要になる。その勇気を支払う気があるかどうかが、共感の深さをわける要素なのだと思います。
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その意味で、最近Substackに感じている心地よさも、この話につながっている気がしているんですよね。
Substackでは、一段深い感想をもらえることが多い。
それは単に「共感しました」という反応だけではなく、「鳥井の記事にはこう書かれているけれど、私はこう考える」という言葉がちゃんと届くからです。
一見すると、それは共感ではなく批判に見えるかもしれない。
でも、僕はむしろ、そういう「敬意ある批判」のほうに、深い共感を感じることがあるんですよね。
なぜなら、その人は、こちらの言葉をただ消費しているのではなく、自分の立場をちゃんと差し出してくれているからです。
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僕の思想に対して、自分の考えをちゃんとぶつけてくれている。それは賛同ではないかもしれない。でも、少なくとも思想の前にちゃんと立ってくれている。
そして、そのような応答には、やはり勇気がいるんですよね。
安っぽく同意するほうが、よっぽど簡単なんです。
「その通りですね」と言って通り過ぎるほうが安心安全だし、フォロワーなんかも増えるでしょう。
でも、「私はこう考える」と書くためには、自分の立場をいったんしっかりと引き受けなければならない。相手の言葉をちゃんと受け取ったうえで、自分はどこに立つのかを示さなければならない。
だから、安っぽい共感よりも、敬意ある批判のほうが、思想に対してずっと誠実な場合がある。
最近、Substackで受け取る感想に嬉しさを感じるのは、きっとそのためなんですよね。
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ここで改めて、東畑さんの「勇気は、出すものではなく、もらうもの」という言葉に戻ってみたいと思います。
人は、自分ひとりではなかなか勇気を出せない。だからこそ、小説や映画や誰かの言葉や、共同体の中での誰かの小さな身振りに触れる。
誰かが、迷いながらも一歩踏み出している姿を見る。そのとき、自分の中にも少しだけ何かが宿る。昨日まで動かなかった身体が、少しだけ動き出す。
それが、勇気をもらうということなのだと思うんですよね。
でも、その勇気は、もらって終わりではない。もらった勇気は、いつかどこかで支払われるし、支払わなければならない。
では、一体どこで支払われるのか。
それは、自分が本当に大切だと思った思想を、私の生活や暮らし(人生)の中で、他でもなくこの私自身が引き受けるんだと決意した場面において、なのだと思います。
自分のこれまでの態度を少し変えなければならない場面や、違和感をなかったことにしたくない場面。怖いけれど、もう一度その場所に顔を出してみたりしようとするとき。
そういう本当に小さな場面によって、思想の代金はきちんと支払われていく。
大きな決断だけが勇気ではないように、思想の代金もまた、日常の本当に小さな場面で支払われていくものなのだと思います。
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そう考えると、Wasei Salonのようなコミュニティの意味合いも、また少し明確になってくる。
思想を語るだけなら、表のSNSでもできます。でも、その思想に自分が少し変えられてしまうことを、安心して試せる場所はそんなに多くない。
だからこそ「別世」が必要となる。
そして、今改めて思うのは、その別世は、ただの逃げ場所ではないということです。
別世とは、勇気をもらう場所であり、もらった勇気を小さく支払って自らに試してみる場所でもある。
新たな思想を、いきなり外の世界で大きく試すのは怖い。でも、信頼できる場所の中でなら、少しだけ試すことができるはず。
そして、その小さな支払いの積み重ねが、やがてその人の表の社会の生活さえも少しずつ変えていく。
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ただ、ここまで書いてきて、ひとつ正直に告白しておきたいこともあります。
「思想の代金は勇気で支払われる」と言うと、つい「だからあなたも勇気を出して思想を実践しなさい」という説教話になってしまいがちです。
でも、僕はここでそういうことを言いたいわけでは、まったくないんですよね。
むしろ、僕自身の中にも、まだ代金を支払えていない思想がたくさんあるのだと思います。
知識としては知っていて、引用もできる。人にわかりやすく説明することもできる。でも、その思想によって自分の生活が本当に変わっているかと問われると、怪しいものがたくさんあります。
だからこそ、今日ご紹介したウィトゲンシュタインのこの言葉が、これだけ深く刺さったのだと思うんですよね。
ウィトゲンシュタインの言葉は、誰かを諭すための言葉ではなくて、自分に突きつけられた言葉だったのだと思います。
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勇気は、誰かからもらうもの。そして、そんな相続した勇気によって、僕らは思想の代金を支払っていく。
最近ずっと考えていた勇気という言葉が、東畑さんの言葉と、ウィトゲンシュタインの言葉によって、少しだけ自分の中でつながった気がしました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
