F太さんがゲストのプレミアム配信回でF太さんが、ものすごく素晴らしい話を語ってくれました。

ぜひとも、通常回と合わせて2本とも直接聴いてみて欲しい内容です。



今日は、この配信を受けて自分なりに考えたことを、改めてこのブログの中でもゼロから書いてみたいなと思います。

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この点、配信の中でも話題になりましたが、家族ってよくも悪くも「腹を決める」関係性になりやすいなと思います。

以前もご紹介した、文学紹介者・頭木弘樹さん『絶望名言 文庫版』という本の中に、家族というものの特殊性について、とても興味深いことが書かれてありました。

非常にわかりやすいお話だったので、まずはこちらを少し引用してみます。

もし家族がなければ、誰も自分を特別視してくれないということです。
すべての人が、自分を、どうでもいい人としか見てくれないんです。その他大勢、有象
無象です。
これは大変な孤独だと思います。
たんに家族がいないさびしさという以上の、世の中全体が自分を気にかけないという、
とてつもないさびしさだと思います。
(中略)
でも、もちろん、家族のせいで、本当にひどい目にあっている人もいます。家族がいなかったら、どんなに幸せだろうという人も、もちろんいるわけです。
その両面ですけど。いずれにしろ、なんらかの強い感情がそこにはあるわけです。


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で、この家族的つながりの中で生まれる「余人を持って代えがたい」感覚が、いまとても大事だよね、というのが昨日のプレミアム配信の中で、僕が言いたかったことです。

なぜなら、AIはありとあらゆるスキルを無価値化し、能力によるお互いを求め合う感覚、そんな機能価値を無惨にも平準化してしまうから。

残るのは存在価値、つまり「あなたが『あなた』だから、私にとってはかけがえのない存在」であるという状態しか、お互いに相手の価値を寿ぐことができなくなるはず。

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ただし、ここで少し話はそれるのだけれど、どこまでもそういったお互いに家族的つながりに生まれやすい「腹を決める」関係性から逃げられるということが、現代の界隈文化・匿名文化の良いところでもあり、悪いところでもあるよなあと同時に思います。

たとえばこの点、昭和生まれの経営者や指導層のひとたちは、現代を生きる若者たちが、ナチュラルに嘘をついたり、ナチュラルに誤魔化したりすることをひどく嘆くわけです。

でもそれは、彼ら・彼女らが若いからではなくて、今が界隈文化・匿名文化であり、それが当たりまえの世界の中で育ってきているからだと感じます。

小説『世界99』でも描かれてもいるように、界隈ごとに演じている私がまったく異なれば、嘘ついたり誤魔化したりすることは、別に不思議なことではない。

むしろ構造的要因から、自然と導かれる、人間であれば当たり前の挙動です。

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これは逆に言うと、僕ら昭和世代が界隈を越境するときに発生する「矛盾」を眺めたとき、若い人たちの言動を「嘘」だと認識してしまうだけで。

でも、そこにあるのはそれぞれの界隈の中の「物語」だけであって、「真実」は藪の中。

これが良い例えかどうかわからないけれど、俳優さんや女優さんに「このまえの映画の中でああやって演じていたじゃないか!」と言ってみたところで「確かにそうですけれど、あれはあの映画という『物語』のなかの出来事であり、演技ですから…」と言われるようなもの。

つまり、一個人の身体に紐づいた主体性だけで生きてきた僕らと、界隈・匿名文化特有の「アバター文化」の中で育ってきた彼らとでは、嘘や誤魔化すの概念自体がそもそもまったく異なるということです。

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で、話をもとに戻すと、現代は大抵の場合はリスクヘッジだと言いながら、多くの人は、ただ逃げているだけです。

それは、僕自身もまったく例外ではありません。

というか、界隈・匿名文化においては、そうやってみんなが逃げきた、より楽な方へと流れてきた、水が高いところから低いところに流れるように逃げてきた、その末路だと思うのです。

そうやってある種の吹き溜まりのように広がってきたのが、今の界隈文化・匿名文化。
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もちろん、それにより豊かな表現やコンテンツがネット上で生まれたというメリットもあるわけです。

当然、裏垢であれば、心置きなく言えてしまうことも多いのですから。それはスマホ時代の今も、大河ドラマ「べらぼう」で描かれている蔦重たちの江戸時代でも同じこと。

裏垢での発言であり、個人が特定されなければ、社会的抹殺にあわずにも済むわけです。

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つまり、僕がここで何が言いたいのかと言えば、原因と結果が逆になっているということです。

僕らは嫌なことから散々逃げ続けてきた結果、そしてインターネットとスマートフォンという助け舟にのりまくった結果、界隈・匿名文化が自然に誕生したわけです。

そこにあった人々の原動力は単純に、ただ面倒なこと、自分にとって不都合なこと、気が乗らないことから「逃げたい」欲求だったはず。

でも今は、それが逆転し、コスパやタイパの実利やメリットのほうばかりが叫ばれて、それこそが隠れ蓑となってしまっている。

もちろん、実際に実利がある、メリットがある。でもそれっていうのは、本当の心の底にある欲望はただ逃げたいから、逃避したいからに過ぎないわけで。

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じゃあ、どこかでバシッと「もう逃げない」って決めないといけない。

ここからはもう絶対に何があっても逃げないぞ、と。

で、その歯止めとなるのがまさに「家族的つながり」や「家族的関係性」。

そこで生まれる「契約」なんだろうなと思います。この契約の効力の強さを逆手に取る、言葉悪く言えば、ハックしてしまえばいい。

でもこの契約というのは、コスパもタイパも、何もかも条件が悪い。

ただし、そこから逃げないという腹が据わった状態だけは必ずつくり出してくれるわけです。

そして、ありがたいことに、そのときにひとは明らかに目の色だけは変わるわけです。

退路を断たれたときの人間、そんな背水の陣となったときにひとは真剣な顔つきとなる。

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で、周囲の人々も、その腹が決まっているひとの顔つきに感化されるわけですよね。

なぜなら、現代の世の中にそういう人が圧倒的に少ないから、です。

どこまでも逃げられるし、逃げたい人には、本当にどこまでもまた別の逃げ道を用意してくれているのが現代社会。

薬物に逃げなくても、コンビニに行けばスト缶が売られているように。

ギャンブルやカルトから逃げても、スマホの中には推し活があるように。

多少の対価、いや時間さえ提供すれば、自分の代わりに嫌な仕事を全部請け負ってくれる。

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実際に、逃げたいひとのための保険やサービスなんて世の中には山ほどある。

それまで務めていた会社をやめるときも、退職代行業者が完ぺきに代行してくれる。

だとしたら、やっぱりどこまでも徹底して付き合うと腹が決まっていること。そして、そういうものに出会えるここそとが、逆説的に現代の一番の幸せであり、幸福の形なのかもしれないなと思うのです。

そういう「契約」をつくりだすのが、自分自身を決して裏切らないことにもつながるんだろうなあと思います。

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繰り返しますが、現代は、嫌だ嫌だ、逃げたい逃げたいと思えば思うほど足元を見られてしまう世の中です。

何かしら賢そうなこと言っているけれど、結局、自分にとって不都合なことが起きた瞬間に、ただ逃げたいだけでしょう?と見破られてしまい、

「あー、このひとはいま逃げたいんだな」と思えば、笑顔で優しく寄り添って、すべてをケアするように逃げ道をつくってあげると、いくらでもお金を支払ってもらえるのが現代です。

転職エージェントサービスなんて、その最たるもの。ただただそのカモになる、搾取される構造です。

もちろん、現代の祝祭やお祭り文化もそうですよね。一瞬嫌なことが忘れられるというのはつまり、現実からの逃げ道をつくってくれるということなわけですから。

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もちろん、それらが悪いとは言わない。

そうやって、助けを求めて息抜きやガス抜きも、ときには必要です。

でも逆に言えば、それは嫌だけど向き合わざるを得ないものこそ、自分の腹を決めた関係性がある中での一瞬のハレの日でもあるべきで。

そっちがメインになってしまうと、いくらでも逃げたい人間を、カモにしたビジネスの餌食となってしまう。

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ぼくにとってはもちろん、このWasei Salonが腹を決めた場所です。

みなさんとの「契約」を受けて、大きな「家族的つながり」をつくっているという実感は、とても強い。

ここからは絶対に逃げないと思いながら毎日運営をしていますし、だからこそ、どれだけ面倒なことがあったとしても幸福でいられているなと、実感しています。

あとは、イケウチオーガニックさんをお手伝いするときもそうです。

最後まで徹底して付き合うと、僕は腹を決めている。そう思わせてもらえる、イケウチさんのようなカッコいい企業が、この世界にあるといういこと自体が本当に恵まれているなといつも実感します。

この会社のためなら、どこまでも自分を捧げようと思える会社、そこで働く人々との関係性が自分に存在すること、いつだって一肌脱ごうと思えるひとたちに囲まれていることは、本当に幸福なことだなと思わされます。

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で、最後に僕はみなさんに「ついてきてくれるなら、いきましょう」と思って欲しい。

つまり、「だったら、腹を決めましょう」と自分の人生の中で思って欲しい。

ここでのつながりを担保にしながら、それぞれの人生の中で、その「勇気」を持つきっかけにして欲しいんですよね。

スパルタチックに「ここからもう絶対に逃げるな」とは絶対に言わないし、やらない。

それだと逆に心を閉ざすだけだということもわかっているから。昭和と同じ轍は踏みたくない。そうじゃなくて、ただただ話を聴かせてもらうだけ。

もちろん、そのときにも決して「ケア」的な態度で寄り添って、親切そうな顔をして、言葉巧みに逃げ道を用意してあげて、その逃げ道の過程でバンバン手数料を取るみたいなビジネスもしたくない。

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そうじゃなくて、「今あなたが直面している困難や葛藤は、確かに険しい道のりではあるのかもしれない。でもそれゆえに、あなたが今向き合っている葛藤にはものすごく価値がある、意味がある」と伝えたい。

「そして、わたしにとって、すでにあなたは余人を持って代えがたい存在だと思っているから、ともに参りましょう。あなた自身の『物語』を生きてください」という敬意と配慮と親切心を、向け続けていきたい。

「逃げずに、険しい道、困難な道のほうを共に行きましょう」と。

まさに、以前ご紹介した河合隼雄さんが語る「牛に引かれて善光寺参り」みたいな話です。


最終的には本当に価値ある態度はこっち、だと信じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。