いわゆる、1万時間の法則みたいなもので「8割程度までのスキルであれば、誰でも1万時間程度訓練すれば、到達することができる」とよく言われます。

でも、そこから10割、つまりプロ中のプロになったり、職人技に到達するのが大変だという話は、本当にいたるところで耳にしますよね。

で、この最後の2割というのは、血が滲むような努力を何十年も続けることだったり、そもそも天賦の才、つまり生まれ持ったセンスの問題だったりもする。

極端な話、意識や訓練の次元ではどうにもならなくて、生まれ持った遺伝子や身体性の違いだったりもするわけですよね。

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で、だからこそ、なにか一つのジャンルにおけるプロフェッショナルを目指さずに、8割の技術の掛け合わせによって、自らの独自性をつくりだし、新しい仕事を生み出していくほうがいいのだ、というような言説が広く語られるようになりました。

自分が到達した8割の技術の掛け合わせこそがオリジナリティである、のような感覚です。

ただ、僕がこの話を聞きながらいつも思うのは、この8割程度のスキルレベルにいま自分自身が到達したと思えるかどうかというのは、一体どうやって判断するのかという疑問なのです。

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なぜなら、8割程度になってくると、自分の見えている景色、その解像度も高くなっているタイミングであるはずなので、逆に完全にプロとの差に絶望に打ちひしがれているタイミングだったりもするはずなんですよね。

まさか、今の自分が8割のラインにいるなんて到底思えない。なんだったら、3割にも満たないと自らを卑下しているようなタイミングでもあるかと思います。

これはわかりやすく言い換えるならば、以前もこのブログの中でご紹介したことのある「ダニング=クルーガー効果」みたいな話にも、とてもよく似ているかと思います。

つまりあの話の中にあった「バカの山」から一気に「絶望の谷」に突き落とされているタイミングが、実は、まさに8割のラインなんだと思います。

そして、残りの2割の部分が、長い長い「啓蒙の坂」であって、10割に到達したラインが「継続の大地」にあたるのかなあと。

「ダニング=クルーガー効果」について、ぜひ以下の記事を参照してみてください。



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で、これは意外なことだと思われるかもしれないのですが、たぶん何か新しいことを同時並行的に始めるタイミングでベストなときは、きっとこの絶望の谷底にいるときだと思うんですよね。

ピンチがチャンスとは、まさにこのこと。

このときに、むしろ新しいスキルに何かしら挑戦してみて、8割同士の掛け合わせしてみようとしたほうがいいんだと思います。

絶望の谷にいるときは「自分なんて何も役に立たない、やっぱり自分なんて無能な人間なんだ…」と思いがちなんだけれども、その絶望の谷同士の組み合わせみたいなものが、実は、一番スキルとしては汎用性が高いのではないか。

それが、今日のこのブログの中で、僕が提言してみたい一番の主張になります。

例えば、わかりやすいところでいけば、文章力と写真を撮影する能力の組み合わせ、とかはたまた、オンライン上のスキルとオフライン上のスキルとか、対局にあるようなスキルの組み合わせというのは非常に汎用性が高いはずです。

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ただし、ここで厄介なことは、この絶望の谷にいるときは、まさに谷底の奥深くにいるたために、次に目指してみたい隣のスキルの山が、その位置からだと余計に高く見えてしまうことなんです。

だからこそ、新しいことにチャレンジすること自体も、かなり億劫で大変な気持ちになってくるわけですよね。

でもそこで、その高さというのは幻想であって、意外と隣の山は簡単に登れるもの、そしてそれは「バカの山」であり、また性懲りもなく谷底に突き落とされるんだ、それが現実なのだと楽観的になることができれば、決して辛くはなく気軽に挑戦できるはずなんですよね。

多くの人は、ここの算段を見誤ってしまうものなのかもなあと思います。

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逆に言えば、バカの山の上にいるときは、ドンドン前に突き進んでみてしまっても構わない。

多くのひとは、このバカの山の上で万能感を感じるので、また別のことに手を出してしまう。

でもその時の習熟度で言えば、大体3割程度、良くて5割です。それだと掛け合わせても大したスキルにはならない。

そこであえて、他の方向へと鞍替えする必要もないかと思います。真剣に取り組んでいれば、必ず一気に落とされるときはやってくる。

そのときに、無駄に酷く落ち込まないこと。

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そして、さらにここからより一層、独特な持論を述べてみたいと思っているのは、そのように絶望の谷の経験を各ジャンルごとに掛け合わせていくことによって初めて、啓蒙の坂を登っていくことができるのではないのか、という仮説です。

むしろ、これこそが啓蒙の坂を登るための必須条件なのではないかとさえ、最近は思うようになりました。

言い換えるならば、スキルの掛け合わせが坂をよじ登るために、必死で捕まるための「縄」のような役割をしてくれるのではないかと。

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これはイメージ像だけではなくて、実際問題もそうだと思っていて。

たとえば、スキルAを身に着けようと努力して絶望の谷に落とされるとします。

そしてなんとか這いつくばって、今度はスキルBに飛びついてみるんだけれども、またそこで絶望の谷に突き落とされる。

でもそのうちもなんとか這い上がろうとするから、そのときに自然とスキルBの試行錯誤の中で、スキルAも同時に駆使することになって、思わぬ使い道から、自分の中でブレイクスルーが不意に訪れるということは、往々にして存在するなあと。

そうすると、自然と学び続けることができますし、意図せず自らの中で工夫することにもつながっていく。

この工夫というのが本当に大事だなあと。

むしろ、同じ方面から、何度も何度も繰り返しぶち当たってみても、そこに創意工夫が存在しなければ、いつまでたってもまた同じ谷底に落とされ続けるだけです。

だから、押してダメなら引いてみろの精神が大事なんだろうなあということなのです。

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そうすることによって、結果的に各スキルに取り組む全体の時間自体も、長くなってくる。

それぞれのスキルによって、複業的な収入もうまれてくるから、市場で長く生き残ることもできて、実践という場面でも挑戦する時間も必然的に長くなってくるかと思います。

これがいくつか積み重なったとき、ひとは、気づけば唯一無二の独創性を手に入れて、他のひとには代替の効かない存在となり。自分だけの継続の大地へと足を踏み入れるのではないでしょうか。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。