現代は「真っ当な筋が通った批判」と「罵詈雑言」がほとんど同じものとみなされてしまっていて、それが本当にもったいないなあといつも思います。

そのせいで、良い意味において「口が悪い人たち」が完全に影に隠れてしまいました。

なぜなら、そういう賢い人たちほど「罵詈雑言を叫んでいるあのひとたちとは、一緒にされたくない」と考えるから。

また、インターネットを中心に、批判を全部悪口だと捉えるリベラルの罠なんかもある。

それは先日も書いた「公正さを盾にしたソーシャルビジネス」の記事でも書いたとおりです。


真っ当な批判を言ったところで、自分が「差別主義者」に仕立て上げられてしまうなら、言わないほうが良いという判断が働くのも、当然のことだと思います。

結局、昔みたいに「それは確かに的を得た指摘だ」と思えるものが、インターネット上からは一気に減ってしまった気がします。

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あとは、また別の理由として「正義の反対は、また別の正義」というように、相手にも相手の事情があるということも誰もが一様に理解できるようになったことも、非常に大きいなと思います。

このあたりも、インターネットが大衆化されたことによって、可視化されたことのひとつ。

人には人の事情があって、成るようにして成っているわけですし、そのうえで「もし自分がその当事者だったら」と考えたら、カンタンには言えなくなってしまったということも大きいのでしょうね。

これは逆の視点から言うと、いま官僚やマスメディアが完全にネット上で矢面に立たされていますが、この分野の人々だけが唯一、内側の人たちが、個人名において反論できない構造にあるから、今これだけサンドバッグのように言われたい放題になっているということも間違いなくあるはずです。

もちろん、官僚やマスメディアをやめた人たちが、その内情を語るようにもなってきたけれど、ソレさえもまた氷山の一角なわけですよね。

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結果的にインターネット上のオープンな空間には、目に入る批判の多くが罵詈雑言となり、基本的には取るに足らないものになってしまった。

それゆえなのか、顔と顔を突き合わせたオフラインの場で、直接会って話を聞かせてもらったりすると「もっと筋の通った、真っ当な尖った話が聞きたい!」みたいな話もよく聞くようになりました。

個人的には、これは結構意外な反応だなあと感じます。

てっきりもう、尖った話はうんざりだと思われていて、ケア文脈の一択かとと思っていたけれど、どうやらそうでもなさそうです。

特に、若い人を中心に尖った話を聞きたい欲求みたいなものが、いま復活してきているんだろうなあと。

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でもこれもよくよく考えると、当然ですよね。

コロナ禍で、ケア文脈が一気に花開き、「利他」のような文脈の話も多く語られて、インターネット上は罵詈雑言か、リベラリズム中心のケア論か、そんな振り切った話が多かった。

でももうどっちも、お腹いっぱいなわけです。

それでも、「何かが違う…」というのは、実際にみんなが思っていて、それを求めて探しに行くと、すぐに構造的欠陥に巻き込まれてしまう。

「違う!俺が、私が、知りたかったのはそうじゃないんだ!どうして、尖りすぎたものか、丸くなりすぎたものしか、この世には存在しないんだ!」となるのも痛いほどよく分かる。

じゃあ、その中間の議論、真っ当な批判はどうやって復興していけば良いのか。

現代のインターネット上のメディアにおける課題感みたいなものは、まさにここにあるなと思っています。

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この点、オンラインコミュニティなど、クローズドで語られているような話もあるとは思いつつ、それはそれで外側に広がっていかない問題もあるなあと思います。

実際問題、有料のオンラインサロンや有料メルマガなんかで、かなり尖った話は各所で語られているはずなんですが、それはその場に参加している人しか読むことができない。

ソレを覗き見することはできないし、シェアもされないから、外からは見つけにくい。

それこそ、シェアなんかしたら訴訟沙汰ですから、なるべく外に出さないようにという過度な忖度なんかも働くわけです。このあたりは有料コンテンツのわかりやすいジレンマだなと思います。

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この点、ゲンロンカフェの取り組みは、いつも上手だなあと感じる。

東浩紀さんが以前、何かの動画の中で語られていましたが、ゲンロンカフェは、いつも新規のドーナツの部分にいるひとたちに向けて話しかけていると、おっしゃっていました。

たしかに、ゲンロンカフェ、特にシラスの配信の場合は、興味があるゲストのときだけスポットで購入できたりもして、ゲストユーザーでもオープンでは語られない濃い話を直接聴かせてもらうことができるので、それが実際に機能していると思います。

ただし、とはいえゲンロンカフェを観るためには、時間とその都度の課金できる余裕ぐらいのお金が必要だし、求められる前提知識やコンテキストも、難易度が高いものも多いなあと思います。

語られている内容の時点で、ある程度の地頭の良さや読解力のようなものは求められてしまう。学歴なんかはどうでも良かったとしても、読書習慣があることだったり、最初から対象がグッと絞られてしまっている気がします。

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なので、今足りないのは、間違いなくこの「あいだ」や「あわい」の部分のはずなんですよね。

言い換えると、ペイウォールの中だからこそ言えるような話を、もっと適切に「表」部分、つまりオープンな場に出していくこと。

しかもそれは、切り取られて間違った形で伝わらないような形式において出す必要があって、たぶんここの部分は動画じゃないと思うんですよね。

動画はテロップが入ったスクショや切り抜き動画として拡散されてしまう。今はそうなることを逆算して、ありとあらゆる動画がつくられてしまっていると思います。

テキストコンテンツよりもある種、拡散性を持っているのが動画です。

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常々語っている音声コンテンツの価値も、きっとここにある。切り抜かれにくいこと。

そして、もっと重要なことは、そこにコンテンツを消費しに行っても、決してカモにされないということも非常に重要だなあと思います。

今は、ここが完全に等価交換となってしまっているわけですよね。

無料で見たり聴いたりできる場合、そこには配信側の意識・無意識関係なく、ガンガン広告が入る。

話が上手い人ほど、この織り交ぜ方が非常に上手。コンテンツそれ自体が広告になるように工夫されている。僕も含めてVoicyユーザーのほとんどが、そんな配信をしてしまっていると思います。

つまり現代は、音声も動画も、その多くが広告コンテンツになっているんですよね。

当然、売りたい商品は、自分たちの商品だから、スポンサード表記も必要ない。

昔の雑誌のように、どれが記事広告なのかわからないように、巧妙に作られてしまっているなあと思います。

実際に自分自身で広告コンテンツをつくったことがあれば、その見分けはつきやすいのだけれども、一般的にはそれは全くわからない。

真っ当な尖ったことを言ってくれているから、これは大丈夫だろうと思ったら、見事に商品に誘導されてしまったということも、起こり得るよなあと思います。

だから宣伝は宣伝、内容(本心)は内容と、切り分けてくれたほうが、今は一周回って親切だなとさえ思うレベルです。

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もちろん、これからは、ここが直接的には損がないような形で、自社商品に勧誘される。

それを可能としてくれているのがトークンでもある。カブアンドなんかも、もちろんそうです。

損はしない、貰うだけなんだから、何も悪い話じゃないと。だからトークン的なものは革新的なわけですよね。

でもそれも結局、新しい形の「広告コンテンツ」であるはずで。このあたりも、きっと理解しておいたほうが良いことのひとつだと思います。

相手の「時間」や「存在的価値」、今はその1票さえ獲得することができれば、ビジネスは成功するという時代でもあるわけですから。

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あと最後にこれは完全に余談ですが、こういう罵詈雑言の中でも的確に真っ当な批判をしようとした時に、「京都弁」みたいなものが育まれたのかもしれないと思うと、意外と納得感も出てくるなあと思います。

「どうして、そこまで捻くれた表現をするんだろう?」と京都弁にはずっと不思議に感じていたけれど、それぐらい屈折した表現にしないと、逆にその真意が埋もれてしまって伝わらないというのは、なんだかとても理に適っているような気もします。

コンテキストにコンテキストを重ねるような形にはなるけれど、それで初めて伝わる真意もある。言葉や言語って、本当によくできているなあと思います。

ちゃんと需要によって育まれているなと感じるし、「歴史は何度も繰り返す」ということでもある。

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なにはともあれ、若い人を中心に、実はもっと真っ当な尖った話を聞きたがっている。それを素直に語れる場所をつくることが、本当に大事になってきているなと思います。

来年以降は、このあたりのオンライン・リアル問わず、積極的に番組や場づくりをしていきたいなあと思っています。

より一層、政治とSNSが融合し、有象無象なメディア空間になることは、トランプ再選でもう確約されているようなものだから。

そのときに、ちゃんと議論や対話ができる場を今から淡々とつくりだしていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。