最近、為末大さんのオーディオブックや、Voicyの配信をよく聴いています。
そのなかで、「為末大学」というプロジェクトについて語られてある配信があり、そのキャッチコピーが「いざ、熟達の道へ!」というコピーだという話が語られていました。
詳しくはぜひ、本編を直接聴いてみて欲しいのですが、この「熟達」というのは本当に素晴らしいキーワードだなあと感じます。
それは、終わりがない探究心であり、真の「遊び」の追求でもある。そんな話が語られてあって、ものすごく納得感のある内容です。
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そして、文脈は全く異なれど、Wasei Salonの「私たちの”はたらく”を問い続ける」の「問い続ける」もかなり似ているところがあるなあと思います。
終わりがない探究心、そしてそれは労働や仕事ではなく「はたらく」という活動全般であって、決してそれは義務感などで行われるようなものではない。
生きることそのものを探求し続けるという意味を込めたくて、Wasei Salonのテーマは「私たちの”はたらく”を問い続ける」に設定したというのは、過去に何度も語ってきたところです。
それゆえに、為末さんの「熟達」の定義を聞きながら、とても共感しながら聴いてしまいました。
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ただ、これを聴いていて「熟達」というキーワードも大変素晴らしいけれど、やっぱり自分の場合は「成熟」を選びたいなあと思ったんですよね。
それは一体なぜだろう?と考えてて、その答えを探っていく中で気づいたのは、「熟達」という概念には「他者」の存在が希薄なんだということにハッとしました。
たえとえば、宮本武蔵は完璧な熟達者だと思います。
実際、為末さんも宮本武蔵の『五輪の書』のような本を書きたくて、ご自身の『熟達論』を書いたと語ります。
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でもじゃあ、宮本武蔵が成熟者なのかと問われたら、結構判断が分かれると思うし、むずかしいなあと僕は思います。
そして、きっと井上雄彦さんが描く『バガボンド』も、途中で筆が止まってしまった感覚は、ここにあるのではないかと僕は勝手に想像してしまいます。
激しい戦いによって、足を怪我したあとの武蔵の成長物語、それを熟達者として捉えて描くときに、どうしても他者との関わり合いを描かざるを得なくて、それが土いじりをして畑仕事をするような武蔵に向かったわけです。
そこには、同様に土をいじる農民たちとの出会いがあり、真剣勝負では決着がつかない、相手の論理と折り合い、ともに歩むという課題が浮かび上がってきたのだろうなあと。
つまり世間には、必ず他者が存在するわけです。
そしてそのままならない絶対的な他者と、真剣勝負をすることができない。相手には相手の論理があって、そことどうやって折り合っていくのか、その物語の提示が困難で、連載が止まっているのではないかと勝手に想像してしまいます。
殲滅の論理が許されるなら、わかり会えない他者は殺してしまっても良いんだろうし、お互いがそうやって「命のやり取り」をすることを前提に生きているから、武士道の美学がそこにある。
勝ち残ったものこそが、勝者であるわけですよね。
でも、それではもう現代には不適合というか、今の時代に見合った問いではないということなのでしょうね。
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これは、ジャンプ漫画の共通の問いでもあるなあと思います。
熟達を目指す者同士であれば、戦って爽やかに勝敗を定めて、「昨日の敵は今日の友」になれるのだけれど、現代はそういう楽観的なことを言っていられる時代ではなくなった。
『HUNTER×HUNTER』も長い休載のあとに、ありえないぐらいに登場人物が増えてカオスを極めていますが、あれは「他者のままならなさ」を見事に描いていて、現代社会そのものを表現しているんだろうなあと。
その主人公がクラピカであるというのも、納得感のあるところ。あの物語は、ゴンでは描けない。
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さて、この点、ChatGPTに「熟達」と「成熟」の違いについて聞いてみたところ、とても適切な答えを提示してくれました。
まず、熟達とは、特定のスキルや能力に対して高度な熟練度を達成することを指すそうです。
そして、成熟とは、個人や集団、あるいは物事が一定の完成度や円熟味を備えた状態になることを指す、と。
そして、これは必ずしも技術的なスキルに限らず、人格的な成長や価値観の深まりといった内面的な発展を指しているとも出力してくれました。これは非常にわかりやすい説明です。
さらに興味深かったのは「熟達は『磨き上げられた剣』のようなもの、成熟は『剣をいつ、どのように使うべきかを知る智慧』」という比喩で説明してくれました。
これは、まさに『バガボンド』の武蔵の葛藤そのものだよなあと思います。
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つまり、現代社会が直面する課題は、「熟達」から「成熟」への転換にあるともいえるのではないか、というのが今の僕の仮説です。
社会の壁や穴みたいなものも、きっとここにある。
具体的には、男性中心社会の、熟達者同士において、お互いの「匂い」を探り合い、その狭い世界で世界を動かしていたような段階から、一億層発信者になった社会において、どのように折り合い、互いに成熟へと向かっていくのが、現代の問いなんだと思うんですよね。
そして、僕自身もやっぱり世の中に対して、熟達者よりも、成熟者を増やしていくことが急務だと思っているんだろうなあと。
それは、自分自身のコンプレックスもまさにここにあると感じているからです。
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ちなみに、僕が「成熟」というワードを好んで使うのは、間違いなく思想家・内田樹さんの影響です。
参照:
葬送のフリーレンと鬼滅の刃の「悪」の認識の違い。
惻隠の情の発露は人それぞれ。倫理的な正しさなんて存在しない。
そんな内田さんはフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの研究者でもある。レヴィナスと言えば、圧倒的な「他者」の存在を研究した哲学者としても知られています。
で、成熟というのは、ともするとそんな他者との関係性において「べき論」や「〜すべし」という命題において行動規範を立ててしまいやすいなあとも同時に思います。
それがある種、リベラリズムの限界値みたいなところにもある。
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ここを次の世代が一体どのように乗り越えていくのかが、まさに今問われていることなんだろうなあと。
つまり、成熟を目指していた先人たちの「指」ばかりを観るのではなく、指さしている「月」のほうを目指す必要がある。
他者と衝突したときに僕らはどうしても「相手を変えるか、自分が変わるか。殲滅するか、棲み分けて分断するか」そんな二者択一で判断しそうになるけれども、それ以外の道を探求したい。
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最後に、これは言うまでもないですが、「熟達」と「成熟」、そのどちらが良い悪いではなく、どちらも同程度に非常に重要な要素であることは間違いありません。
強いて言うならば、過去に何度もご紹介してきた社会学者・大澤真幸さんの「共同性」と「目的性」にもつながる話でもあるかもしれない。
人々が目指しているのは、真の共同性なんだけれども、それに到達するためには、目的性を必ず経由しなければならない。
そして僕が思うのは、その目的性はもう「共通のものさし」である必要はないということです。
それぞれの目的性を目指してもいいはずであって、それが今日の話につなげると、それぞれの「熟達」を目指せばよいという話にもなる。
それぞれの熟達という目的性をおいて初めて、真の「成熟」を認め合える関係性が、そこに立ちあらわれてくるのかもしれない。
だからこそ、逆説的に、終わりのない熟達を目指すことが大事でもあるということでもあるのでしょうね。
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今日の内容は、これまで、為末さんの書籍を何冊も読み、Voicyなどでも多数発信してくれているものを聞きながら、「熟達」というキーワードについて多面的にふれながら、為末さんが様々な熟達の道を提示してくれたからこそ、気づけたこと。
そして僕自身も、為末さんとはまた次元が異なるとは思いつつも、そんな風に自己と対峙をし、探求していく過程が大好きだからこそ、そこだけにとどまらない「成熟」の道も、同時に必要不可欠だと感じているんだと思います。
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Wasei Salonに参加しているみなさんにおいても、私たちの”はたらく”を問い続けた先に、それぞれの熟達と、真の成熟が訪れて欲しい。
というか、そんな「成熟」をみなさんと一緒に迎えに行きたいなと思っています。
それが僕がこのコミュニティを運営する中での一番の願いであり、祈りであり、自らの人生の向かいたい先でもあるのだろうなあと。
なにはともあれ、僕自身が「成熟」というキーワードが重要だと思う理由がまたひとつ言語化できたような気がします。本当にありがたいことです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/12/13 20:39