以前このブログに書いた「目的性」と「共同性」のお話。

この話が刺さったと言ってくれる人はかなり多いなあという印象です。

今の社会の中で、特にコミュニティやケアの文脈において、非常に重要な論点だと思われている証拠なのでしょうね。

改めて振り返ると、人が求めているのは「真の共同性」なんだけれども、それは馴れ合いのような共同性では決して立ちあらわれて来てはくれない。

何か困難な目標としての「目的性」が存在しないと、人間が本当に求めている「真の共同性」には到達できないというようなお話です。

詳しくはぜひ、こちらの記事を読んでみてください。


目的性に振り切るわけでもなく、共同性に振り切るわけでもない。僕が考えたいのは、そのどちらにも振り切らない「第三の道」なんですよね。

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で、最近話題の「トンマナ消費」の話なんかも、まさにここにつながる話だなあと思っています。

トンマナ消費とは、昔の雑誌文化のように「〜をしている私」に浸って、満足するような消費スタイルを指しています。

このときに重要なのは、その”側”のほうであって、中身なんて大して関係ない、というかそもそも中身なんて見てもいない。

雰囲気の直感的な「好き・嫌い」で判断をして、私の好きなものに浸りたい、同一化したいという欲求で、最近の陰謀論やマスメディア不信からの選挙の結果なども、すべてこの「トンマナ消費」に紐づいてきます。

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で、このトンマナ消費は、インスタグラマーやユーチューバー発のブランドに”関わる”形になってきているなあと思います。

「なんで、こんなにもオリジナリティのない商品に…?」と思うけれど、そこにはむしろ独自性とかはいらないわけですよね。

むしろ、自らも当事者として関わって、生産側として携わっているというコスプレしたい欲求だから、それは有名な何かに似ていれば似ているほど良い。

そして、そのトンマナを自分たちで再現したという「物語」のほうに価値がある。つまり、その物語自体を消費しているわけです。

憧れていたアレを自分たちも再現したい、自分自身が子供の頃に憧れたその当事者でありたいというような欲望。

それは、絵に描いた「クリスマスパーティー」がしたいとか、絵に描いた「文化祭」をしたいみたい欲求なんかと似ていて、憧れていたものに、直接似ていないと意味がない。

だからこそ、別にそこにオリジナリティはなくてもいいし、逆に言うとオリジナリティがあると困るわけです。

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そしてさらにここに、生成AIの登場です。

メジャーなあのコンテンツやあのブランドの商品のパクリだって言われないための方法を、今はいくらでもAIが適切に複製してくれる。

つまり、そのコスプレするための適度なオリジナリティをつくり出す面倒な作業は、いくらでもAIが代替してくれる時代でもあるわけですよね。

だからきっと、これからはそんなふうに「みんなでトンマナ消費、コスプレ消費をしましょう!」という呼びかけは、ドンドン増えていく。

具体的には、「ポケモンを消費するのではなく、ポケモンのようなものをつくる側に回ろう!」とか「ポパイやオリーブなどマガジンハウス文化を消費するのではなく、そのマガジンハウスのような雑誌や書籍をつくる側に回りましょう!」とか。

昨今の文フリの盛り上がりなんかも、きっとそうだと思います。

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だから今の最大の愉悦は、お金を稼いで無限に対象を消費することができることよりも、自分たち自身がその作り手になったほうが、より対象に同一化できる。そんな世界観への同一化欲求なんです。

本来、これまでの世の中で、つくり手になるには自己鍛錬を繰り返し、厳しい試験を乗り越えて、会社に入らなければ行けなかったわけだけれど、今はもう有料のコミュニティに参加するだけでいい。

これからは、そういうコミュニティが無限に溢れかえると思いますし、そこでトークンエコノミーも思う存分活用される。このあたりは、あまりにも相性が良すぎるなあとさえ思います。

それが最近よく語られる様になってきた「みんなで豊かになりましょう!」という呼びかけの実態だと僕は思っています。

今は完全に、このトレンドだということでしょうね。

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だから、変な話なのだけれど、自分が作り手側にまわることこそが、今の時代の最大の「記号消費」でもあるということなんだと思います。

生産側こそが「記号を消費している」という逆転現象。

生産者側や提供者側に回っているのだから、まさか自分たちが「消費」をしているなんて誰も思っておらず、余計に盛り上がっていく現象。これで晴れて自分も消費者ではなくなった、と。

でもそれは紛れもない記号消費なんですよね。

もちろん、当事者同士でそれで満足なら、何も問題はないと思います。

そして、これからの時代においてコミュニティを盛り上げたければ、そんな「トンマナ消費」を打ち出していくのが間違いなくいいと思います。

「このトンマナで、みんなで豊かになりましょう!」という記号消費を売りにするのが、現代の圧倒的な正解。

あとは、そもそも「世の中はそんなコスプレ欲求で経済が回っているんだ」と開き直れば、それもその通りだと思うし、その主張は何も間違っていないと感じます。

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でも僕は、個人的にはそこには同調したくない。

それは、なぜか。

これは過去に何度もご紹介してきた仏教の「指月の譬」、その誤りの典型例だと思うからです。


先人たちが、せっかく月を指差してくれていたのに、その先人たちがあまりに魅力的であるがゆえに、その指のほうばかりに注目して、指自体を再現してしまっている状態。

つまり、問いの角度を変えると「トンマナ消費」と「正しい継承」の違いってなんだろう?ってことでもある。

それは「月」を見ているかどうかであって、月を見た場合は大抵の場合、決してコスプレにはならないはずで。なぜなら時代は常に変わっているわけですから。

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だから、くれぐれもここで誤解しないで欲しいことは、僕はトンマナやコスプレの本家をバカにしているわけではないということです。

むしろ尊敬し、敬意を持っているからこそ、それをもう一歩踏み込んで、しっかりと丁寧に深堀りをして「自分はなぜそれに憧れたのか、なぜ惹かれたのか」を考える必要がある。

そうやってコスプレの次のフェーズに踏み込まないと、本当に自分に対して、影響を与えてくれた人々やコンテンツ、ブランドを裏切ることになるんじゃないかと思います。

良かれと思って、せっかく尊い教えを開いてくれた開祖が一番喜ばない形になってしまっているのとまったく一緒です。

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だからやっぱり「犀の角のようにただひとり歩め」なんですよね。自灯明、法灯明のあの話です。

ここで最初の話題にもつながり「目的性」を共通のプロジェクトや共通のものさしにしない勇気のほうが、今は重要で。

多くの人は、「目的性」は「共通のものさし」にしないといけないと勝手に思い込んでいる。そうやって、ジャンルで当てはめたほうが楽ですからね。

お客さんにも伝わりやすいし、わかりやすい。でも、そうじゃない。そこでグッと思いとどまりたいなと僕なんかは思う。

目的性ほど、本来はそれぞれ個別具体的のほうがいいはずなんです。

「それぞれに、それぞれの道を問い続ける」でも、本来はこれが一番厳しく困難な道であるはずで。

だからこそ、同時に共同性、つまりコミュニティも必要で、遠くで同じような困難な道を歩んでいるという仲間を見つけて、さらにそのひとと私は確かに深いところでつながっていると思えるかどうか。

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凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』の中に描かれてあった言葉が、まさにそれを上手に表現しているなあと思います。

「けれどわたしとこの人はつながっている。嵐の海の中で、遥か遠く、自分と同じく一羽で飛んでいる鳥が見えたような心強さ。ひとりでも、けっして孤独ではないのだと。」


仲間を見つけるとすぐに近づきたくなってしまうけれど、適度な距離を置く。しかし、深いところではつながっているという実感。

まさに木津歩さんの名言「群れずに、群れたい」という話だし、せっかく1回きりの人生、他人のコスプレをして満足するのではなく、ここを歩もうとしないと人生は嘘だよなあと僕なんかは思ってしまいます。

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そして、さらに、そうやってお互いに飛んでいると、ジャンルは違えども、その「姿勢」に対して共感するということも起きてくる。

同じ姿勢だということを、共に発見し合う。それは「匂い」みたいなものであるはずで、僕はこっちだと思うんですよね、コミュニティの本来の価値は。


決してトンマナ消費やコスプレ消費を一緒に行い、メンバーの見た目を揃えて、相手の同一化欲求を実現してあげるような場ではない。

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この姿勢や匂いに共感し合える関係性を作り出すことが、今コミュニティ運営において非常に重要なことだと思っています。

最近は、なんだかそんなことだと思っています。うまく伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。