僕は常々、不思議に思っていることがあります。
自由競争における「弱肉強食、優勝劣敗」の世の中を肯定する人は必ず「明日も、今日と変わらない私が存在している」という前提で語り出す。
でも、「明日も変わらない私」なんて、全くの幻想でしかないと僕は思います。
不慮の事故や病気、自然災害や会社や国家など自分よりも大きな組織の危機などによって、いくらでも今の自分というものは変わりうる。
明日も変わらない私が存在している保障なんて、どこにもない。
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だとすれば、できる限り余裕のあるうちに、たまたま今の社会制度において、社会的弱者にいる人々のほうに合わせたほうが、誰にとっても住みやすい世の中になると思うのです。
しかし、なぜか人々の感情がソレ許さない。
僕は、ここにとっても興味があります。
つまり、どうして人は弱者に寄り添うことに対して、苛立ちを覚えるのか。
それはきっと、誰もが必死で努力してきた過去があるからだと思います。
言い換えれば、折り合いをつけてきた過去がある。
つまり、自分の努力が「紙切れ」同然になってしまうことを極端に恐れているのだと思います。
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誰だって、「社会的に価値があるから」という理由で、我慢しながら歯を食いしばって蓄積してきた努力(有形無形問わず)があるわけだから、
明日から「ソレが紙切れになります」と言われたら、恐怖を覚えるのは当たりまえ。
だからこそ、自分のこの努力か水の泡になってしまわないように「自己責任論」を印籠のように掲げて、その努力を怠った人間が悪いのだと石を投げ、今の自分を肯定したくなるのでしょう。
以前書いた「繊細さん」に対して僕がずっと抱いていた違和感に関する話にも、非常に近い感覚だと思います。
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そうだとすれば、その発想を変えて「紙切れにはならない努力」を、ひとりひとりが積み重ねていくことのほうがいいのではないでしょうか。
たとえば紙幣は、みんなが紙幣だと信じているからこそ、そこに社会的な価値が表象されて、共同幻想になる。
しかし、一方で、たとえば同じ紙で作られたモノであっても、「大切な人からのこの手紙」は、みんなが信じているからという理由で、そこに価値が宿っているわけではない。
他の誰でもなく、この私にとって価値がある。
それと同じように、日々の努力や毎日の経験も、この私にとっての価値を大事にして、淡々と積み重ねていく。
そうすることで、私のこれまでの人生が「紙切れ」になることを恐れる必要はなくなります。
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つまり、各人が社会的評価とは切り離して、「私にとっての価値」を日々積み重ねていくことで初めて、
今この瞬間に、たまたま社会的に弱い立場にいる人たちに寄り添えるようになるのだと思います。
次第にそれが自分ごとのようにも思えてきて、そもそも境界なんて初めから存在しなかったと気付く。必死で石を投げて、自分の目に入らないように拒絶しなくても済むようになる。
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繰り返しますが、明日の自分と今日の自分が同じである保障なんてどこにもない。
むしろ、明日の不連続な自分のために、今日できることは、誰にとっても住みやすい、暮らしやすい社会をつくっておくことだと僕は思います。
それは、先人たちが長い歴史の中で絶対に奪ってはならない「人権」を必死で獲得してきてくれたように。
いま、社会の価値観がバタバタと音を立てながら大きく変化しているタイミングだからこそ、とても大切なことだと思います。
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2021/07/13 11:27